Text by 生田綾
Text by 藤田直哉
新海誠監督の新作『すずめの戸締まり』が公開してから1か月が経ち、85.9億円を超える興行成績(12月11日時点)を叩きだしている。
題材は東日本大震災だ。『君の名は。』(2016)以降、「国民的作家」となった彼の最新作は、一体どういうものなのか。「3.11を経験していない子どもたちが成長してきているなか、いま震災を描かなければいけない」という思いがあったと明かした新海が、12年経って震災を描いた意義や、それがどういうものであったか、作品に込められたメッセージとは何か、読み解く。
※結末までのネタバレを含みます。
『すずめの戸締まり』は、勇猛果敢にも東日本大震災を直接扱った作品である。『すずめの戸締まり』に続く『君の名は。』、『天気の子』(2019)と、三作とも「災害」を扱い、「神道」を重要なモチーフにしてきた。それは、震災など自然災害に翻弄され続けてきた日本において、「生きる」ということはどういうことかを問い、提示するという、日本のエンターテイメント映画の伝統を引き受けるためと思われる。
そもそも、新海誠が幼少期から強い影響を受けてきた宮崎駿監督も「災害」と「アニミズム」を描いていてきており、長らく日本の興行成績1位だった『千と千尋の神隠し』は、まさに日本の「八百万の神」を描いた作品であった。
宮崎作品には、『風の谷のナウシカ』(1984)における「大海嘯」(津波)、『崖の上のポニョ』(2008)における台風と津波、『風立ちぬ』(2013)における関東大震災などのように、巨大な災害が執拗に頻繁に描かれてきた。そして、「無常」などのかたちで自然災害を受容してきた日本の人々が、自然災害のように受けとめてしまった「戦争」の問題も問い続けてきた(これは堀田善衛『方丈記私記』の影響によるものだと思われる)。
巨大な自然災害が起こり続ける列島で生きてきたことからくる「カミ」=「巨大な力」の感覚をベースにした信仰の文化を持つ日本が、敗戦や、科学技術立国化をどう受け止めるか。宮崎駿が「国民的作家」として成功した背景には、彼の描く主題がこのような戦後日本を生きる人々の心理的な課題に沿ったものだったということが考えられる。それが戦後の日本列島で生きる者にとっての、無意識レベルでの課題であり、大きな葛藤であったのだろう。
新海誠は、おそらくは、この主題系を「国民的作家」として引き継ごうとしている。
災害などの巨大な力に振り回される一方、狩猟採集や農耕などにおいて豊かな恵みをもたらしてくれるこの「自然=カミ」とどう付き合っていくべきなのかを、気候変動や巨大災害などが将来に予測される未来に向けて、アニメーションを通じてつくり直そうとしているのだと言っても良い。
以上を大前提とした上で、本稿で問題にしたいのは『すずめの戸締まり』は何を閉じたのか、ということである。文字通りの意味では、災いをもたらす「ミミズ」を閉じた、鈴芽が「過去」に決着を付け喪の儀式をひと段落させた、というのが答えである。
しかし、新海作品を含む日本のアニメーションには、隠喩や寓意を多重に仕組むというハイコンテクストな性質がある。
そこで、「ミミズ」を閉じることには、ほかにどんな意味があると考えられるのか、そしてそれが現代社会に対するどのように働きかけなのか、ということを論じることにする。
新海監督は本作について、「かつて栄えていた場所や街が、人が減って寂びれていったり、災害で風景が失われてしまったり。最近そういう場所が日本中に増えているなという実感があったんです」(*1)と述べ、そこを「鎮魂」する物語をイメージしたと語っている。
震災の記憶を想起し、追悼し、喪の儀式をひと段落させる。それが『すずめの戸締まり』の基調だ。しかし、そこには複数の意味が重ねられている。
東日本大震災で、津波の被害に遭った被災地の写真 / Shutterstock
その意味を考えるうえで重要なのが、「アガルタ」だ。「アガルタ」とは、新海作品に折に触れて登場する、架空の世界の名前である。物語の終盤にすずめが実家の庭で見つけたクッキー缶には「Agartha」と書いてあるが、その言葉は1作目『ほしのこえ』(2002)では宇宙の彼方の惑星の名として、4作目『星を追う子ども』(2011)では地下世界の名前として登場している。
この「アガルタ」とはいったい何なのか。由来は、新海が大きな影響を受けた乙骨淑子の児童文学『ピラミッド帽子よ、さようなら』からである。『ほしのこえ』では、SF少年であった新海誠にとっての、宇宙・未来・異世界など、「遥か彼方」に存在する夢の世界の象徴であった。そして『星を追う子ども』では、失った死者を追って降りていく地下世界=「死の世界」の名称であり、そこは古き良き日本やアジアのような郷愁を誘う理想世界のように描かれていた。
『すずめの戸締まり』は、「死」と「喪」の物語として――そして、死者との再開と復活を断念する物語として――『星を追う子ども』の語り直しという側面のある物語である。なので、ここでは『星を追う子ども』をもう少し掘り下げたい。
この作品の主人公は小学生の明日菜だが、新海が「裏の主人公」として挙げているのが、主要登場人物の一人である中年男性のモリサキだ。モリサキは失った妻を求め、かつてあった理想的な過去のような世界(アガルタ)を探しており、妻を甦らせようとしていま生きている明日菜の生命を犠牲にしようとする。
存在しない妻や争いがない理想世界を求める彼の心情は、「オタク文化」のユートピア願望の象徴だと解釈することも可能だ。(努力や競争や苦労のない世界に留まりたいという願望は、幼少期や胎内回帰の衝動として現われるがゆえに、しばしばアニメやゲームなどにおいて、オタクの願望のユートピアとして「母」が描かれてきたという系譜がある。)
つまり、『星を追う子ども』は、「理想の母」的な存在に包まれた世界に逃避したい願望を持つモリサキが挫折、断念させられるという話だった。
では、『すずめの戸締まり』はどうなのだろうか?
本作においても、「母」は重要な存在だ。物語は幼い鈴芽が母親を探すところから始まり、鈴芽は高校生になったいまでもその姿を追い求めている。終盤、鈴芽が4歳のときに震災で母親を失った震災孤児であることが明らかになるが、母を探していた鈴芽が偶然後ろ戸をくぐって迷い込んだ「常世」の世界は星が異様に輝く煌びやかな世界として描かれている。そこは、現実以上に素晴らしく見える場所である。
©2022「すずめの戸締まり」製作委員会
一方で、震災後の現実の世界は灰色だ。2011年3月11日以降の鈴芽の日記は真っ黒に塗りつぶされている。灰色の「現実」の世界と、煌びやかな「常世」の世界。「常世」は、アニメの世界や人々の追憶のなかで理想化されるような、この世にはない理想的で美化された世界全般の象徴のようにも見える。
しかし、鈴芽は「常世」の世界の向こうに行くことはできない。それは、スクリーンに映った映像のように、平面的で厚さのない「幻」として表現されている。母を探して迷い込んだ「常世」で鈴芽が出会ったのは母ではなく、高校生になった自分自身だった。最終的に、その世界に失った「母」は存在していなかった、という結末を迎えるのだ。代わりに、4歳で被災した鈴芽を慰めるのは、成長した鈴芽自身である。
©2022「すずめの戸締まり」製作委員会
なぜ、そうしたのか。新海はこのように綴っている。「他者に救ってもらう物語となると、まず救ってくれる他人と出会わなければいけない」(*2)が、そもそも他人と出会えなかったら、そこで終わりだ。しかし、誰でも「自分自身には出会える」。だから、誰かに助けてもらうのではなく、自分で自分を救う、セルフケア的なメッセージを込めた物語にしたのだと。
高校生の鈴芽は、常世で出会った幼い自分に、「あなたは大人になっていく」と言葉をかける。つまり、これは「大人になる」ことを励まそうとする物語でもある。
『星を追う子ども』が、死者のいる世界や「理想的な母に包まれていた頃」への回帰願望を持つモリサキの心情を何とか断念させる話だったとしたら、「アガルタ」と書いてあった箱を掘りだし、現実よりも遥かに煌びやかな世界に「母」を求めて迷い込み、その世界に行かないように留まり、この現実世界に戻って来る『すずめの戸締まり』も、こう解釈できるのではないか。現実に存在しない「母=理想世界」を追い求めるのをやめて、その心情を「閉じよう」。「鎮めよう」、と。
また、真っ黒になった世界は震災で故郷や家族を失ったものだけでなく、生きる希望を失ったすべての者の心の象徴とも見れるだろう。
新海は自作を「バンドエイド(絆創膏)」に喩えており、一時的に休んで傷を直す場として考えている。アニメの世界や、追憶のなかで理想化されるような世界全般を象徴しているような「常世」の世界を、灰色の世界に帰って生きていくための励ましと勇気を一時的に得る場だと考えているのだろう。それは傷を癒し、励ます効果のある場所ではあるが、そこに留まり続けたり、奥に進もうとしては「死」が待っているだけだ。『星を追う子ども』が参照した『古事記』でも、あの世から戻るときに振り返って死者を見ると、醜悪な腐敗した身体がそこにある。
その空間を「戸締まり」するということは、この世に存在しない理想的な世界の幻想への執着を鎮める、ということを意味しているのではないか。
©2022「すずめの戸締まり」製作委員会
ところで、本作は当初、女性同士のバディものとして構想されていたという。これまでの新海作品とジェンダーの役割が逆転していたり、性的な表現が抑制されていたりするだけでなく、これまでとは違ったジェンダーの描き方(シスターフッド的な)が意図されていたと推測できることも、注目すべき点だ。そのことも、ここまで記述していたことと同じ意図の表現であると解釈できる。
新海誠作品では、巫女的な要素のある女性、文学を愛する少女が「聖なる」存在として描かれる傾向があった。
たとえば読書好きの少女が登場する『秒速5センチメートル』(2007)では、幼い頃に仲の良かった主人公が、少女と離れ離れになり、電車で会いに行き、キスをするシーンが描かれる。その瞬間「永遠とか心とか魂とかいうものがどこにあるのかわかった」という絶対的な瞬間が訪れるが、しかし人生においてこれ以上の経験が訪れず、それが「呪い」になってしまう。それは「上書きできない、巨大すぎる幸せのピークだった」(*3)と監督は言う。
そして大人になった少年は、彼女をいつもどこかに探している。喪失した理想的な世界、聖なる女性。その特別な瞬間を希求しながらも、それが手に入ることはない。
ゼロ年代以降の「オタク文化」において、キャラクターは到達できない「無限遠」の対象になり、その接近衝動や近づきたいという焦燥感は「萌え」と呼ばれた。
『君の名は。』では三葉が巫女として文字通り「聖女」として描かれ、『天気の子』でも陽菜は天気を操る巫女だった。だが『すずめの戸締まり』では、このような「聖女」――オタク文化における現実離れした幻想の側面、ロマンの対象と化した理想的な女性像――が禁欲されているように見える。シャーマンの要素を持つのはむしろ男性である草太に設定され、鈴芽の服装はロングスカートになり、男性たちの欲望を煽るようなフェチズムを後退させる努力を行なっている(それでも、椅子に乗るシーンなどを含め、随所にあるのだが)。
©2022「すずめの戸締まり」製作委員会
これも、先に述べた「存在しないものに執着し続けるな」、「大人になれ」というメッセージとつながっているのだろう。この世に存在しないような理想的な女性――たとえば、見た目は少女で、母親のように面倒を見てくれる聖女――を求めるな、ということであろう。
代わりに本作で強調されるのは、全国各地での女性たちの「生活」である。現実に即した暮らしや労働などが、具体的に描かれている。これは、これまでの新海作品にはなかったことだ。皆が善人過ぎるのではないか、というきらいはあるものの、これまでのような「女性を聖女として扱う」のではなく、この世界に存在し生きて生活している「人間」として表現しようとする努力があちこちに感じられる。
ジェンダーの描き方に変化がみられるのは、単純に時代の影響や、これまでと異なる客層に自作を好きになってもらうためのチャレンジのだめでもあるだろう。
しかし、それだけではなく、中盤に少しだけ登場する「天皇」と関連づけて解釈すると、従来の日本の「家」的なあり方をより自由な方向に変えようとする気配も感じられる。
東京の「ミミズ」の後ろ戸は皇居の地下にあることがわかるのだが、そもそも人々を災害から守るために人知れず祈っているという「閉じ師」の設定は、天皇の行なっていることと似ている。新海監督自身もティーチインで、閉じ師は「裏天皇」という発言をしたという情報もある(いろいろな議論は、こちらのTogetterにまとめてある)。
国家という言葉には「家」がついているが、日本には国家や集団を「家」のメタファーで考える文化的な無意識が存在している。そして、明治末期に成立した家族国家観において、天皇は「国民の父」であり、国民は「天皇の赤子」であるという考えが広まった。現在も続く家父長制度を擁護する人や、LGBTQや夫婦別姓などに反対する保守主義者の考えのベースには、この国家観が影響をしているのだろう。
新海は前作『天気の子』で血縁のつながりがない貧困層の若者たちが、非血縁の家族共同体を作り上げることを描いていた。そして、今作の中心人物である鈴芽と叔母は直接血の繋がった親子ではない。
それを考慮すると、男性と女性の役割をこれまでの自作から逆転させ、女性同士のコンビにしようとした狙いなど、『すずめ』のジェンダーの描き方からは、従来の日本の「家」的なあり方をより自由な方向に変えようとする気配を感じないだろうか。
むしろ、国家観=ナショナリズムにおいても、天皇を中心とした中央集権とするのではなく、「閉じ師」的な人知れず皆のため世界を維持するために働いているエッセンシャルワーカーたち=「裏天皇」の存在を強調することで、民主化・多元化を志向していないだろうか。そして、いろいろな地域が「災害」をベースに可傷的な存在としてケア的な連帯の回路を作っていくような、新しいナショナリズムのかたちを提案していないだろうか。それは、潜在的に災害や戦争の脅威にさらされている全世界の人々を連帯させる、災害インターナショナリズムにつながりうるものだ。
このように「家」や「国家」を書き換えることが、本作のテーマとどう関係するのだろうか。それは、彼らが閉じた戸のある場所が、被災地ではなく、かつては繁栄していた場所だったことを想起すると、解釈しやすくなる。
筆者は1983年生まれだが、筆者の若い頃は未曽有の好景気で、日本は繁栄と平和を享受していた。しかし、1990年以降は長期不況になり、就職氷河期、少子高齢化、気候変動、パンデミックなど、暗いことばかりである。日々の過酷さの中で、「1980年代に戻りたい」というノスタルジーに駆られないかと言えば、噓になる。
かつてあった「良かった時代」は、理想化され、輝かしいものに思われてくる。『星を追う子ども』で描かれたアガルタのように。それを蘇らせたい、戻りたいという衝動にも駆られる。……だが、戸の中に見える過去の世界は、幻に過ぎないのだ。決して戻れないし、たどり着こうとしても待っているのは死である。だからその気持ちを断念するのだ――というのが、本作の「喪」「鎮魂」の意図の一つだろう。
過去を美化し戻ろうとする衝動は、全世界に見受けられる。偉大なるロシアをふたたび、メイクアメリカグレートアゲイン、日本を取り戻す……。だがそれは、美しい「幻」に過ぎず、そのような理想世界は、本当は存在していなかったのではないだろうか。それを追い求めるのは幼すぎるのではないだろうか。地に足をつけて、大人になって生きようじゃないか(このような思想は、おそらく、空よりも地面を多く写し、水平移動などを駆使した撮り方にも反映されている)。
あまりに過去に戻ろうとし過ぎると、むしろ、新たな災いを引き起こしてしまうのではないか。
『星を追う子ども』では、過去を取り戻すためにいま生きている子どもが犠牲にされそうになったが、そこで「生きている者が大事だ」という決断を登場人物の一人が示した。彼は「喪失を抱えて、なお生きろと声が聞こえた。それが人に与えられた呪いだ」とも言う。
『すずめの戸締まり』と、主題の基本は変わっていないことが分かる。「アガルタ」、つまり、人が憧憬し追い求めてしまう、この世に存在しない夢や幻の象徴は、「閉じられる」。
それが大人になるということだ。成熟するということである。あるいは、成熟した国家になる、ということではないか。
本作は、喪失を受け止めて、前向きに、必要なことをしようと、訴えかけているのだ。