Text by 川谷恭平
Text by 有元健
サッカーというスポーツは、なぜ見る人々に強烈な興奮や、「私たち」という一体感を与えるのだろう。アカデミックなアプローチでサッカーを研究する社会学者の有元健氏に、サッカーに対する社会的・歴史的な理解を深めるためのブックガイドを執筆してもらった。選手のプレーやチームの戦術分析だけでは見えてこない、サッカーの面白さとは?
「FIFA ワールドカップ カタール2022」のグループリーグで日本代表は強豪国のドイツ、スペインに逆転勝利を収めた。現地の日本代表サポーターの熱狂と興奮が映像で伝わってくる。決勝トーナメントではPK戦の末クロアチアに敗れ、ベスト8進出は叶わなかったものの、日本代表の快進撃に注目が集まった。
興奮、喜び、怒り、そして悲しみ……。これらの強烈な感情をサッカーは人々に与え続けてきた。だがそうした感情はどのような社会的文脈のなかで生まれ、そして人々をどこへ導くのか。この問いこそ、サッカーを社会学的に考え始めるための出発点となる。まずは舞台をロンドンに移そう。
No One Likes Us, No One Likes Us,
No One Likes Us, We Don’t Care!
- 訳:「みんなオレたちのことを嫌うが、オレたちは気にしない」試合中に誰からともなく始まるこのチャントは瞬時に周囲のファンを巻き込みながら拡大し、情動のうねりとなってピッチ上の選手たちを鼓舞する。ロンドン南部、サリー・キーズ駅から10分ほど歩いたところにひっそりとそびえる「ザ・ニューデン」。
2022年現在イングランド・チャンピオンシップ(1部リーグ)に所属するミルウォールFCのホームスタジアムである。1万5000人も入ればほぼ満員となるこのスタジアムから私のサッカー文化研究は始まったといえるだろう。
ミルウォールFCはロンドンのテムズ川沿いに位置する港湾労働者たちのコミュニティーを象徴するクラブとして、古くからサッカーよりもむしろその「荒々しい」ファンによって名を馳せてきたクラブだ。
映画『フーリガン』や『フットボール・ファクトリー』といった、イギリスのフーリガンを描いた映画には必ずといっていいほど登場するし、古くはスティーブン・フリアーズ監督の『マイ・ビューティフル・ランドレット』で若きダニエル・デイ=ルイスが演じた下層階級の若者ジョニー、最近では2014年に公開されたアクション映画『キングスマン』の主人公エグジーが、それぞれミルウォールファンという設定である(※)。
こうした映画でミルウォールが登場するのは、それが「イングランドの男らしい労働者階級のクラブ」という記号的な意味合いを持っているからだ。
いまから25年ほど前だろうか、大学院博士課程に進んだものの何をテーマとして研究をすればいいのか途方に暮れていた私は、このミルウォールファンについての社会学的研究と出会った。
ザ・ニューデンのほど近くにあるロンドン大学ゴールドスミス校に勤めていた社会学者レス・バック氏は、イギリスの人種差別とサッカー文化の関係について研究しており、ミルウォールのファン文化もその調査対象となっていたのだ。
戦後のイギリスは多くの移民を受け入れたが、1960年代後半から反移民勢力が台頭し始めると、移民労働者の居住地域となっていた南ロンドンは白人住民と移民たちの衝突の舞台となった。
ミルウォールのホームスタジアムでもまた、ミルウォールファンから相手チームだけでなく自チームの黒人選手たちさえ差別するような言葉が投げかけられた。
だがバック氏が見出したのは、サッカーの文脈における人種差別はたんに人種的さげすみという「野蛮な行為」なのではなく、イングランドを白人のコミュニティーとして定義したいという欲望や、どの人種・民族がサッカーに必要な男らしさを持っているかといったステレオタイプ的イメージと強く結びついていたことだった。
当時のイギリスでは人種差別という行為は教育がなく文明化されていない労働者階級のフーリガンたちのやることだと考えられていた。メディアでも、ミルウォールファンはまさにそれを体現するものとして表象されたのだった(その反動として冒頭のチャントが生み出された)。
しかしながら現実には、人種差別はサッカークラブの経営者陣のようなエリートたちのあいだにも存在するし、イングランドを白人の国だと考えたい多くの人々の想像力にも潜んでいたわけである。
バック氏の研究はサッカーが生み出す熱狂にただ心を奪われるのでもなく、あるいはサッカーをめぐって発生する人種差別を非道徳的で逸脱的な行為として単に片づけてしまうのでもない。
その背景にはどのような社会的・歴史的条件があり、またどのような力学が機能しているのか。それを紐解いていく作業こそが「サッカーの社会学」なのだと教えてくれたのである。
さて、少々前置きが長くなったが、サッカーについてそうした視点を提供してくれる本を紹介していこう。
『ノー・ルール! 英国における民俗フットボールの歴史と文化』(吉田文久著、春風社)
まずはサッカーの源流を遡ってみよう。「民俗フットボール」とは、ラグビーやサッカーの原型になったとされ、キリスト教の祝祭日にイギリスの民衆のあいだで広く親しまれたボールゲームの総称である。本書は日本における民俗フットボール研究の第一人者による、その20年以上にわたる研究の集大成だ。
民俗フットボールの特徴は何といっても「ルールがないこと」である。ゴールの場所はおおよそ決まっているが、ユニフォームもなければ時間制限もなく、審判もいなければ、1チームが何人で構成されるのか、どこまでがピッチなのかも決まっていない。そして、ゲーム中には掴み合いや蹴り合い、殴り合いといった荒々しいプレーが頻発する。
これまでのフットボール研究では、こうした「野蛮な」ボールゲームが近代において「文明化」され、ルールのもとに暴力的行為を制御するゲームへと発展したとされてきた。
しかし、著者は英国の近代化・都市化に伴う人口の推移に着目し、人口が流入してくる都市部と、逆に人口が流出していく農村部などの地域で、チームの分け方やプレーが行なわれる場所、ゲームそのものの意味などがどのように変容したかを追跡していく。
そして民俗フットボールが、近代スポーツと並行しながら固有の発展・変容の道筋を辿っていることを見出していく。サッカーの源流となる民俗フットボールの「興奮」の背景にどのような社会的条件があるのかを教えてくれる力作である。
『サッカーの詩学と政治学』(有元健・小笠原博毅編、人文書院)
続いてはイギリスのサッカー研究と日本のサッカー研究を結びつける試みを紹介しよう。本書は、日韓ワールドカップイヤーの2002年3月にロンドン大学ゴールドスミス校で開催された国際サッカー・シンポジウム『Discrepant Fanatics!(相異なる熱狂!)』に登壇した社会学者たちを主な執筆陣とし、ヨーロッパ、アジア、アフリカでサッカーをめぐってどのような問題が生じているかを検討した論文集である。
サッカーという文化は、地域コミュニティーであれ、国家であれ、それをプレーしたり、観戦や応援をしたりする人々に「私たち」という集合的アイデンティティーを構築する。
こうした認識を出発点として、日本とイギリスの研究者たちが浦和レッズやセルティック、イングランド代表、インド代表、アフリカサッカーについて論じていく。
当時まだ学生であった私がこのシンポジウムを企画し、それをきっかけにサッカーを社会学的に研究することの意義や必要性を日本のアカデミズムに投げかけようとした一冊である。
上述のレス・バック氏の論考も収録されており、サッカー文化について学術的な研究を始めてみたいという方にはぜひ手に取っていただきたい。
『アスリートたちが変えるスポーツと身体の未来 セクシュアリティ・技術・社会』(山本敦久編、岩波書店)
本書は社会学者を中心とした9人の研究者たちがそれぞれ一人のアスリートに着目し、それを通じて見えてくる社会の問題点を論じたものである。3つの章がサッカー選手に関するものだ。
成蹊大学の稲葉佳奈子氏はアメリカ女子代表ミーガン・ラピノーを論じる。ラピノーは自身がレズビアンであることを公表しており、さらに歯に衣着せぬ政治的な発言でも注目を浴びた選手である。
女性アスリートのロールモデルになるとともに、LGBTQの人々のエンパワーにも寄与した彼女の行動は、私たちがスポーツと社会の関係を考えるうえで重要な示唆を与えてくれる。
次にブラインドサッカーのブラジル代表リカルド・アウベス(リカルディーニョ)について論じるのは文教大学の二宮雅也氏である。アウベスは6歳で視力が低下しはじめ、8歳で全盲となったが、その驚くべきプレーは観客を魅了してやまない。
そんなアウベスの身体感覚はいかなるものなのか。二宮氏はブラインドサッカーの現場で自身もフィールドワークを行ないながら、視覚に依拠しない身体感覚を明らかにしようと試みる。
最後に私が考察したのが「UEFA EURO 2020」の決勝、イングランド対イタリア戦に出場した、イングランド代表のマーカス・ラッシュフォード選手である。
勝てば1964年以来55年ぶりの主要な国際大会での優勝となるイングランドチームだったが、結果は残念ながらPK戦での敗北となった。イングランド代表でPKを失敗したのはラッシュフォードを含む3人の黒人選手であった。
このPK戦の直後、SNSを中心にこの3人への人種差別的中傷が吹き荒れた。イングランドにおけるサッカーと人種差別の歴史が再現されたのである。だがその後、人種差別に反対する人々の行動がそれを凌駕していったのだが、そこにはラッシュフォードのそれまでの行動が関係していた……。
本書はそのほかにもテニスの大坂なおみ選手や南アフリカの陸上女子キャスター・セメンヤ選手など社会の変革のために声をあげるアスリートたちが数々登場する。サッカーだけでなくスポーツ全般について考えたい人にもおすすめである。
『現代スポーツ評論45号 特集:サッカーから見るスポーツの現在』(創文企画)
日本の学校体育やスポーツ文化全般について批判的思考を紡いできたスポーツ学研究者の故・中村敏雄氏が創刊に携わった『現代スポーツ評論』。昨年刊行された第45号ではサッカーに焦点をあて、世界のサッカーの流れと日本の各カテゴリーにおける課題が論じられた。
フランス文学者であり作家、評論家としても活躍する陣野俊史氏は、突然現れ、瞬く間に立ち消えた「ヨーロッパ・スーパーリーグ構想(※)」について論じる。
また、今回の「FIFA ワールドカップ カタール2022」で、無双の活躍をした三苫薫選手を輩出した筑波大学蹴球部の小井土正亮監督を筆頭に、育成の現場を知る執筆者たちの論考も興味深い。少年サッカーや高校サッカー、大学サッカーの現場でいま何が起こっているのか。そこには私たちがメディアを通じて思い描くようなイメージとはまったく異なる現状が存在するのだ。
女子サッカーについては、元日本代表で現在は関東学園大学で教鞭をとる東明有美氏がその歴史とWEリーグの立ち上げについて詳しく紹介している。そしてなんといっても「2020年東京オリンピック」でなでしこジャパンを率いた高倉麻子氏のロングインタビューが興味深い。
このインタビューにおいて、高倉氏はSNSやメディア報道の影響でチームのモチベーション維持がいかに難しかったかを述べており、さらに、オリンピックを楽しむことはできなかったと明言する。
高倉氏の言葉からは、「私たちはなぜサッカーをするのか」という根本的な問いかけを読み取ることができる。本書の各論考から、私たちは「なぜサッカーが(社会にとって)問題なのか」を考え始めることができるだろう。
『セルティック・ファンダム グラスゴーにおけるサッカー文化と人種』(小笠原博毅、せりか書房)
サッカーと社会について大いに読み、考え抜いた人が最後に手に取って格闘すべき1冊が、神戸大学の小笠原博毅氏による『セルティック・ファンダム』である。
タイトルが示すように本書はスコットランド、グラスゴーの強豪クラブであり、2022年に引退を表明した中村俊輔選手の活躍や、古橋亨梧選手、前田大然選手、旗手怜央選手、井手口陽介選手など、現在多くの日本人選手が在籍することでも知られるセルティックのファン文化を描いたエスノグラフィーである。
往年のサッカーファンならば、スコットランド人プロテスタントのクラブであるレンジャーズと、カトリックのアイルランド系移民のクラブであるセルティックがスコットランド・サッカーの二強として長年ライバル関係を築いてきたことをご存じだろう。
両チームが激突する「オールドファーム」の熱狂は、つねにカトリック対プロテスタント、スコットランド人対アイルランド移民といった二項対立の物語として語られてきた。しかしながら著者はこの単純な図式をこそ疑問視していく。
そしてファンのスタジアムでの応援、パブでの会話、インタビューの聞き取りといったミクロな資源から、セルティックというクラブの歴史や文化、ファンの想像力のなかに、人種や国民をめぐるより複雑な要素が働いていることを明らかにしていく。
セルティックに情動的にコミットすることは、港湾都市グラスゴーの政治・経済史、イギリス帝国主義の歴史、そして世界中に離散するアイルランド系ディアスポラ・コミュニティーの想像力と深く結びついているのである。本書はまさに、サッカーが社会学にとって豊饒かつ重要な研究対象であることを示したものだ。
『日本代表論』(有元健・山本敦久編、せりか書房)
最後に、ワールドカップの快進撃で日本中が熱狂したいまだからこそこの一冊を紹介させていただきたい。「日本代表」という現象を社会学的、歴史学的に考察した論文集『日本代表論』である。
元内閣総理大臣の故安倍晋三氏はかつて、日本人が日本代表選手たちを応援したくなるのは自然な感情だということを根拠に自身のナショナリズムを肯定していった(※)。
しかしながら、私たち社会学者や歴史学者が明らかにすべきなのは、一体どのような経緯によって、人々は「日本代表」を応援することを自然だと感じるようになったのか、である。
そうした目的のもと、社会学者や歴史学者、建築学者が集い研究会を重ねながら発表したのが本書だ。当然のことながら、日本代表はスポーツの国際大会がなければ存在しない。
歴史的にはオリンピックを皮切りに20世紀初頭にスポーツの国際大会が活発化し始めると、それに伴って日本でも「国家代表」を選出する必要が生じ、主に1920年代に各種目の全国統括組織が形成された。
そして代表を国際大会に派遣し、メディアがそれを報じるというサイクルが生まれることになる。これらの詳しい経緯は歴史学者・佐々木浩雄氏の章を読んでいただきたいが、いずれにしても、日本代表を応援したいという感情は歴史的経緯を経て生み出された、いってしまえば人工的なものなのだ。
そしてそこには、たとえば日本人を「集団性に長けた民族」として語りたいといったような、人種・国家・民族をめぐる特定の想像力も働いているのである。
以上、日本語で読めるサッカーの社会学的研究の紹介を行なってきた。サッカーはたんに社会を映し出す鏡なのではない。
サッカーをめぐる人々の実践はその人々の「生」を規定している複雑な社会的・経済的・文化的条件と深く結びついているのだ。この豊饒なフィールドにぜひ皆さんも触れてみてはいかがだろうか。