トップへ

『グリーン・ナイト』デヴィッド・ロウリー監督に聞く、未熟な若者と緑の騎士の物語は、現代に何を問う?

2022年11月25日 12:01  CINRA.NET

CINRA.NET

写真
Text by 後藤美波
Text by 木津毅

古典を現代に向けて語るとき、現代とはまったく異なる価値観として提示するのか、あるいは現代に通じるものとして見せるのか、作家は大きく言ってふたつのアプローチから選択することになるだろう。14世紀に詠まれたというアーサー王にまつわる作者不詳の詩『サー・ガウェインと緑の騎士』をデヴィッド・ロウリー監督のもとで映画化した『グリーン・ナイト』は、はっきりと後者のあり方を目指した作品である。

原作では騎士だったガウェインは、映画ではまだ名を成していない青年として登場し、己に課された試練に向き合うための旅に出ることになる。それは無名の若者が形だけの名声に囚われずに自分自身の内面に向き合う道程でもあり、はじめの彼の未熟さは情けないものというより親しみやすいものとして立ち上がっている。「緑の騎士(グリーン・ナイト)」なる自然の化身が登場し、彼と首切りゲームを行なうという中世的で恐ろしい物語でありながら、現代に生きる若者たちが共感しやすい成長譚・冒険譚として脚色されているのである。

これまで1970~80年代のアメリカ映画を想起させる『セインツ - 約束の果て -』(2013年)や『さらば愛しきアウトロー』(2018年)、あるいはディズニーのファンタジー『ピートと秘密の友達』(2016年)、ある家に取り憑いた幽霊を詩的かつ哲学的に映した『A GHOST STORY/ア・ゴースト・ストーリー』(2017年)と、時代も舞台もタッチも異なる映画を発表してきたロウリー監督だが、現代社会と異なる時代や別のリアリティーから「いま」に向けて語るという点では共通しているとも言える。『グリーン・ナイト』もまた、数百年前の詩がなぜいまもひとを惹きつけるのかという興味から出発し、どこか禍々しくも幻想的なビジュアルを実現させつつ、私たちが直面している課題、すなわち「試練」をほのめかす。現代の人類は自然が課した試練を乗り越えられるのだろうか?

本作で「A24」のラインナップに本格的な中世ファンタジーを持ちこみ、作家としての個性をさらに強固なものにしたデヴィッド・ロウリーに話を聞いた。知的で明晰な回答をしつつも、モンスター映画への愛を語るときの邪気のなさが強く印象に残るひとだった。

デヴィッド・ロウリー
1980年12月26日、アメリカ生まれ。2005年に『Deadroom(原題)』で長編監督デビュー。2011年に自身の映画製作会社SailorBearを立ち上げる。2013年にケイシー・アフレック、ルーニー・マーラを主演に迎えた長編映画2作目となる『セインツ - 約束の果て -』が公開。2016年にはディズニーの冒険ファンタジー映画『ピートと秘密の友達』の監督に抜擢される。2017年、『A GHOST STORY/ア・ゴースト・ストーリー』が『ナショナル・ボード・オブ・レビュー』のインディペンデント映画トップ10に選出されるなど高い評価を獲得。2018年の『さらば愛しきアウトロー』は主演のロバート・レッドフォードの俳優引退作となり、大きな話題を集めた。2021年にはジャファル・パナヒ監督やアピチャッポン・ウィーラセタクン監督など錚々たる映画作家たちがCOVID-19をテーマに短編を制作したアンソロジー『永遠に続く嵐の年』に参加。ディズニーのアニメーション映画『ピーター・パン』(1953年)にインスピレーションを受けた、ジュード・ロウ主演の最新作『ピーター・パン&ウェンディ』が2023年にDisney+で配信予定。

―あなたは学生時代に原典の詩に出会ったということですが、それから20年ものあいだ、映画化するに至るまで、この物語があなたを惹きつけ続けた最大の理由はなんでしょうか?

ロウリー:アーサー王の伝説について、はじめはその奇妙なところに惹かれていたのだと思います。ただ近年読み返すと、文化的な観点で現代性を持っているところに強く惹かれたんです。数百年前の詩人が書いたものが、現代社会にこれほど通じるというのはやはり興味深いですよね。

―『サー・ガウェインと緑の騎士』 については、出会ってからこの20年間で印象が変化したところはありますか?

ロウリー:あると思います。もし自分が19歳のときにこの作品に取り組んでいたら、まったく違ったものになったでしょうね(笑)。詩の持つ暴力性や攻撃性にもっとフォーカスして、この映画のように倫理観について深く掘り下げることはなかったと思うんです。詩に出会ったときは、怖くて奇妙で、暴力的で官能的なところにすごく興味を惹かれていました。こうして時間が経って振り返っているから気づけたことですけどね。

―本作は騎士の「名誉(honor)」にまつわる物語です。現代社会では「有名になること」や「名声」に金銭的な意味において価値が置かれていますが、「名誉」が重んじられているかには疑問も残ります。私たち現代人は「名誉」の意味を忘れていると感じますか?

ロウリー:私たちは歴史を通じて「名誉」の意味を問い続けていると思います。つまり、成功の外側にあるものにばかり目を向けるのではなく、自分の内側について考え、見つめ直してきたのではないか、と。有名になることや見た目以上の何かがあるということを思い出さなければならないときが人生にはあると思いますが、そのために人間が自分の内側を成長させなければならないというテーマは、普遍的なものです。

『グリーン・ナイト』ポスタービジュアル © 2021 Green Knight Productions LLC. All Rights Reserved

―たしかに内面の成長というのは本作の重要な要素ですね。その意味で、おそらく本作において観客の共感を誘うのがデヴ・パテルの親しみやすい存在感です。彼はいわゆる騎士物語の立派で逞しい主人公というより、まだ世の中の厳しさを知らない若者としてはじめ登場しますが、彼の未熟さはここで意図的に強調されたのでしょうか?

ロウリー:その通りです。詩に登場するガウェインは百戦錬磨の戦士であって、アーサー王に騎士と認められた存在です。ただその状態で映画に登場すると、彼の道のりを観客が追体験しにくいと考えたんですね。だから、私が騎士の位を取り上げたんです(笑)。つまり、まだ彼はヒーローがなすべきことを達成していない人物で、そのことによって観客が彼の旅について行ける余地をつくったのです。

『グリーン・ナイト』 © 2021 Green Knight Productions LLC. All Rights Reserved

―なるほど。その翻案もあって映画のなかのガウェインは現代の若者の共感も得やすいキャラクターになっていると感じたのですが、本作の制作にあたって若い世代の観客を意識することはありましたか?

ロウリー:このキャラクター造形だけでなく、映画全体において若者にも響くものにしたいと考えていました。私の年齢のひとたちだけが観る堅苦しいものにはしたくなかったですしね(笑)。

ただ、ガウェインが若者に共感されるように意識したということはとくになくて、彼がいかに魅力的かという点に集中していました。それは(本国で)映画が公開されてからいっそう感じたことですね。彼は基本的に好ましい人物ですよね。嫌いなひとはあまりいないでしょうし。ここまでの魅力や好感は、デヴ・パテルでなければ持ちえなかった鮮烈さによるところだと思います。

デヴィッド・ロウリー(左)とガウェイン役のデヴ・パテル。中央は緑の騎士 © 2021 Green Knight Productions LLC. All Rights Reserved

―その通りですね。一方で、本作に登場する女性たちの存在も興味深いです。アリシア・ヴィキャンデルが演じるふたりはどちらも意思の強い女性として描かれていますし、何よりサリタ・チョウドリー演じるガウェインの母親は一族で影響力を持っていることが示唆されます。

古典を現代で語り直すときのジェンダー観や描写は難しい問題ですが、本作において女性キャラクターの造形で心がけたのはどういったポイントでしたか?

ロウリー:そもそも詩のほうには女性のキャラクターがほとんど出てこないので、映画にするにあたって彼女たちをしっかりと存在させるということをまずは考えました。原作では女王と奥方が少し出てくるだけですからね。原作での奥方は誘惑する人物としてだけ描かれていると思うひともいるかもしれませんが、ひとによってはより多くのことを表現しているキャラクターとして解釈されます。また、映画では魔女モーガン・ル・フェイが一種のヴィランとして登場するわけですが、どの女性キャラクターもより豊かに広げていくということを意識しました。

『グリーン・ナイト』はとても男性的な映画ではありますよね。だからこそ、ガウェインという男が学んでいくべきことを象徴する女性キャラクターが存在することはとても重要だったのです。それに場合によっては、彼を助けもせずに出会うだけだったりもしますが、女性たちはこの映画でガウェインの道のりで起こることを強調する役割を負ってもいるのです。

『グリーン・ナイト』 © 2021 Green Knight Productions LLC. All Rights Reserved

―緑の騎士(グリーン・ナイト)が自然を象徴しているとすれば、それに対する文明は本作では脆い存在として描かれているように感じられます。気候変動なども含め、現代文明が危機に晒されていることも念頭にあったのでしょうか?

ロウリー:間違いなく、私がそのように考えていたことが反映されています。人類の歴史なんて地球が存在するあいだのほんの短い期間なわけで、人間は「地球が危ない」と騒いでいるわけですけれども、それは人類が危機に晒されているということにすぎないんですよね。人類が滅んでも地球は存続していくし、人間がいない世界だって想像しうるものです。

そのような世界になってほしくはないし、人類にも頑張ってほしいとは思うのですが(笑)、そうなったら自然が地球を自分たちのものとして取り返して繁栄していくだろうという考えに、私は不思議と安心感を覚えます。そうした考え方をダークだというひともいるかもしれませんが、私は希望を感じるのです。

『グリーン・ナイト』 © 2021 Green Knight Productions LLC. All Rights Reserved

―そこはまさに、『グリーン・ナイト』の現代的なところだと思います。さらに、そこには人間以外の存在への共感や親しみがありますよね。『A GHOST STORY/ア・ゴースト・ストーリー』では「人間ではないもの」が恐ろしいというより愛くるしく切ないものとして現れますし、『グリーン・ナイト』の緑の騎士も恐ろしくはありますが、同時に慈悲深い存在でもあります。あなたが「人間ではないもの」に対して持っている畏怖と愛情は、どこから来るものなのでしょうか?

ロウリー:どこから愛情が来ているかはわからないのですが、とにかく子どもの頃から大好きなんですよ。フランケンシュタインやドラキュラみたいな怪物ものが大好きで……『大アマゾンの半魚人』(※)にも夢中になっていましたし。『ピートと秘密の友達』や『A GHOST STORY/ア・ゴースト・ストーリー』にその側面が出ていると思います。彼らをどこか優しい存在にしたかったんですよね。

―ええ。ちなみに緑の騎士のモデルとなったものはありましたか?

ロウリー:動きや振る舞いについては演じているラルフ・アイネソンに拠るところが大きいのですが、造形を考える際の初期段階のインスピレーションとしてはソフィー・プレスティジャコモ(フランスの彫刻家)の作品がありました。沼にいるクリーチャーの姿が参考になったんですよ。あとは、『ロード・オブ・ザ・リング』に出てくる木の守り神エントが大好きで、そういう感じも出したかったですね(笑)。

―あなたと同じく「A24」から作品を発表している『ウィッチ』のロバート・エガースや『ミッドサマー』のアリ・アスターも1980年代生まれで世代が近いと思うのですが――。

ロウリー:そうだったんですね。

―ええ。彼らの作品には現代西洋社会からの逸脱や異界への関心という意味で『グリーン・ナイト』との共通点も感じられます。彼らの表現にシンパシーを感じることはありますか?

ロウリー:彼らの作品の大ファンなので、いっしょに語られるのは最高ですね! たしかに批評的な部分を置いておいても、私の作品と似ているところやパラレルなところはあるかもしれませんね。というのは、実際に彼らと話すと同じような映画を観て育った実感があるのですが、その感じが作品にすごく出ているんじゃないかと思うんですよ。ただ、私よりも彼らのほうが自分自身の道筋を見出して進んでいるようにも感じます。

これはファンとしての意見でもあるのですが、作家として言うと、3人とも「映画とは何か」という境界を押し広げようとしているところがありますね。あと、出発点はみんなシネフィルなんですよね。だからそれぞれが独自の道を進んではいますが、そもそもの映画に対する想いは近いところにあるんじゃないかと思います。まあ、あのふたりがディズニー映画をつくるとは思えないですしね(笑)。

―たしかに(笑)。ただ、出発点がシネフィルという以外にも、共通点として現代のテクノロジーやインターネット社会に対する違和感や危機感、あるいは別の想像力を働かせようとしているのではないか、と私は感じるんです。おふたりのことはとりあえず別にしても、あなた自身はそうしたことを考えることはありますか?

ロウリー:たしかに少しそういうところはありますね。私の映画が時代ものだったり、時代もののように感じる理由のひとつには……いや、それはいい質問ですね。そういう風に考えたことはなかったですから。聞かれたいま、考えているところです(笑)。

時代ものになるのは、物語を語るうえで自分に都合がいいからなんだとずっと思っていました。『A GHOST STORY/ア・ゴースト・ストーリー』も厳密に言えば少なくとも部分的には現代ものでしたが、それでも時代もののように感じられる。前々から自分の映画はスマホやコンピューターが出てくると成立しないなと思っていたんですよね。なんか違和感があって。でもそうしているのは、美学的な、そして物語をつくるうえでしている選択の結果です。『セインツ – 約束の果て - 』もスマホが存在していたら成立しない。時代ものにしなければいけなかったんです。『ピートと秘密の友達』も同様です。

でも、私自身はテクノロジーを徹底的に使うほうで、いま使っているZoomのように利便性のためだけでなく、いつもスマホに触っているようなタイプなんです。電話で話すよりもテキストメッセージを使うことが多いですし。それがひとと連絡を取るのに一番好きな方法だし、メールにも依存している。でも、テクノロジーのおかげで生活がより良いものになっていると実感しつつ、同時に、何かを失ったような気持ちもあります。

ロウリー:たとえば、私には手書きの手紙に対するフェチがあるので、私の映画ではキャラクターがいつも手紙を書いたり、メモを送ったりしています。これは、私自身が昔やっていたことなんです。祖母が毎月送ってくれる手紙を全部クローゼットのなかの箱に大事に集めていました。でも、いまはその意欲がなくなってしまって、そうしたことをしなくなってしまった。そしてそんな自分が以前の自分に比べて劣っているように感じるんです。テクノロジーが私の人生を悪いものにしたわけではないけれど、以前はもっと大切にしていたものが減ってしまった。私はそうしたものを恋しく思うんです。

私の映画が現代から離れ、過去に向かうのは、そのことと何か関係があるのではないかと思っています。必ずしも昔が良かったと思っているわけではないし、過去を美化してもいません。でも、テクノロジーが栄えたことでネガティブな影響が出ていることもあるとも思うんです。

これは私がSNSをやらない理由のひとつです。SNSが明らかに私の人生を悪くしているのが明らかだったからです(笑)。だから、SNSはやめた。文化的なレベルでは、私たちはもう少しだけSNSの使用を減らした方がいいんじゃないかと、そう思っています。とはいえ、私もその価値はもちろんわかっている。だから葛藤しているんでしょうね。

―ええ、本当にそう思います。ところで、私は『A GHOST STORY/ア・ゴースト・ストーリー』に出演していたフォーク・シンガーのボニー・プリンス・ビリーの大ファンなのですが――

ロウリー:いいですね!

―はい(笑)。彼、ウィル・オールダム(ボニー・プリンス・ビリーの本名)が映画のなかで時間を超越することを語っていましたよね。あのシーンは映画のテーマに言及するものだったと思います。私は『さらば愛しきアウトロー』なども時間について語っているように感じますし、もちろん『グリーン・ナイト』も古典の再現という意味で時間を超えています。あなたの映画において、しばしば時間を超越することが主題になるのはなぜだと思いますか?

ロウリー:なぜなら時間というのは、必ず失われてしまう唯一のものだからです。