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岡田拓郎にとって、音楽はどんなところから生まれ出るか?即興演奏とジャズ、ギター、言葉をめぐる対話

2022年12月04日 16:00  CINRA.NET

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Text by 山元翔一
Text by 原雅明

今年8月に発表された岡田拓郎のソロアルバム『Betsu No Jikan』。そのリリース記念ライブが終わった、やや落ち着いた時期に、岡田拓郎へのインタビューを行なった。本稿はそこで話したことをふたつに分けたうちの一本だ。

アルバムの音楽を紐解いたり、ライブのレポートを綴ったりするために話を伺うのではなくて、少し立ち止まってみて感じたり、考えたりしてきたことを、ゆっくりと伺いたい、という心持ちでインタビューには臨んだ。その結果として、一度で掲載する記事では収まらないボリュームの話になった、という次第だ。

今回のライブも含めて、ミュージシャン、ギタリストとしての岡田拓郎がいまいる場所と、かつていた場所をめぐる話からはじまる。それは、ライブで新鮮な聴取体験をもたらした、モチーフがあるなかでのインプロビゼーション(即興演奏)、その演奏の背景にあることを丁寧に伝える話でもある。そして、正統的な響きを得られる一方で、破壊にまで至る響きも誘発するエレクトリックギターという特異な楽器とギタリストについての話、さらに、言葉の話へと続いていく。

岡田拓郎は、演奏すること以上に「聴くこと」にのめり込んできたリスナーであり、リスナーとしての言葉を持っていると思う。それゆえに、言語化できることとできないことのあいだで音楽をとらえる話に、共感を覚える人は少なくないだろう。それは、岡田拓郎というフィルターを通した音楽が、いま魅力的に響いている理由でもある。

岡田拓郎(おかだ たくろう)
1991年生まれ、東京都福生市育ち。ソングライター/ギタリスト/プロデューサー。2012年にバンド「森は生きている」を結成。2枚のアルバムを発表し、2015年に解散。2022年8月、3枚目のソロアルバム『Betsu No Jikan』を発表。ギタリストとしては、ROTH BART BARON、優河、柴田聡子などさまざまなミュージシャンのライブ/レコーディングに参加している。

—まず、ライブのことから伺います。あとからリハをやってないという話を伺って、びっくりしました。アルバムの曲をやっていましたが、全然違うサウンドでした。ライブゆえの即興性が重視されたんでしょうか?

岡田:リハができるに越したことはなかったんですけど、いろいろなトラブルが発生して。

ただ『Betsu No Jikan』自体が即興的な演奏のエディットで組み上げられているアルバムだから、それをライブで再現するのはどこか違うし、この作品とは反するものになってしまう。その前提があったので、ジャズのテーマまでいかなくても、モチーフみたいな部分やトリガーをみんなで共有して、即興的に演奏するようなライブになりました。

—アルバムをつくっているときは、ライブをやることを考えたりはしたのでしょうか?

岡田:まったく、微塵も(笑)。そもそも自分の音楽活動において、あまりライブに関心がないんです。

—そうなんですか?

岡田:ぼくはレコードをつくることが好きだから、自分の音楽でライブするっていうのはもともと興味なかったんですよ。ただ、今回やるに向けて、久々にライブをどうやるかをずっと考えてて。練習したり、楽器を持ったりするよりは、ぼーっと座りながらって感じなんですけど。

そうやっていくなかで、何か新しいライブのやり方を今回のメンバーで見つけていけそうな感じがするな、ってタイミングでのライブではありましたね。

—ライブが終わったときに、ceroの荒内佑さんと少し話したんですが、彼はジョン・マクラフリン(※)がいたころのThe Tony Williams Lifetimeみたいだったと言っていました。

—ぼくは、ラルフ・タウナーやジョン・アバークロンビー(※1)などの少しロックが入っている1970年代のECM的なエレクトリックジャズを感じました。もちろん、70年代とは全然音の解像度が違うし、即興もより立体感のあるもので、アップデートと簡単にいうべきではないでしょうけど、70年代をあらためて新鮮に感じさせる演奏でもありました。

岡田:ぼくはジャズプレーヤーではないけど、子どものころからジャズを聴くのはすごく好きで、何千枚かあるうちのレコードの半分はジャズなんですけど、そのなかで50~60年代の「Blue Note」(※2)の作品はたぶん数十枚もないと思います。

バンドのみんなにも、ぼくが70年代のエレクトリック・マイルス(※3)も好きだけど、エレクトリック・マイルスに影響を受けたアメリカ人じゃない人たちの音楽の視点に関心があるという話はしていたと思います。だから、なんとなく今回のアルバムのサウンドにもそういう要素は感じられると思います。

岡田:The Tony Williams Lifetimeは考えてなかったけど、ぼくはもともと福生の米軍基地近くのセッションバーでずっとブルースを弾いていたから、何も考えずにやるとロック強めのときのマクラフリンみたいな感じにはなってるのかも(笑)。

—自然とルーツ的なものが出てきた、と。

岡田:そうですね。Grateful Dead的な、誰かがソロをとるという感じでもなく、民主的な関係性のなかで音を出す、というのはずっと好きなので。

岡田:こういうことはバンドメンバーとは話してなかったんですけど、ぼくの考えを自然とみんなも汲みとってくれていて、さすがのプレーヤーたちだなって思いましたし、だからこそあの日の演奏になったところはありますね。

—今回のライブのメンバーは大半がジャズを出自とする人たちですね。こういう組み合わせで、ある程度、ジャズ的な言語も踏襲した演奏をやったのは初めてですか?

岡田:初めてですね。フリーインプロはよくやっていたけど、こういうかたちでモチーフがありながらバンド編成で、というのは本当に初めてで、ライブ前まで自分もどうなるかわかってなかった感じではありました。

左上から時計回りに:千葉広樹(Ba)、松丸契(A.Sax)、増村和彦(Per)、岡田拓郎(Gt)、石若駿(Dr) / Photo by Ray Otabe

—一方で、石若駿さん、千葉広樹さん、松丸契さんが、各々ジャズのセットのなかで演奏しているのとも違っているのは明白でした。先ほどおっしゃっていたように誰が主でも従でもないバランスのなかで、共通認識は自然と生まれたのですか?

岡田:そうですね。それぞれに「ここでテーマを」みたいな指示もしませんでした。みんな感度がいいし、この場でのインプロビゼーションのあり方も理解して、よく汲んでくれた演奏でしたね。

—ジャズのプレイヤーとやることで、感じる違いはありますか?

岡田:ぼく自身、石若くん、千葉さん、松丸くんとか「特殊ジャズプレイヤー」としかやってないから(笑)、それはなんとも。

—ストレートなジャズだけ、という人たちではないですものね。

岡田:そうですね。マーティ(・ホロベック)もそういう意味ではたぶん特殊ジャズ。

岡田:ぼくは10代のとき、いわゆるブルースロック的なジャムセッションをお小遣い稼ぎがてらセッションバーでやってて。そういう場は「オルタナティブな新しい音楽をつくる」ところではもちろんないので、10代のときにそこで濃密な体験をした分、20代のころはいわゆるジャム的なセッションには長らく拒絶感があったんです。

誰かがソロを歌いはじめたら誰かがバックになって、誰かの演奏で盛り上がったら一緒にエモーションを共有して、みたいにみんなで縄跳びするみたいな感じというか。プロフェッショナルな現場ですごく勉強になったし、いろんなことを教えてもらったし、いまは全然楽しめるんですけどね。

とはいえ思い返せば、もう亡くなってしまったのですが、福生のギターの神様で宮田さんという方がいらして、たまに一緒に演奏するとジェリー・ガルシアとジョン・フェイヒーがラーガを演奏するような世界に突入することがあって、誰がソロ弾くでもないサイケデリックで強烈な体験をしたこともあったんですけどね。

彼の遺品のレコードの何枚かを引き継いだのですが、そのなかに初期のジョン・アバクロンビーなんか混じったりしてて、こんなの聴いてたんだ……とか20代の半ばのときに思い返したりして。

—かつて岡田さんがジャムセッションの場で感じた違和感をもう少し詳しく話していただきたいです。

岡田:大きい声を出してるやつについて行くしかない状態って不健全というか。みんなで縄跳びしてるときに「おい、飛べよ飛べよ」っていわれても「俺のタイミングで飛ぶわ」って。もちろん誰の言うことも聞きたくないわけじゃなく、「誰の言うことを聞くか、何をするかのタイミングは自分で決めたい」って感覚ですかね。

Photo by Ray Otabe

岡田:多くのロックやファンクのセッションってみんなで会話をしながらひとつの方向に向かう、みたいな熱を共有してグルーヴしていくじゃないですか。セッションで急に、たとえばアート・リンゼイみたいな突拍子もない演奏する人とかいないし、そんな人たぶん嫌われる(笑)。

でも、今回のメンバーだったら、曲の調性、和声があっても、そのなかで何を出しても肯定してくれる、間違いとはしない、ということは演奏をしているなかでは感じましたね。

—それが先ほど言っていた「民主的な演奏」の感覚?

岡田:アンサンブルは、お互いを尊敬しあえている間柄でやりたいし、そういう間柄じゃないとできないですから。その意味で民主的な状態でありたい。必ずしも同じような感性や考え方を持っている必要はないと思います。

Photo by Hayato Watanabe

岡田:それで思い出したんですが、武満徹のインタビューで面白い話があって、「リズム外れ」って哲学がアフリカの昔の民族の文化のなかであるらしくて。

農耕が発展した集団社会のなかでリズムが重んじられていて、それは音楽的なリズムもあれば生活のリズムもあるんですけど、共同体でリズムを刻んでいるなかで「リズム外れ」っていう調子っぱずれなやつが出てくるらしいんです。でもアフリカの村社会のなかでは、そういう人がすごく大切にされる。

天候や気候といった自然のリズムには人間が合わせていかなきゃいけないから、リズムがどっかで狂ったときに「リズム外れ」がいないとその共同体は滅亡してしまう、という考え方があるみたいなんです。ある種、アンダーグラウンドなポップカルチャーにも「リズム外れ」のような側面があると思う。

Photo by Hayato Watanabe

岡田:『Betsu No Jikan』のライブの情報解禁日は安倍さんが撃たれた日で、ライブは国葬の日でした。複雑な感情が湧く出来事でしたので、ただでさえ音楽のことを考えるので精一杯のタイミングだから、勘弁してくれよと思いましたが、そんなときこそあらためて「リズム外れ」の話も思い出したりしました。

—ライブ中、岡田さんはMCで「みなさん、こういう音楽をずっと立って聴いてて疲れませんか」みたいにいわれましたけど、聴いている人はあの演奏を各々自然に受け止めている感じがしてとても印象的でした。

岡田:本当ですか。

—観るほうも民主的というか、それがすごくいいなと思ったんです。インプロビゼーション的な演奏は極端にシリアスに捉えられすぎてしまうきらいがありますが、たとえば、デレク・ベイリー(※)はとてもユーモアのセンスがある人で、あそこまで振り切った演奏にもそれが表れていると思う。

岡田:難しいけど、そうありたいですね。ベイリー、絶対面白いおじさんだったでしょうね(笑)。晩年のベイリーがいろんな人に囲まれながらインプロしているのとか見ると特にそう思います。

—あの光景はいいですよね。ヘンリー・カイザー(※1)を聴いたときも、ほくそ笑む瞬間があったんですが、どうもシリアスなことが先立って受け止められてしまう。それが時代とともに変化してきていることを、ふと、ライブを見ながら感じもしたんです。

岡田:杉本拓さん(※2)とか秋山徹次さん(※3)も大好きでライブによく行って何度かお話を伺ったこともあるのですが、あの人たちも本当に面白い(笑)。

でも初めはやっぱりすごくシリアスな印象があって、大学生になってライブを観に行ったときに同じ世代の人はあまりいなかった。でも当時のぼくにとって実験音楽やインプロビゼーションってユーモラスな部分もあって、観念的なところを考えなくてもシンプルに楽しかったんですね。

たぶんぼくの世代が最後かもしれないですけど、そこにはジム(・オルーク)さんがいたりして、六本木にSuperDeluxeもあって、毎週そこに行けば何かしらやばいライブやっていた。

岡田:だから、音楽がいい場所はずっとあってほしいし、下の世代からもいいミュージシャンが出てきてくれたら、って思ったりするところではありますね。自分もそんなこと考える歳になっちゃったとも思うんですが(笑)。

ーでも、SuperDeluxeも千葉で再スタートになりましたね。

岡田:そう!

ー知り合いがさっそく行って写真送ってくれたけど、すごくよさそうな場所でした。

岡田:SuperDeluxeは大学生のときめちゃくちゃ行ってたから、行くのが大変そうだけど、労力をかけて音楽を聴きに行くのは大事なことだなと思います。

—ギタリストの話といえば、『ギター・マガジン』で書かれている連載(「Radical Guitarist」)が示唆に富んでいて、あれを読んでいると、ギターという楽器の特殊性ゆえに生まれた音楽についてあらためて考えさせられます。

ギター・マガジンWEBより、岡田拓郎の連載する「RADICAL GUITARIST -異彩を放つ個性派たち-」のページ(外部サイトを開く)

—クラシックでもジャズでもロックでも完成されたギタースタイルがある一方で、ある種の音響装置でもあるエレクトリックギターは、他の楽器に比べて、とても自由度が高いという特性がありますよね。たとえば、サックスをエレクトリック化したものは普及しなかったですけど。

岡田:考えたことなかったけど、たしかにギターはそうですね。サックスとかもこれからなんじゃないですか。プリペアド・ギター(※1)とかいろいろあるけど、普及するってものでもないですよね。フレッド・フリスとかハンス・ライヒェル(※2)も普及はしてない(笑)。

—そうですね、一般的ではまったくない(笑)。

岡田:でも、エレキギターって、カスタムするカルチャーがありますよね。サックスとかクラリネットは完成されている楽器だからそこまで手を加えるようなものではなかったと思いますが、エレキギターって昔から、ピックアップやブリッジを変えたり、ボディをカットしたりと、カスタムする文化は身近だった。

岡田:あと、ジミ・ヘンドリックスとかスティーヴィー・レイ・ヴォーンみたいにギターを投げて破壊することもありますけど、あれはパフォーマンスである一方、ああしなきゃ出ない音があるんですよね。ギターを投げたときにしか出ない音というものには、ギタリストはみんな理解があると思う。それっておそらくギター特有の文脈で、ほかの楽器だとないですよね。

破壊したいんじゃなくて、そうしなきゃ出ない音があるという。フリージャズのギタリストの高柳(昌行)さんがギターを桜の木でしばくのも、壊したいんじゃなくて、本当にああしなきゃ出ない音があるからで。

ちょっとやそっとじゃ壊れるものでもないし、壊れても部品を変えれば音がまた出るしということでは、そういう実験がしやすい楽器であり、鉄や木でできていてプリペアドとの相性もすごくよかったという点もありますよね。

—ジョン・ハッセルの「第四世界」(※)について、音楽ってこういうものだという道徳観を排除している、ということを書かれてましたが、エレクトリックギターはそういう道徳観に疑問を生じさせる楽器ともいえますね。

岡田:あと大きいのはペダルが早い段階で普及しているから、「エレキギターはこういう音だ」というイメージがそもそもそんなにないのは大きそうですよね。

レス・ポール(※)の時代からテープ変調とギターって密接だったと思いますし、ほかの楽器に比べて既存のものとは異なる音を探す、サウンドをつくるってことが、早い段階から意識されていたんだとは思いますね。

—たしかにそうですね。普段曲をつくるときもギターですか?

岡田:そうですね。基本ギターですけど、『Bestu No Jikan』は鍵盤を使ったのもあるし、水の流れる音やビートから組んでいったものもあります。基本的にはギターでつくりますけど、そうじゃないパターンも最近いろいろ試していますね。

—ジャズは基本インスト音楽ですよね。ジャズボーカルはありますけど、いわゆるポップスとは違って、歌だけど楽器的な要素も強いです。「歌に回収されない音楽」といっていいのかわからないですが、そういう部分でジャズに惹かれることもありますか?

岡田:ものによりけりですけど、歌がある音楽とない音楽ってまったく違うものですよね。歌があるとすべての音が伴奏化してしまうぐらい強さがある。声が持つ魅力はありますし、それは別に悪いことじゃないと思う。

ぼくはパンデミックのタイミングで歌がある音楽を全然聴けなくなって、けっこう周りの友達でも多かったんです。「誰かの言葉を聞くより、一旦自分で立ち止まって考えたい」って人はおそらく多かったと思うんですね。

ただでさえ自分で歌いたくない人間なのに、そういう状況で歌うっていうのはなかなかな労力ですから(笑)。振り切って、自分で歌う方向に舵を切る意味も見いだせなかったし、言葉で何かをする作品づくりは考えられないタイミングではありましたね。

岡田:でもそのとき考えていたのは、もともと喋るより文章を書くほうが好きだったってことなんですよ。あまり喋るのは得意じゃないというか、とっさに喋るとニコニコして思ってもないことを言っちゃうみたいなところもあって(笑)。

うまく言葉にできないことが頭のなかにある状態で出るため息とか、特に意味ない「ううーん」みたいな言葉が、たぶん自分にとって一番音楽的な状態だと思うんですよね。パンデミックのタイミングに「そういえばどうして音楽をつくってたんだっけ?」ってことを考えてるときに、もう一度そこに戻ってきた感じはありました。

—なるほど。『ギター・マガジン』の連載以外も、岡田さんが書かれている文章を読むと、書くことに非常に優れている、読ませる文章を書く人だと思いますね。ぼくがいうのはおこがましいですけど。

岡田:恐縮だなあ。

—それは、「ミュージシャンの言葉」というのとも違っていて、岡田さんは「リスナーとしての言葉」を持っていると感じました。リスナーの部分と、ミュージシャンシップのような「言葉がいらない」といわれがちな部分とが、別に乖離してないとも感じたんです。

岡田:そうですね。たしかに本当に熱心なリスナーですよね(笑)。

—それは感じます(笑)。

岡田:「音楽が好きすぎるからつくりたい」みたいなタイプだったんです。親にピアノにくくりつけられて、泣きながらピアノ弾いたとかそういう体験はないし。

だから、デイヴィッド・トゥープ(※)とかすごいシンパシー感じる。彼の文章も音楽もすごく好きです。ハードコアリスナーの延長のような音楽のつくり方にシンパシー感じますしね。プリミティブな伝統音楽から数学的といえるような実験音楽、そしてエキゾチカのようなある種の自覚的なまがいものミュージックまで、ああいったリリカルで美しい文体で綴れる書き手はそう多くないと思います。

岡田:ドキュメンタリー的な文章も文脈をさまざまな角度から認識して自身の基準を養ううえではとても重要なものですが、ぼくの好きな音楽の文章の多くは、ある音楽が書き手の個人的な記憶や感受を引き出し、それを連想ゲームのように飛躍させ、綴られたものが多いです。

たとえば、とてつもなく美しい映画を見終わったあと、ぼくは「言葉が出てこない」という状態になります。ですが、意識が覚醒して映画のストーリーとはまったく関係ないしばらくのあいだ考えたこともなかったような過去の記憶がふと呼び戻されることがあります。映画や音楽が人にもたらすもののひとつにそういったことがあるように思います。トゥープの文章はそうした個人的な体験を思い起こさせます。

ぼくの音楽への接し方って、とにかく音楽がずっと好きで、ずっと音楽にまつわることを考えていて、その延長でつくっている感覚なんです。

Photo by Hayato Watanabe