Text by 山元翔一
『FESTIVAL de FRUE 2022』(以下『FRUE』)が11月5日、6日に静岡・つま恋リゾート彩の郷で開催される。
ピノ・パラディーノ&ブレイク・ミルズやWhatever The Weather、Salamandaなど、日本でライブを体験するのは難しいだろうと勝手に思い込んでいた面々の来日が実現するという嬉しい驚きがある一方、特に今年の『FRUE』からは、個々の出演アーティストたちの存在から立ち現れるもの以上の何かがあるように感じられる。ジャンルを軽やかに越境する「何か」……それはどういったものなのか。
キーワードは3つあるように思う。フォークロア、ジャズ、そして即興演奏(インプロヴィゼーション)。『FRUE』が打ち出すレフトフィールドな感覚を紐解くことで、いま音楽の最先端で起こっていることに触れられるのではないか。このことをひとつの狙いに、本稿では『FRUE』主宰の山口彰悟、文筆家の大石始、音楽ジャーナリスト/ライターの原雅明、音楽家の石橋英子にそれぞれ話を聞いた。
『FESTIVAL de FRUE 2022』がかたちにしようとするものは、一体何なのか。以下、4人のインタビューを記録する。
―『FRUE』はどんなふうに出演者をブッキングしているんですか?
山口:ひと言でいえば、ぼくらはフェス制作全体でインプロビゼーションをやっている感じです。たとえば今年はヨーロッパの飛行機は結構来づらいとか、アメリカはビザ取るのがラクそうだから、みたいな部分は大きい。やっぱり呼びたいアーティストはいっぱいいるから現実的な部分は考えます。地域的に難しいアーティストに声かけて結局ビザが取れない、みたいなことは避けたいので。
人と人のつながりとか周りの人からのレコメンドも大事にしているし、Twitterで「この人、『FRUE』で呼んでほしい」みたいなコメントも参考にしてます。あとはAI(笑)。SalamandaはSpotifyから何度かレコメンドされて気になって声をかけました。
―そうなんですね。仮にレコメンドがあったとしても、ジャッジする必要はあるわけで、『FRUE』をつくりあげていくうえで価値観というか、審美眼みたいなものがあると思うんです。そうじゃなきゃ、イベントとしていいグルーヴが生まれないと思いますし。
山口:やっぱり自分たちのことを「究極のリスナー」だと思っているのは大きいかも。DJもしないし、楽器も演奏しないし、踊るだけみたいな感じなのですが、耳はめちゃくちゃいいと思ってますし、いろんな音楽を聴いてかなり鍛えられたし、そもそも「踊れる」という感覚は大事にしてます。
『FESTIVAL de FRUE 2022』のラインナップ
山口:あとパーティーやフェスに行くと面白そうな人を探すんですけど、『FRUE』のブッキングもその感覚にちょっと似てるかもしれない。いま自分が生きている時代のなかで面白そうな人、変なことやってる人をいつも探してるし、最近、『FRUE』が続いていくなかで、そういった人や情報が集まってきてる感覚が少し芽生えてきた。
―山口さんの考える「面白そう」「変」はどういう感覚でしょうか?
山口:そうですね……源泉を探してるって感じなのかな。ぼく、温泉が大好きなんですけど、源泉かけ流しのアイデアでやってる人を探してるというか、ちゃんとオリジナリティーがあって何かとめどなく湧いてる感じが好きです。それでいてかけ流し。
―『FRUE』にはジャンルに回収されない何かがあって、それを大事にしているんだろうなとブッキングから感じます。それが一体何なのかって考えたときにサム・ゲンデルがひとつのキーになるというか。ジャズをひとつのルーツに持ちながら、ジャンルを超えてさまざまな人と協働するサム・ゲンデルを呼んで、これだけフィーチャーするというのが外から見たときの『FRUE』のわかりやすいアイデンティティーなのかなと思ったりもします。
山口:別にそういうわけではないのですが、お客さんがサムを求めている感じもあります。それに応えているというか。
『FRUE』のアイデンティティーが何かといわれると、たとえばSalamandaとかbilly woodsから、Deerhoofとかまで含めて、ぼくたちのなかでは全体的にうっすら共通する何かを感じています。なかなか言葉で表すのは難しいですが、自分のなかでは「音響感」って呼んでいます。
山口:サムはジャズをやっていても、ジャズシーンにいるわけじゃないっていうのが『FRUE』の感覚に合ったのもあるんですけど、そもそも呼ぶ場所がほかにないってことはあると思うんですよね。
『フジロック』でも『サマソニ』でも盛り上がるイメージが湧かないし、『FFKT』とかはジャンル的にも合わないだろうし。逆にぼくらはそういうイベントが呼ばないような感じの人たちを呼んでいるところがあります。海外ではあまり売れなさそうな、っていうと語弊があるけど。
―おそらくサム・ゲンデルもそうだったと思うのですが、海外でビッグになる前に声をかけておいて関係をつくっている、みたいなところはあるんじゃないですか?
山口:それはたしかにあるんですけど、ビッグっていってもわれわれが招聘するようなアーティストって、日本だと、お客さんが来て1,000人くらいというのがMAXという感覚はあります。
そもそも、海外で売れる前にとか、関係をつくっておこうとか戦略的な部分はあまりなく、このアーティストは日本でウケるんじゃないかという感覚は持ちつつ、日本独自というか、『FRUE』独自で展開していきたいという気持ちはすごくあります。
サムを知ったのは、2016年だったのですが、初めてSoundCloudの音源で聴いたときはほんとびっくりしました。「なんだ、この音楽」と。2017年のアルバムが出る前にCDを聴かせてもらった感想をTwitterに投稿してました。
山口:このあいだの『FESTIVAL FRUEZINHO』のツアー最終日の大阪で、最後のブルーノ・ペルナーダスのライブ終わりのころに、もうひとりの主宰の吉井と2人で「まぁ、無事終わりそうでよかったねー」なんて軽口を叩いてたら、サムが、「You’re amazing!!」って後ろから肩を組んできて。「でしょ!」って感じで振り返りましたが(笑)。ブルーノ・ペルナーダスもそうですが、サム&サム(Sam Gendel & Sam Wilkes)も絶対に日本でウケるし、ぶちかませるでしょって確信はありましたから。
―Spotifyを見るとサム・ゲンデルのリスナー数は約20万人いますね。ロンドンが8,800人、ホームのLAが5,400人、ブルックリンが4,900人、ニューヨークが3,900人、東京が3,800人みたいです(いずれも2022年11月現在)。
山口:おお、すごい。Twitterでは、サムのことをいろんな人がいつも話題にしてますよね。まさかこんなに日本でウケると思ってなかった。サムがなぜウケたかっていうのは、コロナの影響もあると思ってます。
山口:普段だったら洋楽好きはライブへ行ってたわけだけど、コロナでライブにいけなくって、ライブで音楽を聴いていた時間がおそらくあまった。
そこへ、ステイホームで誰とも会えず、この世はどうなっていくんのかという陰な思いもありつつ、音響感の鋭い、内省的なサムの音楽と出会ってハマったんじゃないかと。だから、コロナがなければ、サムの音楽は、これほどまでに日本で流行らなかったんじゃないのかと勝手に思ってます。
―たしかにアンビエント的にも聴けるというか、あまり注意を払わずに聴くこともできるし、注意深く聴いても楽しめますよね。
山口:そう。それにサムはいろんな人といっぱいリリースもしてるから、来日してもらうときもいろんな形態でやったら、神出鬼没感も演出できるし面白いよね、みたいな話をしてて。
6月はサム・ウィルクスと来てもらったし、今回はピノ・パラディーノとブレイク・ミルズがメインのところに余白を埋めるみたいな感じでいるというか、どうとでもいける感じが面白い。普通はそんなことできないと思う。
―そもそも主役級の人ですし、ジャンルも国境も関係なくここまでいろんな人と柔軟にやれるというのも稀有なことですよね。
―そうやってサム・ゲンデルがキーマンとしていつつ、ジャズからアンビエント、エレクトロニックミュージックまでグラデーションがあって、あと今年はフォークロア的な感覚を表現しているアーティストも揃っています。
山口:今回は民謡クルセイダーズ、新垣睦美さんも入って、そこにサム・アミドンとか角銅ちゃん(角銅真実)がいます。民クルはずっと出たいって言ってくれていたんですけど、今年はハマるんじゃないかなって思ったんですよ。
ブレイク・ミルズももともとアメリカ民謡的な感じもあるし、「民クルに出てもらうならここだ!」みたいな。ただ盛り上げる要因として入れたくないし、ちょっと人気あるから呼んでみようとかじゃなくて、せっかく呼ぶならベストの文脈をつくりたい。やっぱり細い糸をたぐってブッキングしてる感じはあります。
―民クルとブレイク・ミルズのあいだには、民クルと同じ福生出身でアメリカーナ的なサウンドやジャズを独自に咀嚼している岡田拓郎さんもいますし、あとは折坂悠太さんも実験的なジャズの感覚がありつつフォークロア的な表現をされている方で。
山口:そうですね。岡田拓郎さんサイドから『FRUE』に興味があるって言ってくださって、この前出た新譜(『Betsu No Jikan』)をリリース前に、人を介して送ってもらったんです。
送ってくれた人も何の情報もなしに渡してきて(笑)、「なんかこのサックス、サムっぽいな」と思ったら実際にサムが入ってるし。ネルス・クライン(Wilco)とかジム・オルークとか、『FRUE』に出たミュージシャンがめっちゃ参加してるじゃん! ってあとから気づきました(笑)。
岡田拓郎さんは、ちょうどWWWでのリリースライブを見たのですが、音楽のことをよく知ってるなーと思ったし、泥臭くないインプロミュージックがやけに新鮮でした。
―開催間近ですが、ブッキングを終えてどんなことを感じていますか?
山口:もう当日ライブで一緒に見ましょうって感じなんですけど(笑)、われらも変な話、ピノ・パラディーノもSalamandaもWhatever The Weatherも、生で見たことないし、サム・アミドンも弦を入れた編成は見たことないし、サム・ウィルクスのクインテットも今回のために集めたメンバーですし、まだ誰も見たことのないアクトが多い。
イベントを積み重ねていくと、「オーガナイザーはなんとなくわかってる」ってことがあったりすると思うんですけど、今回は『FRUE』のためだけに組んだプロジェクトも多いし、当日にならないとわからない。2日間かけて、セッションしていく感覚があります。めちゃくちゃ大変ですが。
ただ、自分たちなりに時代感をすごく反映させたラインナップにはなったなということは感じています。あとは本当に何が見られるのか、何が起こるのか。お客さんの反応次第で演奏は変わりますので、ぜひご一緒しましょう。
ー大石さんから見て『FRUE』はどんなイベントに映っていますでしょうか?
大石:主催の山口さんと吉井さんは、1990年代末から2000年代にかけてやっていた『ORGANIC GROOVE』というフェスイベントのスタッフもやっていたんですね。それもあって『FRUE』が立ち上がったときは、『ORGANIC GROOVE』を踏まえた新しいイベントというような印象がありました。
『ORGANIC GROOVE』には、90年代に起きたジャズやジャムバンドのムーブメントを日本でどう昇華していくか、あるいはGrateful Dead以降のアメリカのサイケデリックミュージックの流れをどう紹介していくかーーそういった大きなテーマやミッションがありながら、ブラジル音楽を奏でるChoro Clubというバンド、井上薫さんのようなDJをはじめ、日本のアーティストと一緒に新しい音楽の場をつくりだしていくこと、ジャンルとかを飛び越えたつながりを見いだすような視点があったと思っています。
『FRUE』の会場の様子
大石:『FRUE』の最初の頃もそういう感じはあって、たとえば、過去にはThomashみたいなダンスミュージックの枠だけにとどまらないプロデューサー/DJを紹介しているという意味で、ジャンルを超えたものを当初から意識し続けているイベントだと思います。
ここ最近は特に、日本のアーティストに対してより積極的な感じがしています。もちろんそれはコロナで海外からは呼べないことももちろんあると思うけど、単なる穴埋めではないはずで。日本と海外のアーティストたちが、ジャンルや国籍を超えたところで共有している何かを意識しているんだろうなと。
ー『FRUE』の出演者から立ち上がる共通点を言語化することはできますか?
大石:いくつかあるとは思うんですよ。たとえば『ORGANIC GROOVE』との連続性ということであれば、Grateful Deadの音楽にあるような「踊れる」感覚ですね。
それはいわゆるダンスミュージック的な踊れるグルーヴではなくて、すごく緩くてミニマルで、即興的でその場でどんどんかたちを変えていくアメーバみたいなグルーヴだと思うんですね。Grateful Deadの音楽を「踊れる」といえる感覚が『FRUE』の出演者には共通しているんだろうなということは感じます。
大石:ふたつめでいうと、近年の『FRUE』のキーパーソンになっているであろうサム・ゲンデルの存在ですよね。サム・ゲンデルっていう神出鬼没の天才がまずいて、今年はピノ・パラディーノ、ブレイク・ミルズのプロジェクトで出演する。
一方で作品っていう点では、サム・アミドン、サム・ウィルクス、折坂悠太さん、岡田拓郎さんのアルバムにもサム・ゲンデルは参加していますよね。そういうミュージシャン同士のつながりというか、ネットワーク、人脈というのが、『FRUE』のラインナップのひとつのカラーになっているなということも感じます。
大石:あとはポップミュージックにおけるフォークロア的な感覚ですよね。それはここ数年、特にテイラー・スウィフトのアルバム(2020年発表の『folklore』)以降、いろんなところで目にするようになったものではあるんですけど。フォークロアというと、民俗的なもの、あるいは民間伝承、古くから伝わる風習であり、それらを対象とした学問、みたいに定義されたりしますけど、いわゆる土着的で伝統的なものってイメージすると思うんですよ。
でも実際、「現代におけるフォークロア」にとっての土着性や伝統を考えたときに、その定義は決して単純ではないと思います。その「土着」とされるものがじつは新しくつくられたものであるとか、「伝統」とされるものがさまざまな要素が入ったことでできあがっているとか、近年になって明らかになっているものもあるんですね。
要するにその土着的、伝統的とされるものの歴史の長さ、その正当性みたいなものを重要視することってあまり意味がないようにも思うんです。いまの「ポップミュージックにおけるフォークロア性」も、そういった土着的、伝統的なものとして現れているとは限らないんじゃないかと。
ーフォークロア=「民謡」ではないというか。
大石:そうそう、そうなんですよ。現代的な都市生活のなかでフォークロア的なものの萌芽を見いだすこともあると思うし、日々の生活感覚とか、その土地の風土みたいなものが音楽から生々しく現れるって意味でのフォークロアもあると思っているんですよね。
大石:そういう意味でブレイク・ミルズやサム・ゲンデルにもフォークロアを感じるし、サム・アミドンなんてモロにアメリカのルーツ音楽に向かい合っているわけだから、ある意味Grateful Deadの流れに通じるとぼくは思っています。そういう直接的な人だけじゃなくて、韓国のエレクロニックデュオのSalamandaとかもそうだと思いますね。
―ジャンルではなく、フォークロア的な感覚で出演者同士に何かしらのつながりを見いだすことができる。
大石:折坂さん、角銅さん、岡田さんもそうだし、あと新垣睦美さんですよね。新垣さんの音楽においても「伝統」というものは決して単純なかたちで現れてなくて、新しく沖縄のフォークロアを再構築するみたいなことが行なわれている。南国の楽園とか、なんくるないさー的なつくられたイメージではない「沖縄らしさ」に向き合っている音楽だなと思います。
新垣さんは沖縄のルーツがあるけど、育ちは名古屋なんですよね。大学でスワヒリ語学科を出ているからアフリカ音楽とか電子音楽とか音楽的なベースにあるらしいし、そういう複雑な背景を持った人がとらえ直す現代沖縄音楽って感じがしてめちゃくちゃ面白い。
ー「都市生活とフォークロア」ということでは、新垣さんには飛行機の音が環境音として入っている楽曲があって、これはおそらく沖縄の基地問題を暗喩していますよね。そういう生活のなかから立ち現れてくるフォークロア的な表現って、アンビエントみたいなサウンドからも感じられたりしますが、自分はなぜそこにフォークロアを感じるのだろうかって考えたりします。
大石:車のエンジン音とか、電車の発着メロディーみたいなものが、ある意味「都市の民俗音楽」のように聞こえる、みたいな感覚ですよね。地域のお祭りの祭囃子とか、おばあさんが歌っている子守唄みたいに、ぼくらは車や電車のノイズを聴き続けているわけで、いい悪いは別にして、それは自分らの心身の一部になってしまっている。
そういった観点からとらえた「フォークロア的なもの」は、自分の身体とか自分自身に向き合うなかで音楽のどこかしらに現れてしまうんだと思います。それが都市生活者としてのフォークロアとして表出しているんだろうなと。
そうやって「本当にそれがぼくらの土着 / 伝統なのか」と疑問を投げかけながら、もう一度ぼくらのなかにあるフォークロア的なものとらえ直している人たちが世界各地にたくさんいるんですよね。それは折坂さんもそうだし、青葉市子さんやGEZANもそうだし、名前を出していけばキリがないですけど。
ーフォークロアとひと言でいっても、折坂さんの志向しているものと、たとえば民謡クルセイダーズのものは結構違いますよね。
大石:だいぶ違いますね。どういう土地で生まれたのかとか、生きてきた道のりが違うとそこは当然変わってくると思うんですよね。
民クルは福生という米軍基地の街だからこそ生まれたものだと思うし、折坂さんは生まれてから世界各国を転々として千葉で育った人だから、ある意味、千葉から世界を見ているような感覚もあると思います。そうやって色はそれぞれだけども、違うからこそつながれるポイントがあるのかなって気がします。
―どういうものをフォークロアとしてとらえているか、というよりも、音楽表現をするなかで自分たちのなかにあるフォークロア的なものを見つめようとする姿勢でつながっているというか。
大石:たとえば、Salamandaは音楽的には現行ダンスミュージックを経由したミニマルミュージックをやっている人たちですけど、彼女たちのアルバムはニューヨークの「Human Pitch」ってところから出ていて。
そのレーベルオーナーのトリスタン・アープが所属しているAsa Toneにはインドネシア人のメンバーがいるんですけど、ちょっとガムランみたいに聞こえるミニマルダンスミュージックみたいな音楽をやっているんです。
大石:もともとミニマル音楽として注目された歴史があるガムランをもう一度、現行ダンスミュージックのなかでとらえ直しているのがSalamandaやAsa Toneだし、両者にはフォークロア的なミニマルミュージックという共通点がある。だから音楽としてはそれぞれ違うんだけど、岡田さんや角銅さん、新垣さんとSalamandaは確実につながっていると思います。
―面白いですね。Salamandaとほかのラインナップのあいだにあるのは感覚的、精神的なつながりかと思いきや、客観的な情報から見てもリンクが見いだせる。
大石:そうなんですよ。あと全体的にアンビエント/ニューエイジ以降の汗をかかない、心が揺れる音楽ってことは共通していると思いますよね。すごくクールな醒めた感じなんだけど、じつは熱いみたいな感覚がある気がします。
それはアンビエントのリバイバル以降の時代の空気感というか、現在の音の手触りの感覚なんだと思いますし、そうやってジャンルではない、すごく抽象的な感覚でリンクしているアーティストがピックアップされている。ただそれはおそらく会場に行けば、すごく納得できるんだろうなと思います。
―大石さんもDJをされますけど、DJという点からだと『FRUE』はどう見えますか?
大石:ドナ・リークもいろんなレコードかける面白いDJですし、あとMichaelさんっていうDJが出るんですよね。渋谷のTANGLEっていうDJバーの店主なんですけど、そのMichaelさんがブッキングされたことは素晴らしいなと思います。
Michaelさんはもともと新宿のROLLING STONEというロックDJバーで腕を磨いていた人で、根っこはロックなんだけども、現行のダンスミュージックやアンビエント、ニューエイジ、エクスペリメンタルなものもめちゃくちゃ追っかけているすごくジャンルレスな人なんですよ。
MichaelのMIXを聴く(SoundCloudを開く)
大石:Michaelさんは東京のアンダーグラウンドなクラブシーンのキーパーソンの1人だと思っていて、MichaelさんのDJに刺激を受けた新しい世代の人たちのDJスタイルがどんどん変わってきたり、すごくいい影響を与えている人なんです。
単に集客力のあるDJってことなら、ほかにいくらだって呼べたと思うんです。でもそうじゃなくて『FRUE』の精神を理解していて、いろんな人を世代を超えてつなげている東京のクラブシーンの重要人物であるMichaelさんをブッキングしている、その一点のみで見ても、『FRUE』はもう最高だって言ってもいいぐらい。
それはおそらく、山口さんが東京の現場を細かく見ている証拠でもあると思うんですよ。ほかにもYELLOWUHURUさんも出ますけど、DJのブッキングを見てもいろんなことが伝わってくるなと思います。
『FRUE』の会場の様子
ー大石さんは最近どんな音楽に注目して聴いていますか?
大石:ぼくは物書きとしても、フォークロア的なものに軸足を置いているところではあるんですけど、そこでいうフォークロア的なものというのは大衆音楽や、もう少し土着性の強いものを自分のなかでイメージしていたんですね。だけど最近、雅楽を再解釈する人たちがちょこちょこ出てきていて。
雅楽のような宮廷音楽は、いわゆる大衆音楽や土着的な民俗音楽より、ちょっと手伸ばしにくいところがあると思っていたんですけど、「どんぶらこ」っていうオオルタイチさんが石田多朗さんと一緒にやってるプロジェクトがすっごく面白いんですよ。オフィシャルサイトを見ると、こういうことが書いてあるんです。
雅楽に挑むのではなく、いだかれに行こう。悠久の時間の中で雅楽が存分に吸い込んできたこの国の風土、そして、そこに寄り添ってきた面影達のささやきに耳を澄ましながら。 - どんぶらこのオフィシャルサイトより大石:「雅楽に挑むのではなく、いだかれに行こう」って謙虚さは、雅楽に抱かれるときに自分の体から湧き上がってくるものに向かい合うってことでもあると思うんです。
宮廷音楽として形成された雅楽に対するアプローチとして、どんぶらこのスタンスはとても誠実で面白いなと思います。あとは最近やけのはらさんがTaro Nohara名義でリリースしてましたけど、あれも雅楽やいわゆる純邦楽と呼ばれるものからインスパイアされていましたね。
雅楽ってニューエイジ/アンビエントの文脈で海外でもちょっと注目を集めているって話がありますけど、そういう意味で今後、雅楽に限らず、宮廷音楽や古典芸能、古典音楽とされていったものへのアプローチがこれから広がっていくのかなって感じがします。これまでは民謡とか、土着的なものが多かったですけど、まだまだ日本の古典の世界は広大なので、いろんな広がりが出てくるのかなとすごく関心を持っています。
ー『ORGANIC GROOVE』に出ていたとおっしゃっていた井上薫さんも、『水声: FIELD RECORDINGS FROM JAPONESIAN SHELF』(2022年)ってミックスCDを出してましたね。
大石:あれは素晴らしかったですね。フィールドレコーディング的なものと宮廷音楽的なものっていう、音のあり方としては交わらない領域の狭間で生まれてくる新しい表現だと思います。この2つの音楽は中心のないサウンドスケープ、みたいなところでつながっていっているような気がしますね。
フィールドレコーディング、アンビエントと雅楽ってことでいうと、ブライアン・イーノが20年ぐらい前に雅楽に取り組んだアルバム(雅楽演奏者・伶楽舎との2枚組アルバム『music for 陰陽師』)を発表もしていましたけど、最近聴き返したら結構面白かったです。1枚目がオリジナルで、2枚目がイーノのリミックス/再構築みたいな感じなんですけど、オリジナルのほうは当然普通に雅楽なので素晴らしいんですよね。
ーまず、いまどんなところから面白い音楽が生まれているのか、ということを原さん目線でお伺いしたいです。
原:ぼくはジャズについて書く機会が多いので、ジャズ周辺ということになるんですが、ジャズを遡行して古い音楽を再発見したり、ジャズから派生して、クラシカルなものにも、ポップなものにも、エレクトロニックミュージックにも関心を持ってきました。特に2000年代後半以降はもうずっとそんな感じで、定点観測的にジャズを追うことでその周辺の音楽も自然につながって耳に入ってくるというか。
今年の『FRUE』に出るピノ・パラディーノやブレイク・ミルズもそうだったし、サム・ウィルクス、サム・アミドンも、ロレイン・ジェイムスの別名義(Whatever The Weather)も、自分のなかでは勝手につながっている感じがしてます。
ーその関心のベクトルは、4年前に著書『Jazz Thing』を出されたときから通じているものなんでしょうか。
原:それ以前からですね。『Jazz Thing』を書いたときは、ロバート・グラスパーを筆頭にした「新しいジャズ」が出てきたのが契機ではありましたけど、ピノ・パラディーノも参加していたソウルクエリアンズ(※)の音楽とジャズの関係、そのビートとドラマーの関係などをちゃんと掘り下げたいというのは、ひとつありました。
『Jazz Thing』はそれだけではなくて、これまで語られにくかった「80年代以降のジャズ」とその周りにある音楽を追った本なので、すでにジャズを軸に周辺の音楽を聴き直すというスタンスはありました。
―原さんがそれらの音楽に関心を向ける背景には、どういったことがあるのでしょうか?
原:ジャズは伝統的な音楽で、スタンダードという王道があって、そのうえで解釈をどう変えていくのか、あるいは過去にさかのぼってどう再発見していくのかってところにジャズの面白味もあれば、あえてそう言いますが退屈さもある。ジャズに対しては、その表裏一体の気持ちが自分にはずっとあるんです。
90年代にインストのヒップホップとか、エレクトロニカとか、後にビートミュージックと言われるもののプロトタイプみたいな音楽を自分が熱心に聴いていたときも、サンプリング元の音楽に対して、あるいはヒップホップ、テクノ/ハウスの歴史に対しての教養主義的なものはあったんですけど、それを打ち消して前に進むだけの何かが、ビートメイカー、トラックメイカーと呼ばれる人たちがつくっている音楽のなかにはあったように思うんです。
プロダクション面でいっても、たとえばポストロックにおいては演奏そのものよりもポストプロダクションのほうに力を注いでいる部分があった。演奏技術よりも、そのあとの音づくりを重視する傾向があって、ソロを聴かせるよりも、全体のサウンドをどう構築するのかというようなところで音楽がつくられてました。
原:一方で、その時代のジャズは、同時代の音楽と乖離しているように聴こえました。ジャズに限らず楽器演奏者にあまりスポットライトがあたらない時代だったように思います。
ジャズがアカデミックな世界の音楽にもなっていったり、教育システムが確立したりしたこともあって、ジャズはジャズのサークルのなかだけで、ポップスの世界などにあえてアプローチせずともやっていけるようになっていった、ということも関係あると思うんですが。
そういう状況があるなかで、90年代後半くらいからロイ・ハーグローヴのようなミュージシャンがジャズの外に出て、D’Angeloやエリカ・バドゥとともに同時代のヒップホップやR&Bの現場と関わりながら作品を出す動きがありました。
原:そのヒップホップやR&Bとのつながりのなかで提示された「ジャズの再生」は、J Dillaのビート感をクリス・デイヴらミュージシャンが演奏に取り入れるなど、後に与えた影響は大きかったんですが、特に近年はBlack Lives Matterもあって、ジャズがもう一度アクチュアルな音楽になってきたと感じます。
政治的な意味だけじゃなく、楽器演奏している人たちがプロダクションを通じて交歓していくような流れが以前にも増してある。それは2000年代以降、楽器演奏者にもう一度焦点があたる場面が増えていったことの延長だとも思うんです。
ーロバート・グラスパー以降のキーマンがいるとしたら、原さんは誰を思い浮かべますか?
原:誰かひとりをあげるのは難しいんですけど……たとえばサム・ゲンデルとか、ジャズではないですけどブレイク・ミルズも重要なキーマンだと思います。
90年代にプロデューサーに焦点があたったのは、楽器の音よりも、その背景にある残響音やノイズも含めた音、あるいは音のテクスチャーそのものが重要視されていて、クラブを主とした音楽の現場で体感できることも大きかった。
たとえばダブ、ミニマルなテクノ、ヒップホップのビートの根幹を成したのもそう。もちろん一方で、そうじゃない音楽もたくさんありましたけどね。それが楽器演奏者に焦点があたるようになって、ハーモニーやコード感、メロディーやリズムといった要素が再構築されたように思うんです。
原:こういった流れとブレイク・ミルズの登場は無関係ではないように思います。彼はもともとギターの名手であり、そしてすごく空間を使うのが上手いプロデューサーですね。プロデュースしているのはポピュラーなアーティストが多いですけど、音のつくり込み方は特殊でマニアックです。
音の遠近法も巧みだし、アンビエント的な構築も、上手くポピュラー音楽のフォーマットのなかに落とし込んでいると思います。自分のソロ作品ではそういった部分が極端に拡張されてもいますね。
楽器演奏者の変化、トータルな音づくりみたいなところでは、サム・ゲンデルもそうです。彼はもともとはジャズを出自とするサックス奏者だったけど、いまは独自のサックスの音色をつくりだしたことによって音楽的なアイデンティティーが確立されて、評価もされている。
グラスパー以降の変化ということでいうと、音のテクスチャーに対して独特の感覚を持っている楽器奏者が出てきたことも大きいのかなと思います。
―「サウンドづくり」という点からポストロックにも触れられていましたが、原さんは「音響派」と呼ばれた音楽にも精通していらっしゃいますよね。そういった音楽と比べて、ブレイク・ミルズやサム・ゲンデルの感覚はどういうふうに見えているのでしょうか?
原:違う部分というか、新鮮に感じるところは多いですよ。90年代ってパンクのときから続いている、既存とは違うやり方でやること、楽器は別に上手くなくてもいいし、譜面は読めなくても音楽はつくれる、みたいなことはまだ作用していたと思うんですね。ポストロックはそういう流れからの影響もあるし、もともとパンクやハードコアをやってた人たちがガラッとスタイルを変えてやりはじめた部分もある。
一方で、ブレイク・ミルズやサム・ゲンデルには音楽的な素養があったうえで、たとえばECMがアメリカのジャズの対極にあるようなサウンドデザインを提示したことに近いものを感じたりします。
―音響派であり、現代のジャズミュージシャンというところでいうと、原さんのレーベルから国内リリースしているジェフ・パーカーという人がいますよね。この人のことはどう見てらっしゃるんでしょうか?
原:ジェフは90年代当時、「AACM」というシカゴの黒人ジャズミュージシャンによる自主組織に属して、アバンギャルド寄りのジャズの世界に関わる傍らIsotope 217°というグループを結成して、白人中心のポストロックのシーンにも足を踏み入れていた人です。そしてTortoiseでも活動しつつ、自分のソロ作品もつくってました。
ジェフが2016年にリリースした『The New Breed』は自作のビートと自分のギターを有機的に合わせたアルバムでした。それまでヒップホップ的なビートにジャズミュージシャンが演奏を合わせた音楽って、画一的なアプローチになりがちだった。ジャズのリスナーからすると一定のビートのうえに演奏を合わせているだけに聞こえるし、ビート主体で聴いている人からすればウワモノとしてのっているジャズはサンプリングと何が違うのか、ってところが正直あって。
でも『The New Breed』はビートとジャズギターの演奏がすごく有機的に絡み合っていて、だからジャズ系、ビート系問わず聴かれる作品になったと思うんです。そう考えるとジェフ・パーカーと『The New Breed』も、ブレイク・ミルズとサム・ゲンデルのように、スタイルは全然違えど、グラスパー以降の変化を象徴する音楽かもしれないですね。
ジェフ・パーカー『The New Breed』ジャケット。同作は原雅明の主宰するレーベル「rings」からリイシューされた(Apple Musicで聴く / Spotifyで聴く)
―『FRUE』にも出演歴があり、90年代の音響派とも関わりのあるミュージシャンということで、いま原さんがジム・オルークをどう見ているのか教えていただきたいです。
原:ジムが90年代にやっていたことがいまの流れをつくっている感じはします。彼が最初に出てきたときってまだ10代で、デレク・ベイリーのカンパニーにも若くして呼ばれた早熟の即興演奏のギタリストみたいな感じだった。でも一方ではコラージュ作品をつくったり、エレクトロニクスだけでやったりもしていて、当時はそんなギタリストいなかったですから。
だからある意味、ブレイク・ミルズやサム・ゲンデルの音響への意識もジムからきている部分もあるような気がします。ブレイク・ミルズやサム・ゲンデルに慣れた耳だったら、ジムの長いミュージックコンクレート的な作品もすごく自然に聴けるだろうし。
ジムはWilcoのプロデュースなどでアメリカーナ的なもの、『Eureka』(1999)では歌モノもやって、即興演奏もエレクトロニックミュージックもやっていますよね。ジムが一度組み替えたサウンドの影響は、いま大きくあるんじゃないかなと思います。
―『FRUE』のラインナップで原さんが注目しているものを教えてください。
原:ピノ・パラディーノのグループで演奏するドラマーのエイブ・ラウンズは、ミシェル・ンデゲオチェロのバンドでも活動しつつ、ソロドラムの作品も出していて、ミルフォード・グレイヴスのドラムから影響を受けたと言っているんですね。
ミルフォードは本当にフリーなドラミングをやっていた人ですけど、エイブ・ラウンズはそんなにフリーフォームなスタイルではなくて、ループやサンプリングを使ったりする方向性で自由度が高いドラムです。ただ、聴覚と、視覚や味覚や触覚などとのあいだのクロスモーダル現象からフィードバックされたものを大切にしていると言っていて、それはミルフォードとつながるものを感じます。
原:あとサム・アミドンが「Nonesuch」から出した『The Following Mountain』(2017年)にもミルフォード・グレイヴスが参加していたんですよ。
ミルフォードがジャズやインプロビゼーション以外の、40歳も離れたミュージシャンの作品にふらっと参加している感じだったのが面白かった。しかもそこにサム・ゲンデルも参加していて、これもまったく大仰なところがなく、自然に共演している感じがいいんです。
原:それから、サム・ウィルクスの今回のバンドのメンバーも面白いですね。クリス・フィッシュマンというキーボード奏者は、パット・メセニーの新しいグループにも参加して、Flying Lotusともずっとやっていたり、ルイス・コールの新しいアルバム『Quality Over Opinion』にも入っています。エレクトロニックミュージックにも詳しいみたいだし、一方でジャズのメインストリームにも関わっているっていう振れ幅の大きさが面白いです。
また、クレイグ・ウェインリブはサム・ゲンデルの『blueblue』(2022年)やダニエル・エイジドの『You Are Protected By Silent Love』(2021年)でもドラムを叩いている一方で、ヘンリー・スレッドギルのバンドのドラマーでもあります。ヘンリー・スレッドギルは「AACM」のメンバーだったサックス奏者/作曲家で、『ピューリッツァー賞』を獲って有名になりました。
『FRUEZINHO』のライブで実感したけど、サム・ウィルクス自身もベースプレーヤーとしてすごいテクニックのある人ですね。実際、いろんな有名ミュージシャンのバックもやっているんでスタジオミュージシャン的な巧さもあるんですけど、自分の音楽ではそういった枠から離れたところで興味深いミュージシャンを文脈を跨いでつないでいる視点があることも興味深いです。
―なるほど、プレーヤーという点で見ても重要な人たちが集まるわけですよね。
原:これがジャズのフェスじゃなくて、岡田拓郎さんとか折坂悠太さんも出れば、DJもいるっていうジャンルでは区切れないような場で実現しているのがいいですね。そして、この『FRUE』のラインナップには共通する音響感みたいなもの、サウンド的な部分でのつながりがあるんだろうなと感じます。
―これは原さんに聞きたかったんですけど、Whatever The Weatherをどう見ていますか?
原:Whatever The Weather名義を聴いて、ようやくこういう人が出てきたなって感じがしました。ロレイン・ジェイムスって、たとえばポストロックの時代にジェフ・パーカーが白人中心のシーンにすっと出てきたのと、ちょっと似ている感じもします。
黒人/白人音楽って区分けをまったく感じさせず、自然体でやっている印象があるんですね。たどっていけばいろんなルーツからの影響は当然あると思うんだけど、アウトプットの部分ではジェフ・パーカーの音楽がそうであったように、広がりを持って受け止められる可能性があるんじゃないかなって思います。
―最後に、原さんがいま個人的に聴いている音楽について教えてください。
原:ジム・ホールの晩年の作品をここのところずっと飽きずに聴いていますね。オーケストラ作品やデュオやソロとか、ジム・ホールの名盤が好きな人にはあまり人気がない、というか無視されているものなんでしょうけど、彼に影響を受けたビル・フリゼールやジュリアン・ラージがいまやっていることとつながっている感じがして、自分にはとても面白い音源です。
ちょっと前に『文學界』(2022年11月号)のジャズ特集でも、ジム・ホールと同年齢のデレク・ベイリーについてのコラムを書いたんですけど、この2人のギタリストのことも、自分がわかったようで全然わかってなかったということに気がつかさせてくれるのは、結局、いまの音楽とミュージシャンたちなんですよね。
ー石橋さんには、まず即興的な音楽の国内の状況をお伺いしたいと思っています。実力のある若い世代のミュージシャンが増えてきているようにも感じるんですけど、石橋さんから見ていかがでしょうか?
石橋:私はずっと若輩者として即興のシーンで演奏させていただいていた感覚だったのですが、いつの間にか自分より若い人たちと演奏するようになっていたって最近気づきました。
若い方たちと一緒に演奏する機会が最近増えてきたなって実感しはじめたばかりなんですけど、そのおかげで自分のなかで、もう一度新しい音楽の旅がはじめられているなって感じています。
―石橋さんの周りに若手が増えてきたことについて、何か思い当たるきっかけはありますか?
石橋:みんな歳を取れば当然若い人たちと演奏することになると思うのですが、もともとジャンルとか関係なく活動してきたというのもあり、そのように見えるのかもしれません。
国とかジャンルとか関係なく活動することによって出会いも増えました。「Black Truffle」のオーレン・アンバーチを通じてジョー・タリア、ジョーを通じてマーティ・ホロベックと出会えたようにつながっていったのだと思います。
ー音楽家同士の横のつながりがあって、いろんな人と出会ったり、演奏したりしているうちに気づいたら若い人たちが増えてきたな、みたいな感覚?
石橋:そうですね。
―マーティさんや松丸契さんらは、近年の石橋さんの演奏活動のなかでフレッシュな顔ぶれですよね。松丸さんはマーティさんらとSMTKをやっていますし、今回の『FRUE』で石橋さんが参加される岡田拓郎さんのワンマンライブでもサックスを吹いていました。石橋さんからは松丸さんはどんなふうに見えていますか?
石橋:松丸さんと出会ったのはマーティさんに紹介していただいたのがおそらく最初だと思います。松丸さんは即興はもちろん、ジャズの世界でも活躍されていますけど、作曲ということに関して強い気持ちを持って試行錯誤してつくる勇気がある方だと思います。それで通じ合える気がするのかなって思います。
ー作曲に対する強い気持ちが、ある種おふたりの共通項としてあると。
石橋:前のアルバム(2020年発表の『Nothing Unspoken Under The Sun』)を聴いたときに、響きに対して厳密というか、すごく耳を使って響きのなかで作曲していらっしゃる印象を受けたんですね。そこにすごく魅力を感じましたし、共感しました。
それはこの音とこの音を理論的に合わせたらこういうものができあがりました、みたいなことじゃなく、瞬間瞬間の音の重なりみたいなものや響きに耳を澄ませて、しかもその響きを自分のパーソナルなものとしてどう表現できるかってことを松丸さんはすごくよく考えていらっしゃるなと思います。
ー即興をやっている方で、作曲にも強い意欲を示している人というのは珍しいのでしょうか?
石橋:即興というもの自体がすごく複雑なものをはらんでいて、演奏能力を純粋に追求する人もいれば、作曲のように即興を扱っている人もいます。人それぞれのアプローチがあると思いますし、正解というものがない。
即興って、すごくいろんなものが詰まっていて、なおかついろんな方向を向いているというか、無限大の可能性があると私は思っているんです。それが即興の魅力というような気もしますしね。
ー今年の『FRUE』は岡田拓郎さんのバンドで出られるということですが、岡田さんとの出会いを教えてください。
石橋:前から現場ではお会いしていましたが、あまりちゃんと一緒に演奏したことは最近までありませんでした。
この前8月に本当は渋谷のクラシックスで私と南博さんとのデュオのライブがあったんですが、その前日に南さんから「体調を崩して明日出られないかも」って連絡があって。
どうしようかなったんですが、そのときにその場にちょうどいた松丸さんとマーティも次の日のSMTKのライブが飛んだから暇だって言ってて、「じゃあ何かやる?」みたいな話になって一緒にライブすることになったんです。
石橋:ちょうどそのクラシックスのライブの当日、マーティが岡田さんとドライブしていて、「岡田くんも誘っていい?」みたいな感じで言われたんで、「あ、いいよ」って、岡田さんも急遽参加することになったんですね。
それではじめてちゃんと演奏も一緒にやって、それがすごく楽しくて、ライブのあとも一緒に飲んで。その流れがあってからの誘っていただいたんじゃないかなって思っています。
ーすごくいいですね。マーティさんは岡田さんのアルバムに参加していますし、最初に話してくれたみたいに、石橋さんとも自然に出会って、つながっていったという。
石橋:そう。私の人生ほとんどそんな感じですよ。「明日どうする?」「やろっか」みたいな流れが自分には合っている気がします。
ーライブをするまでの流れすらも即興的ですけど、そういうスリルみたいなのは大事ですか?
石橋:準備してないみたいな感じでドーンとライブやるのがいいんですよね。作曲しているときとか、頭を抱えながらやるときともまた違うもの、自分が意識してないものが飛び出てきたりするので。風通しがよくなる感じがあるというか、それは多くのミュージシャンが感じていることじゃないのかなとは思いますけどね。
ーそれで思い出したんですが、2年前、山本達久さんとのデュオで『FRUE』に出演されたときはライブの前日とかに急遽出演依頼があったと聞きました(笑)。
石橋:そうでした。前日のオファー、とても嬉しかったです。
ー去年はカフカ鼾(石橋英子、ジム・オルーク、山本逹久のトリオ)で出られたんでしたっけ?
石橋:そうです。去年の『FRUE』がすごく久しぶりだったんじゃないかな。
ー岡田さんの新作はどういうふうに聴かれましたか?
石橋:すごく美しい作品だなって思いました。岡田さんが研究熱心なのがわかるだけでなく、自分が表現したい世界を追求されているのがよくわかる作品でした。自分の描きたい世界を音にできる人を尊敬します。
ー石橋さんはどの楽器で参加されるんですか?
石橋:フルートとエレクトロニクスで参加します。この前ちょっとだけリハをやったんですけど、ちゃんと演奏するっていうよりセクションごとに流れを確認するくらいで。全員が最終的にどうなるかわからないのがいいですよね。
ー既存の曲をやるとはいえ、かなり即興的な部分がある?
石橋:そうですね。そうだと思います。
ー石橋さんから見て『FRUE』というフェスはどういうふうに映るものですか?
石橋:このようなフェスがなくなってほしくないと思いますね。知名度やアーティストの人間力よりも音楽が中心にあるフェスだと思います。
本当に音楽が好きでお客さんもちゃんと音楽を聴きにきてて、主催者の方たちもちゃんと音楽を聴いて選んでいるのがよく伝わってくる。ちゃんと音楽が中心にあるフェスティバルは世界的にも本当に少ないと思うんですね。
ー商業的な下心がないっていったらいいんですかね。
石橋:そうなんですよね。それでお客さんもすごく楽しんでて、ストイックなだけじゃなくてリラックスして楽しめる感じもすごくいいですよね。だからどんなかたちであれ続いてほしいなと思います。
ー今年のラインナップを見て、気になる人はいますか?
石橋:角銅さんやサム・ゲンデルさんの作品は聴いています。柔らかくてしなやかだけど、描かれている世界がストーンと強く入ってくる作品だと思いました。
ー近年、即興やインプロビゼーションをやっている人のなかでも、たとえばサム・ゲンデルみたいなスターというか、めちゃくちゃ商業的なポップミュージックってわけじゃないんだけど、ちゃんとリスナーがついたプレイヤーが出てきてるように感じます。こういう状況を石橋さんはどう見ていますか?
石橋:ひとつはBandcampだったり、配信だったりっていう音楽を自由に発信できる場所、あと自分たちで宣伝できるツールが増えた影響もあるかもしれないですよね。
でもそれと同時に、逆に自分で発信しない人は埋もれていってしまう状況も感じていて。SNSとかにいなければいない人扱いされちゃうというか、残念だなって感じることもありますね。
ーSNSやYouTubeがない時代だったら、ライブをやったり何かしら活動をしていれば作品を出したり、表舞台に出なくても特に忘れられなかったけど、いまはSNSを使って活発に活動してる人が多いからこそ、かつてのような活動をしてる人がいないように感じられてしまう。
石橋:そうなんですよね。盛り上がるのも早いけど、忘れるのも早くなっていっている傾向を感じます。ちょっと見たり聴いただけでカッコよく見えるものがもてはやされているのは非常に残念だなと思います。
映えるものというか、写真とか映像を見て何をしてるかわかりやすい人とかは聴かれるようになるけれども、なんだかちょっとよくわかんない人には目が向けられづらくなっているとも感じるというか。
本当はなんだかよくわかんないものを探し求めることが面白かったりするんだけど、そういう時間が許されてない感じが、このスピード感のなかにはあって……それはすごく残念だなって思いますし、そういう音楽を『FRUE』のようなフェスティバルが拾い上げていってくれたらいいなって思います。
ー石橋さんがいま一番聴いている音楽ってどういうものですか?
石橋:ここ数か月忙しすぎてゆっくりレコードをあまり聴けてないんですけど、ローラント・カインって電子音楽の人の『TEKTRA』っていうボックスセットと、チャールズ・アイヴズっていう現代音楽の人の作品は、リセットするみたいな感覚でコンスタントに聴いていますね。リセットするには情報量が多いんですけど(笑)。
ー(笑)。ローラント・カインさんはどういう音なんですか?
石橋:頭のなかで嵐が起きるような電子音楽ですね。もう亡くなっている方なんですけどね。
ーオランダ在住だったドイツの現代音楽、電子音楽家なんですね。この人はもともとご存知だったんですか?
石橋:これはジムさんから教えていただいて。これまでの作品、発売されてないものを全部ジムさんがマスタリングしてBandcampで毎月出してるんですね。それも全部素晴らしいんで、ぜひ聴いていただきたいですね。脳内を揺さぶられます。
チャールズ・アイヴズはオーケストラとかピアノの作品をたくさん残している人なんですが、アイヴズもいろいろなものがドドドドドドっと押し寄せてくるような音楽です。
ーこの2組を好んで聴いているのはそれぞれ違う動機なんですか?
石橋:同じような動機ですね。耳を鍛えたいみたいなところもあります。
ーリセットしたいっていう動機もありつつ、音楽家としてここからもっと吸収しようという。
石橋:作品をつくってると「こうあるべき」とか「こうしたい」って自分の耳がなってきちゃうんです。でも私にはその梯子を全部取り外したいと思うときがあって。
ローラント・カインとチャールズ・アイヴズは「こうあるべき」みたいなものがいかに馬鹿馬鹿しいかを気づかせてくれる音楽なんです。全部梯子取り外してバコーンって落ちて、もう一回ゼロから梯子をつくるみたいなことをしたくて聴いているところはあるかもしれないですね。
ー自分の常識みたいなものから外れてるけど、すごく自分が理想と思えるような音楽というか?
石橋:そうですね。でもそうなりたいって感じでもないんです。聴いていると「音の破れ目」みたいなものが見えてくるんです。音の破れ目というのはあらゆるものの破れ目だと思っていて……そこから音楽をつくろうと勇気が出てくるんです。
『FRUE』の会場の様子