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シティポップ、環境音楽の海外での再評価は、岡田拓郎に何をもたらした?音楽と日本らしさをめぐる対話

2022年12月09日 19:00  CINRA.NET

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Text by 山元翔一
Text by 原雅明

岡田拓郎へのインタビューの後半は、アルバム『Bestu No Jikan』の話からはじまる(前半はこちらより)。

海外を経由した日本の音楽の再発見、1970年代や2010年代のある特定の時期に現れた音楽からの影響、レコーディング作品として完成されたポップスからの逸脱、水のような流動的な音楽への関心等々、それらはアルバム以降も続いている。

固有名詞の羅列は知的な好奇心を掻き立てるが、このインタビューではあまり固有名詞に頼らず、話を伺いたいと思った。もちろん、固有名詞がなければはじまらない話はあり、ここでもトピックとして重要な名前はそれなりに要所要所に登場する。その名前がきっかけとなって、焦点をあてようとしていたことは、よりはっきり見えてもくる。

ただ、岡田拓郎が聴く、はっぴいえんどと富樫雅彦のあいだには、たくさんの音楽が存在していて、それは聴く人が好きに埋めていい余白=別の時間だと、岡田拓郎の音楽が何よりも示唆しているのではないだろうか。これは、そんな余白も残したインタビューである。

岡田拓郎(おかだ たくろう)
1991年生まれ、東京都福生市育ち。ソングライター/ギタリスト/プロデューサー。2012年にバンド「森は生きている」を結成。2枚のアルバムを発表し、2015年に解散。2022年8月、3枚目のソロアルバム『Betsu No Jikan』を発表。ギタリストとしては、ROTH BART BARON、優河、柴田聡子などさまざまなミュージシャンのライブ/レコーディングに参加している。

—『Bestu No Jikan』に海外のアーティストが多数参加している背景には、「自分がつくった音楽が海外でどういうふうに聴かれるのか?」ということへの興味、関心からくるものも大きかったのでしょうか?

岡田:昔から海外で聴かれれば嬉しいなって意識はもちろんあったんですけど、今回の場合はもっと邪念がないというか。4年前ぐらいに『The Beach EP』(2018年)ってEPをつくって、そのときは、海外で拾ってもらえないかなと意識的に考えていました。

もしかしたらヴェイパーウェイヴの文脈的に引っかかるかな、みたいな考えで、スティーヴ・ハイエットっていうバレアリックで再評価されたミュージシャン/写真家の写真をアートワークにして、1曲目はあからさまなシティポップ。後半は電子音のシーケンスの環境音楽的な楽曲と、あと12弦ギターと水のアンビエントっぽいものを入れています。

どうすれば日本人がつくったポップスが海外に拾われるか、ってことを考えてシティポップとバレアリック感みたいなところで制作していました。

—やり方としてはストレートで王道な感じですね(笑)。

岡田:王道にいってみようって(笑)。でも実際に海外からメールくれる人がいたり、反響があってありがたかったです。

岡田:じつは、パンデミック前にパニック障害がひどい時期があって、慣れないセッションワークとかいっぱいやりすぎてヘトヘトになっていたんです。図らずともパンデミックでお休み期間になって、『Bestu No Jikan』はその療養期間で何をやろうか、というところでつくりはじめました。

—『Bestu No Jikan』のリリースで、海外からのフィードバックはありましたか?

岡田:ちょいちょいメディアに載ったりしたんですけど、ジャイルス・ピーターソン(※)がBBCのラジオで“A Love Supreme”かけてくれたみたいで、それは「スピリチュアル・ジャズ認定」ということで嬉しかったです(笑)。

海外のレコードオタクみたいな人からメールがきたりとかのもあるし。やっぱり違う文化圏のレコードオタクが聴いてくれるのは一番嬉しいっすね。

—参加したアーティストからは何かリアクションはありましたか?

岡田:みんなデモの段階から「めちゃくちゃいいね」って言って参加してくれて、ネルス・クライン(※1)やサム・ゲンデル、カルロス・ニーニョ(※2)もすごく気に入ってくれてましたね。

ネルスさんは一度Zoomでこんにちはしたんですけど、そのときも「聴いたことない音楽でこれは面白いですし、ぜひ弾いてみたい」と話してくれて、「ありがてぇ」って感じでしたね。

—『The Beach EP』のシティポップもそうですし、環境音楽もそうですが、70~80年代の日本の音楽が海外から再評価されている流れがずっとありますよね。それが、岡田さん自身に与えた影響はありましたか?

岡田:結構あると思います。ぼくは全然J-POP的な、ドメスティックな日本のポップスは聴いてこなかったので、音楽をつくるにあたって「日本人としての自分」をどう認識すればいいのかが難しいというか。たぶん平成生まれの世代のほとんどがそうだと思うんです。畳のある家に住んだことがないまま30年以上日本に暮らしている人もいっぱいいるだろうし。

もともと自分が日本的な何かを持っているかと考えたら、ちぐはぐな部分がある世代だと思う。そういう意味で、ある種フェティシズム的ですけど、マーティン・デニー(※1)の音楽みたいな、ある種デフォルメされた「海外から見た日本的なもの」にハッとさせられることも少なくありません。

—エキゾチカ的な?

岡田:そうです。ファラオ・サンダース(※2)の“Japan”(1967年)みたいなああいう感じ(笑)。そういう視点で振り返る日本のことはレコードリスナー的にはすごく興味あるところで、はっぴいえんどへの関心もある種そういう部分がある。

岡田:お気楽な「海外から見た日本すごいジャーナル」みたいなのは関係ない話で、「リアルな日本」ってところでいう日本的な感覚が何なのかはよくわからないんですよね。道を歩いていれば、お地蔵さんも寺も神社もあるしって環境で生きてはいるんですけどね。

ぼくにとって「日本的なもの」って「はっぴいえんどってこういう立ち位置で、こういうふうな感覚で見えているんだ」「マライアはこういうふうに聴こえているんだ」、みたいな海外からの俯瞰した視点を通過してようやく見えてくるものもあるといいますか。はっぴいえんど自体、「日本的なもの」に対して俯瞰的な立場かと思いますけど、そこからさらにフラットな視点というのは面白い。

そうやってたとえば「Pitchfork」に掲載された『風街ろまん』(1971年)のレビュー(※)を読んで感じたことは、10代のまだそれほど音楽を知らなかったときに、はっぴいえんどを聴いてシンパシーを覚えたことと感覚的には近いとも思うんですけどね。

—なるほど。ぼくは80年代にリアルタイムで、たとえば環境音楽とか清水靖晃さんの音楽を聴いて、もちろん当時も斬新に感じたんですけど、そのあといろんな音楽を聴き進めていくなかで忘れてしまっている部分もあるんですね。海外から再評価されることで、自分もあらためて気づくことがある。海外の視点が入ることでの再発見はそういうところにもあると思いますね。

岡田:過去の音楽があるとき急にまた新しく聴こえる、もう一度注目を集める瞬間はおもしろいですよね。ぼくの音楽体験自体、ずっとその繰り返しで蓄えられてきたものでもあって、そういう意味で自分の音楽はリイシューカルチャーと密接だと思います。

—サム・ゲンデルが自分の音楽を説明するときに、「未来の人が発見した音楽」みたいな言い方をしていましたが、それに近いような感覚もありますか?

岡田:ぼくはもうちょっとオールドスクールな感じかもしれません(笑)。でも言わんとしていることは、彼の音楽を耳にすれば誰しもわかる感覚ではありますよね。空間や時間軸のねじれのようなものをいつも感じますし、そしてユーモアも感じさせる。ドラえもんのタイムマシンのシーンの背景の絵がいつも浮かびます(笑)

—岡田さんの音楽もおそらくそうで、このあいだのライブでも思ったことで、70年代的なテクスチャーと現代のテクスチャーが合わさった演奏に感じたんですね。過去のものとの混じり具合みたいなところは、どの程度、意識的なんでしょうか?

岡田:あるときまではめちゃくちゃ意識的でした。それはたぶん、ディガーミュージシャンのいいところであり、悪いところでもあると思うんです。

過去の音楽のある要素を現代的なテクスチャーのなかで参照していく、みたいな感覚は、昔は意識的にやっていたんですけど、『Betsu No Jikan』ではそこから自由になれたんですよね。本当にこの音楽がよくなるために考えうる限りの方法は、すべてトライしてみようって考え方ができた。

岡田:これとあれをかけあわせて、って考えにとらわれすぎず、すべての選択が自由であっていいし、ライブに関しても、この瞬間がよくなる方法があるんだったらどんな文脈を引っ張ってきてもいいし、瞬間的に思いついたものもパッとトライしてみようって。そういうふうに意識的に柔軟になったことすら考えなくていい、みたいな感じにはなってきていると感じますね。

岡田:原さんがおっしゃった70年代的なテクスチャーということでいうと、ぼくはリスナーとして70年代のジャズとロックをずっと聴いてきたところがあって。「音楽はもう出尽くした」って言われていたなかで、ジャズはフュージョンになり、ロックがAORになっていく、このあいだの時期ってずっと関心があるんですよね。なかでも74~6年ぐらいが好きな音楽が多いかもしれないです。

—ちょうど、マイルス・デイヴィスが活動を中止して、ブライアン・イーノのアンビエントが登場しはじめた時期とか、そのあたりとも重なりますね(※)。パンク前夜の、未分化な状態で、まだどっちにいくかわかんないような感じ。

岡田:そうですね。The Flying Lizardsとかすごく好きです。あと初期衝動的な1968~72年あたりとか、そのあたりもおもしろいですね。「前衛ジャズ」とか「前衛ロック」みたいな言葉は昔から好きだったんですが、前衛的な何かを探っている時期の音楽にすごく魅力を感じてきたし、それをある種ロマンチックな思考で聴いていたかなと思いますね。

岡田:ぼくはポストロック以降に音楽をつくりはじめているんですけど、15~6歳のときにクリスチャン・フェネスとかアルヴァ・ノトをはじめ聴いたとき、これ以上新しい音楽を想像できなかったんですよね。

だからか、2000年代後半から2010年代前半は「新しいオルタナティブな音楽をつくる」というよりは、過去のサウンドの文脈の編集、音響感や質感といった、レコードとしてのおもしろさにつくり手たちがフォーカスしていた感覚があって、ぼくがシンパシーを覚えたのはそういう音楽だったんですよね。

—ただ、その音響感や質感をレコード作品に落とし込む完成度の高さ、ポップスとして精巧さを追求することから抜け出して、別のところにいきたいという意識が出てきたわけですよね。

岡田:そうですね。消極的なことを言うと、あんまり歌いたくないので。というか、本当に歌いたくない……というのは半分冗談として(笑)、パンデミックのタイミングで歌のアルバムも別につくっていたんですよ。『Betsu No Jikan』はそれとは別に、もっと自由な、自己治療的な音楽としてつくっていた感じだったんです。

でも制作していくうちに自分のレコード棚を見てみると、『Betsu No Jikan』的な音楽は自分にとってすごく自然なかたちだなと思えてきて。途中から自分のレコード棚の感じと歌のアルバムという、ふたつの方向性のいいところをまとめていく作業になってきましたね。

—『Betsu No Jikan』では、水の音が制作のきっかけにもなっていましたが、フィールドレコーディングの自然音、環境音を単にスパイス的に取り入れるような使い方とはまったく違いますよね?

岡田:今回は水の音や環境音からとっかかりを見つけて制作したりしていますからね。これまでのようにテクスチャーとして曲に入れる、というようなこととは違うと思います。

—そういった制作は何を意識してだったのでしょうか?

岡田:パンデミックになってからずっと『Betsu No Jikan』の習作をBandcampにあげていたんですけど、「水のような状態の音楽」に取り憑かれていた時期で。

ある曲では水のサンプル音、以前に録音した川の流れる音を変調させた音に音楽を見出す、みたいなことをやっているんですね。それは今後もライフワーク的にやりたいと思っているんですけど。

岡田拓郎『Like A Water, Like A Song』(2020年)を聴く(Bandcampを開く) / Photo by Hayato Watanabe

—つまり、水の音のような楽音から外れるサウンドそのものを積極的に使うというのではなく、サウンドの変化や動きがきっかけとなって生まれるものに関心があるということですね。

岡田:水の音はそれ自体もちろん神秘的な音色で魅力的なんですけど、「音楽が水の状態にあること」に関心があります。流動的でつねに動いていたり、滴る水音の間隔のような、規則的ではないけれど、あるときには周期的なリズムを見出すこともできるかもしれない、みたいなことだったり。

あとは水という物質は形のないとらえどころがないものですが、冷やして氷になったり、熱して蒸気になったりという両極端の状態を踏まえることで水についてのことを少しとらえやすくなるというような側面も興味深いです。

音楽をそういう水的な状態に落とし込みたいってことは『Betsu No Jikan』では考えていましたし、そこからまだまだつくれそうだなって予感はあります。

—そういう視点が根底にあるからでしょうか、即興的な部分と編集されてつくられている部分のあいだにある、流れや振幅が心地いいと感じました。録音もそうでしたが、ライブでも感じましたね。

岡田:たとえば、パソコンを使ってビートミュージック的なつくり方をしてるけど、グリッドに合わせていくような作業はしていない、みたいな感覚はライブ演奏するにあたってみんなで共有していた部分だったと思います。

—なるほど。たとえば、ジェフ・パーカー(※1)の『The New Breed』(2016年)のような作品は、ギタリストの彼自身がビートも組んでますが、演奏の揺らぎと折り合いがとれているというか、単にビートの上で演奏しているのとは異なるタイム感を生んでいますよね。いまの話で、そのギターとビートの関係性を思い出しました。

岡田:ジェフ・パーカーは本当におもしろいですよね。ソロギターのアルバム(2021年発表の『Forfolks』)も超よかった。あの人は本当に特殊ギタリストですね。

ジャズプレイヤーとしては高柳昌行(※2)みたいにゴツゴツした感じでありながら、流動的なサンプリング使いもおもしろいし、自身のライブ演奏自体がリアルタイム自分サンプリングみたいなプレイもしてたり。

岡田:ジェフ・パーカーのプレイは地味といえば地味なので昔はあまり意識して聴いていなかったので、Tortoiseのなかでこんなにイケてる音楽家になるとは思わなかった(笑)。

—時代を経るごとによくなっているような感じですね。

岡田:そうですよね。また彼が新しい音楽をつくればつくるほど、過去の作品が魅力的に聞こえてくる。

Chicago Underground Duo(※)の曲にちょっと入ってるアンビエント的なギター、トラックも当時は全然聴き逃していたなと思います。「何もしない」みたいなことをするのも得意だし、すごく好きなギタリストですね。

—最初に日本の音楽の話をしましたが、TOKIONのインタビューで、パンデミックのあいだに積極的に聴いていた音楽として土取利行(※1)、富樫雅彦(※2)、山本邦山(※3)の音楽を挙げられていましたね。そこには、海外からの再発見、再評価とは別に、岡田さんの日本の音楽への関心があると思うんですが、それについて伺わせてもらえますか?

岡田:さっきのはっぴいえんどの話のように、ぼくは西洋文化の文化が定着する前の「純然な日本人像」を知らないので、江戸時代以前のような日本らしさみたいなものは関心もありますし、好きではありますが、自身の制作とはどうしても距離があります。一方でシンパシーを感じるのは、戦後のプロダクトデザインや電子音楽の人たちで。

岡田:海外の最先端と言われていたものを取り入れながら、そこに日本的なものを落とし込むことーーたとえば、イームズがやっていたようなことに対して、剣持勇が木製合板をねじ曲げて兜のデザインで椅子をつくった、みたいな感覚のほうが自分には密接に感じるんですね。自分の世代にとっての日本的なものの感覚って、そういうイメージなんじゃないかなとも思う。

はっぴいえんどもそうですし、富樫さんの音楽もジャズのなかに落とし込まれているムードに日本的なものを感じますね。西洋の文化が入ってからの日本っぽさって、どっちとも決められない中間地点なところに居心地のよさを感じることなんじゃないかとも思ったりします。いまの時代って、どっちつかずな人が責められがちですけど。

西洋的でもあるし日本的でもある、ロックでもあるしジャズでもある、っていう感覚がどこか居心地がいい。そういうところに、ぼくは日本的なものを感じたりします。このあたりは戦前のものですが芥川龍之介の『文芸的な、余りに文芸的な』(※)という谷崎潤一郎との芸術論論争のなかで書かれた短い文章で「ブタカツ」をたとえに面白い視点で書かれています。

—昔、晩年の富樫さんにインタビューしたことあります。『スピリチュアル・ネイチャー』などがCDで再発されたタイミングで、ご自宅まで伺って取材しました。当時ぼくはまだ多少は若く(笑)、ジャズ評論家でもないというので選ばれたのだと思いますけど、とにかくマックス・ローチ(※)が好きで、その演奏しか頭になかったということと、事故に遭われてローチのドラムからも離れて、どう活動を続けていったのか、丁寧に振り返って語られたのが、いまも強く印象に残っています。

―富樫さんは戦後の日本のジャズを切り拓いたひとりですが、その先にあったアメリカのジャズとのつながりが突然途切れて、自分の音楽をはじめざるを得ない地点に立たされた。でも、その状況が結果的にいままた海外で再評価もされている富樫さんの音楽をつくったわけですね。

岡田:富樫さんの演奏は一度観たかったな。岡崎のホールに、富樫さんのドラムキットだけありますよね。

ー愛知県・岡崎市にある内田修ジャズコレクションですね。実際に行きました。ドラムセットが飾ってあって、その存在感が圧倒的でした。

岡田:ぼくも一度見に行きました。すごいですよね。テリー・ボジオ(※)だったらああなんないだろうなって(笑)。

ー(笑)。富樫さん世代の戦後のジャズミュージシャンにも、ある意味、中間地点にいる独自性やおもしろさがありますよね。アメリカのジャズのほうを向いているけど、反発や誤解、誤読も込みでのジャズ表現が育まれた。

ーよく、アメリカのジャズの教育システムが整っているのに対して、日本のジャズが否定的に言われることもありますが、ぼくはそこにはまだ、それこそ「リズム外れ」(関連記事を参照)の人が出てくる余地がありそうに感じてもいます。もちろん、アメリカのきっちり基準が定まっていることがあるがゆえに「外れ」もあり得るんですけど。ちょっと余計な話でしたね。

岡田:いやいや。高柳さんも海外で聴かれていますし、ニュー・ディレクション以降の音楽はジャズの歴史観から見ると突然変異的ではありますしね。そして彼はそうした点にも意識的だったからこそ音楽塾を開いていたと思います。そしてそこで学んだ飯島晃(※)さんや大友さんのようなほかに例のない音楽家が生まれて。

富樫さんが若いとき、マックス・ローチしか考えられなかった時期があるって、それはそれで励みになる話ですよね。富樫さんのマックス・ローチは、若い頃のぼくにとってはジム(・オルーク)さんでした。やっぱり一番好きなんです、タイプは全然違うかもしれませんが。

Photo by Ray Otabe