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私を憲法学者にした「ドヤ街の怒り」 大阪・釜ヶ崎の遠藤比呂通弁護士が現場に生きる理由

2022年12月14日 11:01  弁護士ドットコム

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東京・山谷や横浜・寿と並び、三大ドヤ街の1つとして知られる釜ヶ崎地区(大阪市西成区。「あいりん地区」ともよばれる)。「日雇い労働者の街」としても知られ、世間では「治安が悪い」「危険」というイメージも付きまとう。


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ここには、住む場所がないために住民票や保険証を持っていない人、生活に困窮している人など、さまざまな「事情」を抱えた人たちが集まってくる。そんな釜ヶ崎を拠点に活動する男性弁護士がいる。憲法学者でもある遠藤比呂通弁護士だ。



この街で、何が起きているのか。弁護士、そして研究者として釜ヶ崎で生きる中で、何を見てきたのか。9月下旬のある雨の日、事務所を訪問して話を聞いた。



●「学び」の場を「大学」から「釜ヶ崎」へ

釜ヶ崎に流れ着いた人たちには、彼らにしか分からない事情がある。人生の過程で何かを経験してきた彼らだからこそ、語れることばがある。遠藤氏は、そんな彼らから「学び」を得ていると語る。



もともと、遠藤氏にとっての「学び」の場は大学だった。東京大学法学部を卒業後、大学院を経ずに同法学部の助手となった。その後、東北大学法学部で憲法学の助教授(現在の准教授)をしていた。



自らの意思で大学を去り、釜ヶ崎に足を踏み入れたのは、1996年に遡る。社会運動に関心を抱いていた遠藤氏は、大学を辞める前から釜ヶ崎を訪れていた。初めて足を運んだときに日雇い労働者の男性が口にした「日本に憲法なんてあるのか」との問いは、今でも忘れられないという。男性の問い、そして、路上で寝転がる人たちの光景など、釜ヶ崎では初めて見聞きすることばかりだった。



イギリス留学中にクリスチャンとして召命を受け、宣教師か牧師になりたいと思っていたといい、「学び」と「実践」の場として大学ではなく、釜ヶ崎を選び、ここで生きるという選択をした。



ボランティア活動などに参加する中で、労働者たちから「弁護士」として必要とされた。当時は、法学系の大学院で准教授として法律科目を5年以上教えていた場合、司法試験を経ずに弁護士になることができた。この要件をみたしていた遠藤氏は、1997年に弁護士登録した。





先ゆく「先輩」弁護士に実務を学んだ後、1999年7月から釜ヶ崎にある「いこいの家」で法律相談を開始。コロナの影響で2020年から相談を中断してはいるものの、今は再開時期を検討中だ。



遠藤氏にとって、法律相談は「もっとも苦手で、しんどい」ことだという。予備知識がないまま、その日初めて訪問した人と話をしなければならず、次回までに調べておくわけにもいかない。自分が来月足を運んでも、相談者が再び訪れるとは限らないからだ。緊張感が常にある。



話すことが得意ではない相談者も少なくなく、怒鳴られたこともある。それでも、法律相談を続けるのは「一番しんどいことが、一番大切」だと考えているためだ。



「しんどいからこそ、やらなければならない。中にはケンカを売ってくるだけの人もいますけど、本当に重要な事件を抱えた人もいるんですよ」



●「令和。この国は冷和(冷たいわ)」看板も

定住先がない路上生活者たちが排除される現状も数多く見聞きしてきた。彼らの「居場所」となっていた「あいりん総合センター」も2019年3月31日に閉鎖された。大阪府は立ち退きを求めて提訴。現在、控訴審が進行中だ。遠藤氏は、この裁判で路上生活者側弁護団の一員として活動している。



降りしきる雨の中、遠藤氏はセンターに案内してくれた。13階建ての大きな建物がそびえ立つ。周囲には、テントやブルーシート、自転車、大量のゴミの山。「令和。この国は冷和(冷たいわ)」と書かれた段ボールの看板もあった。シャッターは、開けられないように溶接されている。





閉鎖される前のセンターでは就労活動や情報交換がおこなわれていたほか、トイレや食堂、シャワールームなども設置されていた。段ボールを敷いて、雨風をしのぎ、横になることもできた。日雇い労働者や路上生活者などの憩いの場であり、何よりも「生きる」ために必要な場所だった。



「冷和」と書かれた文章は、センターの閉鎖により、つながりの断絶と排除を余儀なくされた路上生活者たちの怒りの声だった。



怒り。燃え続ければ「地獄の怒り」になるが、その感情を「闘いの武器に変えていく方法」として、憲法学があると遠藤弁護士は考えている。「まず、怒りがあってこそ、ものごとが見えてくる」。勉強して得た知識を使って、高度な理屈を並べ立てるだけでは足りない。怒りがなければ「血が通ったもの」にはならないという。





センター閉鎖の理由は、耐震性が脆弱であるとして、建て替えが必要とされたためだ。もっとも、建て替えではなく修繕案が有力だったが、突如変更されたという経緯がある。しかし、生活の拠点としてセンターを必要とし、閉鎖後もセンターのまわりに住む路上生活者たちはいた。



そんな路上生活者たちに対して、大阪府は「土地を不法に占有している」として、2020年4月に土地明渡訴訟を提起した。しかし、判決が確定するまでは動かせないため、判決が出る前に強制的に明け渡させる断行の仮処分も求めていた。2020年12月1日、大阪地裁は申立を却下した。



「裁判所は、ホームレス状態にある人たちの占有の正当性は認めていません。しかし、彼らの事情を考慮し、排除の流れに乗らなかった。このような決定を下したのは初めてなんですよ」



本案について、大阪地裁は2021年12月2日、路上生活者に立ち退きを命じる一方で、仮執行は認めなかった。路上生活者側は、同年12月13日に大阪高裁に控訴している。





●「大学をやめてから、『憲法学者』になった」

苦悩しているのは、釜ヶ崎に生きる人たちだけではない。遠藤氏は、その裁判に関わる裁判官たちの苦悩に満ちた叫びも聞いたことがある。中には「自分は地獄に堕ちる」と語った裁判官もいた。「悩んでくれているのならば、飛ぼうよ! あと一歩」と思った。



遠藤氏自身も自ら大学を去った後、弁護士として釜ヶ崎で法律相談を受けている自分自身を受け入れられず、苦悩していた。



「大学を嫌だと思ったことは一度もないんですよ。戻りたくて仕方がなかった。教授会に戻ってきて挨拶をする夢などもみました。なんで、自分はこんなところにいるんだろう? 自らの選択を後悔していました」



ある日、民法学者として知られる東北大学の故・廣中俊雄名誉教授と議論する機会に恵まれた。大学にいたころの遠藤氏には「現場から学問を吸い上げて、理論化する」廣中氏のことばが理解できなかった。ところが、釜ヶ崎で弁護士として活動するようになった遠藤氏は、彼のことばが分かるようになっていた。



「ふと思ったんです。大学をやめなければ、彼のことばがずっと分からなかっただろうなと。そのときに納得しました。大学をやめてから、『憲法学者』になったんだなと」



13年間悩み抜いた末の結論は「ここで生きるしかない」。「しあわせか?」と問われれば即答できないが、後悔はしていない。



そんな遠藤弁護士のもとには「事務所を手伝いたい」と、意欲溢れた若者が訪れることもある。しかし、「どうしてもやりたければ、自分でやればいい。そもそも、チームプレーが苦手なんですよ。この事務所は、私の代で終わらせる」と話す。



センターの控訴審判決は、本日12月14日に出る見通しだ。



【遠藤比呂通(えんどう・ひろみち)弁護士】
1960年山梨県生まれ。東京大学法学部卒業後、東京大学法学部助手、東北大学法学部助教授。1997年弁護士登録。1998年4月西成法律事務所開設。著書に『人権という幻ー対話と尊厳の憲法学』(勁草書房、2011年)、『国家とは何か、或いは人間についてー怒りと記憶の憲法学』(勁草書房、2021年)他多数。