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King Gnuや幾田りらの新曲は「アンセム」になれるか? サッカーワールドカップとJ-POPの奇妙な関係

2022年11月22日 12:01  CINRA.NET

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Text by レジー
Text by 生駒奨

4年に一度のサッカーの祭典「FIFA ワールドカップ」がいよいよ幕を開けた。サッカーは、世界中でもっとも広く親しまれているスポーツだ。だからこそ、ファッション、アートなどさまざまなカルチャーと接続している。そして、音楽もその例外ではない。

日本では、ワールドカップなどの大規模な大会を放送する各放送局が旬なアーティストの楽曲を「大会テーマソング」とし、パワープッシュすることが恒例となっている。過去のワールドカップでテーマソングに起用されたDragon Ashの“Fantasista”やSuperflyの“タマシイレボリューション”は競技の熱量を鮮やかに表現し、人々の心にサッカーの魅力を刻みつけた。

しかし、サッカー界が競技としてもビジネスとしても大きく変化しているいま、サッカーと音楽の関係も変容しようとしているのかもしれない。ポップカルチャーに深い造詣を持ち、著作に『日本代表とMr.Children』(ソル・メディア)『ファスト教養』(集英社)などがあるライターのレジーが、「サッカーワールドカップテーマソング」の現在地を考察する。

2022年11月20日からはじまったFIFAワールドカップ・カタール大会。サッカーファンにとっては4年に一度の祭典であり、またイベント好きにとっても大勢で盛り上がる絶好の機会だ。

そして、音楽ファンにとってはさまざまなメディアで発表されるテーマソングが楽しみのひとつとなるだろう。これまでも数多の大物ミュージシャンがグローバルなイベントを前にしてその腕を振るってきており、今大会においてもインパクトの強い楽曲がラインナップされている。

長年ワールドカップの中継を支えてきたNHKの「2022 NHKサッカーテーマ」として発表されたのが、King Gnuの“Stardom”。

2018年の前回大会で同じ役割を果たしたSuchmos“VOLT-AGE”がじわじわと温度を上げていく曲調だったのに対し、“Stardom”はサッカーの持つダイナミズムがストレートに表現されている。この楽曲は、彼らのロックバンドとしてのまっすぐさがよく表れているといえるだろう。<あの日の悪夢を断ち切ったならば スポットライトに何度でも手を伸ばし続けるから>という歌詞は、1993年に「ドーハの悲劇」(※)の当事者としてカタールでワールドカップ出場を逃して悲嘆に暮れた森保一が、日本代表監督として同国で開催される本大会に臨むという歴史の積み重ねも想起させる。すでに人気バンドとしての地位を盤石にしている彼らのステージが、この曲でさらに一段押し上がることになるかもしれない。

King Gnu / 写真提供:アリオラジャパン

テレビ朝日および今大会の全試合中継を行なうABEMAにおいて「ABEMA・テレビ朝日 FIFA ワールドカップ カタール 2022 番組公式テーマソング」として起用されるのが、LiSAの“一斉ノ喝采”。

印象的なギターリフに彼女らしいハイトーンボーカルが組み合わさった勇壮な雰囲気のなかで「戦いとしてのサッカー」「人と人をつなぐ媒介としてのサッカー」が歌い上げられるこの曲は、これまでのワールドカップ中継を彩ってきたSuperfly“タマシイレボリューション”(NHKの2010年度サッカーテーマソング)や椎名林檎“NIPPON”(同2014年)直系の楽曲ともいえる。

LiSA / ©︎AbemaTV, Inc.

フジテレビ系テレビ番組「FIFAワールドカップ カタール2022」のテーマソングとなったのが幾田りら“JUMP”。

軽快なムードとシンガロングに彩られたこの曲は、アスリートのシビアな勝負の世界について歌いながらも、サッカー観戦が持つ楽しさや観客が受け取る前向きな気持ちともリンクしている。YOASOBIのボーカルとして、さまざまな楽曲でのフィーチャリングアーティストとして、そしてソロとして、シチュエーションにあった表現力を発揮する彼女の存在感は、2020年代の音楽シーンにおいて着実に高まりつつある。

幾田りら / 画像提供:ソニー・ミュージックレーベルズ

カタール大会の開催期間は2022年12月18日まで。つまり、大会終了と同時に世間は年末年始になだれ込む。その年の振り返りコンテンツが多数登場するこのタイミングで、これらの楽曲は多くのメディアを賑わすこととなるだろう。

さて、ここまでの文章はどちらかというと「J-POP好き」の視点からのものである。世界的なスポーツイベントに合わせてビッグアーティストが楽曲を提供する、というのは音楽ファンにとっての重要なトピックとなる。

ここから先は、前段の話をひっくり返すかたちで論を進めたい。具体的には、「ワールドカップのテーマソングとは、本当に重要なトピックなのか?」という問いを立ててみたいと思う。

この問いに対する筆者の仮説は2つ。「2022年時点においてはNO」、もしくは「条件つきで(偶然性に頼るかたちであれば)YES」。以降、それぞれについて掘り下げていく。

2022年11月現在、サッカー日本代表の人気はこの10年ほどのなかでかなり低い水準にある。コロナ禍の状況を差し引いてもスタジアムに観客が入らない、広く話題にならないという現状には選手からも危惧の声が出ている。日本代表チームでキャプテンを務める吉田麻也は「サッカーダイジェストWeb」(*1)の記事内で以下のように語っている。

「この間の札幌の試合(パラグアイ戦)を見て、チケットが売れ残っていると知って……僕の肌感覚とは違ったなと。だからこそ、もうちょっと自分たちが露出を増やさなければいけないんじゃないかとは、ひとつ考えている」

その理由は複合的なためここで深掘りはしない。ただ、日本代表は多くの人たちが共有できる「ストーリー」を描き出せなくなっている、ということはいえそうである。先日のワールドカップ出場メンバーの発表に関しても、予選でチームを支えた大迫勇也や原口元気といった選手たちが選ばれなかったことについてどこまで「国民的なニュース」として受け止められていただろうか。また、先ほど触れた森保監督の道程に感情移入する向きもおそらくかなり少ないと思われる。

もともとは世界のサッカーと伍することを目指して1993年に始まったJリーグは、目線の先にワールドカップへの初出場、さらにはその自国開催を見据えていた。そこから30年近い時間が経って、ワールドカップは「出場することが当たり前」の大会となり、有望な若手は時としてJリーグでの活躍前に海外のリーグへ旅立つようになった。

一方で、世界で奮闘する選手たちの様子が伝えられる場所は地上波から主に有料のプラットフォームへと移った。かつては高い視聴率を誇っていたワールドカップのアジア最終予選でさえ、今大会に関しては放映権の高騰により一部の試合がDAZNで放送されている。カタール大会を全試合中継するのが特定のテレビ局ではなくABEMAというのは、こういった流れの帰結でもある。

ABEMAは無料のプラットフォームだが、現時点では地上波の持つ「メディアとしての間口とわかりやすさ」には及ばない。そしておそらく、この状況下において「テレビのワールドカップ離れ」も一定レベルで進むだろう。そんななかで、ワールドカップのテーマソングをことさらに「ありがたがる」スタンスは徐々に時代遅れになりつつあるのではないだろうか(念のためだが、これは個々の楽曲のクオリティーについての論評でないことを補足しておきたい。あくまでも「ワールドカップのテーマソング」という「肩書き」についての話である)。

ここまでが、ひとつ目の仮説=「2022年時点においてはNO」に関する話である。大会前の日本代表への期待値が非常に高かった2014年のブラジル大会の際には、本田圭佑を中心に知名度の高いスター選手が居並ぶチームをウカスカジー“勝利の笑みを 君と”がサポートした。この曲は日本代表に関連する複数の企業のCMソングとしても起用され、お茶の間のサッカー気分を大いに盛り上げた。そういったかたちでの波及効果は、ワールドカップもしくは日本代表を起点には生まれづらいのが現状である。

一方で、メディアとは非常に現金なものである。大会前の期待値とは裏腹にグループリーグで惨敗を喫した2014年の年末に、ブラジル大会での日本代表の話をするメディアはほとんどなかった。大会前のメンバー発表時に高揚感のある映像とともにNHKで初公開された椎名林檎“NIPPON”は、その年の紅白歌合戦ではサッカー日本代表に直接触れない演出とともに披露されている。それとは対照的に、大会前のしらけムードを覆してラウンド16での熱戦を繰り広げた2018年ロシア大会の日本代表は、Suchmosのパフォーマンスとともに紅白歌合戦で大々的にフィーチャーされた。

このような話をすれば、2つ目の仮説=「条件付きで(偶然性に頼るかたちであれば)YES」の意味をわかっていただけるだろうか。結局のところ、スポーツに関する楽曲は該当の大会の盛り上がりやそこに出場する日本のチームおよび選手の成績に大きく左右される。ゆず“栄光の架橋”がここまでクラシック化したのは、アテネオリンピックで体操男子団体が金メダルを獲得した際の「伸身の新月面が描く放物線は、栄光への架け橋だ!」という実況があってこそである。一方で、藤井風と東京オリンピックの記録映画に関するつながりについてもはや話したくないファンも多いのではないか。スポーツに関するタイアップはある種の「博打」である。

タイアップの目的を「露出の確保」に置くのであれば、ワールドカップのテーマソングは必ずしも盤石なものではない。日本におけるメディアイベントとしての位置づけが徐々に低下しつつあるだけでなく、そもそもその効果は日本代表の成績にも大きく左右される。

ただ、タイアップの意義はほかにもある。たとえば、タイアップする相手をインスピレーションの源泉として考えた場合、ワールドカップおよびサッカーにはスポーツとしてのスピード感、チーム内の絆、観客の熱狂など、クリエイターの創造性を刺激する要素が多数存在する。かつてDragon Ashが発表した“Fantasista”(『2002 FIFA ワールドカップ公式アルバム』に収録)や“Velvet Touch”(TBS系列「EURO2008」のテーマソング)は、局面を打開する個を想起させるタイトルのもとで、それに反応するサポーターの歓声ともリンクするサウンドが展開される。このバンドが多数のオーディエンスを魅了するスペシャルな存在であることを、これらの楽曲はサッカーをモチーフにして鮮やかに表現している。

ここで指摘しておきたいのは、こういった「サッカーが掻き立てるクリエイティビティー」の耐用年数がいつまであるのか、という点である。

戦術の重要度が年々高まっている現代サッカーにおいて、「ファンタジスタ」(※)が「ベルベットタッチ」(※)で試合を決するような余白は日に日に失われつつある。そんななかでビジネスとしてのサッカーはさらなる拡大を続けており、前述の通りさまざまな試合の放映権が値上がりしているだけでなく、将来の放映権を投資会社に売ることで直近のキャッシュを得るという「無からお金を生む」かのような手法も話題を呼んでいる(*2)。

世界ではサッカーとお金の距離がいままで以上に近づいている現状がある一方で、国内では「サッカーはコスパが悪い」という若年層からの声も一部からではあるものの聞こえてくるようになった。

「サッカーは野球など他のスポーツと比べて点が決まりづらくて、それに対して90分ちょっとと試合時間が長めなので、何だろう……、“見る価値がない”としちゃうと言い過ぎなんですけど、あの、コスパが悪いというか……」 - 2022年現在、あらゆるエンターテイメントがビジネスの論理の拡大や受け手の感覚の変化によって岐路に立たされている。それはサッカーも、ワールドカップも、そして音楽も例外ではない。

「ワールドカップのテーマソング」という座組は、マスメディア主導の国民的スポーツイベントという構造が無邪気に信じられていた時代の産物であったと同時に、サッカーというスポーツに託すことのできるロマンが多くの人の共通言語として機能していたゆえのプロダクトだった。メディアのあり方とサッカーのあり方が変容するなかで、今後ワールドカップとJ-POPの関係性はどのようになっていくのだろうか。コロナ禍以降初めて行なわれる今回のワールドカップが、ひとつの分水嶺となるのかもしれない。