Text by 山元翔一
Text by 染谷和美
Text by 池野詩織
Text by 安江幸子
Text by 松山晋也
1935年生まれの音楽家、テリー・ライリーは現在日本で暮らしている。
およそ60年前、ライリーらが打ち出したミニマルミュージックは音楽の歴史に大きなインパクトを与えた。サイケデリックとシンプリシティーという二つの側面を併せ持つこの音楽は、The Velvet Undergroundをはじめ、Kraftwerk、ブライアン・イーノらにも影響をもたらし、その余勢はのちのテクノ / ハウスなどエレクトロニックミュージック、アンビエントにまで及んだ(※)。
ミニマルミュージックは音楽の世界に何をもたらしたのか? ブライアン・イーノが主宰した「Obscure Records」からも作品を発表しているマイケル・ナイマンは、ミニマルミュージックを代表する4人の音楽家――ラ・モンテ・ヤング、テリー・ライリー、スティーヴ・ライヒ、フィリップ・グラスの功績について以下のように記した。
「新音楽」〔日本でいう「現代音楽」〕の聴衆と「ポピュラー音楽」の聴衆を分離している文化的に築かれた障害物を取りのぞくのに、驚くほどの成功を収めたのである。 - ウィム・メルテン著、細川周平訳『アメリカン ミニマル・ミュージック』(1985年、冬樹社)「英語版への序」よりこのような評価がなされたのが約40年前のこと。今年87歳を迎えてなお新たな扉を開き続けるテリー・ライリーは、いまどのようなことを考えながら音楽に向き合っているのか? CINRAでは、息子ギャン・ライリーの来日、親子共演を機に対談を実施。音楽評論家の松山晋也によるライリー親子の解説、自ら手がけた過去のインタビューからの引用を挟みながら、20世紀音楽の巨匠がいま見つめる音楽について探っていった。
戦後アメリカの現代音楽シーンにおける最重要作曲家の一人、テリー・ライリーが日本で暮らしはじめて3年近くになる。コロナパンデミックが爆発した2020年2月、たまたま来日していたテリーは帰国できなくなり、しばらく滞在することになったが、日本での生活を気に入った彼は自分の意思でそのまま在住を選んだのだった。
2022年3月にテリーにインタビューした際、彼は「日本は居心地がよく、文化や社会も好きだ。日常のライフスタイルは本当に私に合っているし、ここ(山梨県某所)は音楽をつくるのにも素晴らしい環境だよ」と語っていたが、同時に母国の仕事仲間たちとの連絡に手間がかかるのが難点だとも言っていた。
インターネットで全部こなさないとならないし。本来は直接会って、一緒に演奏するのが普通なんだけれど。特に息子のギャンとは、近年は年に5回程度一緒にツアーしていたので、それができないのが寂しい。もう2年以上も彼とは会ってない……。 - 筆者によるテリー・ライリーへのインタビューよりそんな父の気持ちに応えるように、息子のギャン・ライリーがこの9月末から10月上旬にかけて来日した。
左から:テリー・ライリー、ギャン・ライリー
コラボアルバム『Refuge』を昨年リリースしたデヴェンドラ・バンハートとノア・ジョージソンのデュオにギャンを加えたトリオは、長野、京都、東京でライブをおこない、その後ギャンは父が暮らす山梨に数日間滞在し、久しぶりの親子団らんを楽しんだ。そして10月8日には東京・代官山の「晴れたら空に豆まいて」でライブもおこなわれた。テリー(Key,Vo)とギャン(Gt)に、テリーの弟子である宮本沙羅(Per,Vo)も加わったトリオ編成で。
1977年生まれのギャン・ライリーは日本での知名度はまだ高くないが、クラシック(古典~現代音楽)からフォーク / ロックまでの前衛音楽全般をこなすギタリスト(生とエレキの両方を演奏)、あるいは作曲家として、この20年ほど世界的に活躍してきた。特に近年は、テリーのもっとも重要なコラボレーターとして多くのライブをこなしているが、そのツーカーぶりは今回の公演でも確認できた。打てば響くとはこのこと。テリーがあんなに楽しそうな表情で演奏する姿を私が観たのは、これが初めてだ。
10月8日のライブより(左から:テリー・ライリー、宮本沙羅、ギャン・ライリー) / 撮影:松山晋也
今回のライリー親子対談インタビューは、そのライブ終了後に会場の近くでおこなわれた。当日早朝からライブの準備をしていたテリーの体調に配慮し、わずか30分の取材となったが、海外メディアも含めて極めて稀(もしかしたら初めて?)なインタビューになったはずだ。
―さきほどのライブ、とても素晴らしかったです。私がテリーさんのライブを観るのはこれが6回目ですが、今日、特に強く感じたことが2つありました。まず2人がとても楽しそうだということ。それからお互いが相手の音を素直に受け入れて、それを新しい力にして自分を高めているということです。
インタビュアーの感想を聞いて、取材中のテリーとギャンはお互いの顔を見ながらニッコリと頷いた
―実際、2人でやっていてとても楽しいでしょう?
ギャン:たしかに、お互いを音楽的に受け入れている感はあったね。ぼくらは3年近く会っていなかったし、今回たくさんの時間を一緒に過ごして再会を楽しんだ。このライブもそうした流れの一部だった。
父とのデュオライブはパンデミック前には心から楽しんでいたことのひとつだったしね。ようやく久しぶりに一緒に演奏することができたよ。ステージ上で音楽的再会を果たしたような感じだった。そう、いまあなたに言われたことがまさに起こっていたんだ。
テリー・ライリー / 撮影:松山晋也
1935年、カリフォルニア州コルファックスに生まれた、アメリカを代表する作曲家の一人。サンフランシスコ州立大学と音楽学校を卒業後、インド古典声楽の巨匠パンディット・プラン・ナートに師事、スティーヴ・ライヒやフィリップ・グラスらの同時代の作曲家たちやKronos Quartetなど優れた演奏家たちと交流しながら、即興演奏とミニマリズムを基調とした独自の音楽を作曲・演奏など多方面で活動を続け、ジャンルや世代を越えたアーティストたちに多大な影響を与えている。
ギャン・ライリー / 撮影:松山晋也
1977年生まれのアメリカのギタリストにして作曲家。サンフランシスコ音楽院で音楽を学び、ザキール・フセイン、ルー・リード、ジョン・ゾーン、ビル・フリゼール、Kronos Quartet、リー・ラナルド、ジュリアン・レイジ、グレン・コッチェなどと共演歴を持つ。父であり、作曲家・ピアニスト・ボーカリストのテリー・ライリーとも精力的に共演し、2枚のアルバムを発表。教師として、サンフランシスコ音楽院などで教鞭をとっている。
―以前テリーさんにインタビューしたときに、自分は音楽について人に指図したり、音を言葉で説明するのがとても苦手なので、誰かとコラボレートするというのがなかなか難しいんだと言っていました。でも今日観ていて、ギャンさんとだったら言葉は必要なく、いわゆる阿吽の呼吸でわかりあえてビジョンを共有できるんだなと感じたんです。
テリー:もちろんだよ。パンデミック前は何年も一緒にやっていたから、私たち2人ともこの手の音楽的なコミュニケーションを恋しく思っていたんだ。フレッシュさを保つためにリハーサルもあまりしなかったし。
ギャン:というか、全然しなかったに近いね(笑)。
―今日の演奏は全曲即興ですか?
テリー:いや、すべてではないよ。前にプレイしたものもある。ただ、ベーシックなところはいつも新しいんだ。私たちの演奏は構造やルールを持たないから、自然にお互いの音を聴くように仕向けられるんだ。
お互いじっくり聴いて、そのときそのときの瞬間に生きる、ということ。息子がやっていることが私のやることに影響しているし、私次第で息子のやろうとすることも変わるからね。リハーサルが好きじゃないのも、そういう理由なんだ。どんなものができるかわからない状態でインタラクションするのが好きだからね。
左から:テリー・ライリー、宮本沙羅、ギャン・ライリー / 撮影:松山晋也
―ギャンさんはこれまでいろんな人とコラボレートし、作品もたくさん出していますが、そういうほかのコラボレーターとやるときとお父さんとやるときではやっぱり違いますか?
ギャン:うん、違うね。というのは、ぼくたちは……(しばし考える)難しい質問だよ! これは本当に難しい質問なんだ。誰とやっても、どのコラボレーションも一つひとつ違うけど……この親子コラボがユニークなのは、何よりもまず家族としての歴史があるということなんだ。
ぼくは基本的に、生まれてからずっと父と一緒に過ごしているからね。長年のあいだにぼくたちが音楽以外で培ってきた関係だって、ぼくたちが音楽に持ち寄るものに影響を与えているわけで……うーん……わからないなあ、ベーシックな質問なのにね(苦笑)。
ギャン:すごく関係が近いからこそ、ぼくたちが一緒にやるときに関係してくるものは、他の人たちとコラボするときとは違うのかもしれないとは思っている。父はぼくのことを生まれてからずっと、本当によく知っているし、ぼくもまた父のことをよく知っているから、次に何が起こるかを予測しやすいというのがある。
と同時に、お互い非常に驚かされるときもある。ぼくたちのパーソナリティーには、その両方の要素があるんだ。お互い自然発生的なものを大事にする性格だから、そのおかげで、プレイするたびに音楽にフレッシュなエネルギーがたくさんもたらされているんだと思うよ。
テリー:いい答えだ(笑)。今日一緒にプレイしていたときに感じたのは、キャッチボールをやっているみたいだな、ということ。こっちからボールが飛んできて「おお、こっちに飛んだか」と取りに行って、今度は別のところからボールが飛んできて……そうやって音楽のボールを投げ合っている。
私がキャッチしたボールを投げたら、今度は息子がそっちに走っていってそのボールをキャッチする。そして今度は私が予想もしなかったような方向に投げてよこしてくるんだ。私にとっては音楽もそんな感じだね。
左から:テリー・ライリー、ギャン・ライリー / 撮影:松山晋也
テリー:私が音楽を投げて、それを息子が投げ返してくるんだけど、その投げ方が、私に違う投げ方をするようにインスピレーションを与えてくれる……というのはメタファーだけど、音楽のフレーズをキャッチボールみたいに投げ合っている感じがするんだ。
―そのキャッチボール感っていうのは、観ていても実感しました。
ギャン:ボールが落ちなければ大丈夫(笑)。
テリー:いや、ボールが落ちてしまったら、次のゲームをはじめればいいんだよ(笑)。
テリー・ライリー / 撮影:松山晋也
―ギャンさんはもともとクラシックギターを専門的に勉強していた、つまり「楽譜がある音楽」をやってきたわけですよね、基本的には。でも近年は今日みたいな即興もやっている。読譜演奏から即興演奏への移行には、いろいろ難しい点もあったんでしょうね。
ギャン:そうだね。時間がかかったし、練習する必要もあった。いまはクラシック音楽を勉強していた期間より即興のほうが長くなったけどね。ぼくがクラシック音楽を本格的に勉強していたのは15~20年間くらいだけど、そのあとは即興音楽やその手の楽曲に強い興味を持つようになった。初めはチャレンジングだったよ。
あなたが言うように、クラシック音楽は楽譜に載っている音符を正しく演奏することにものすごく重きが置かれている。細かいところはちょっと違うことがあっても、つねに、書かれたとおりの音符をプレイするんだ。一定のやり方で正しく演奏しなければならないというプレッシャーも大きい。
ギャン:しかし、即興を学ぶというのは、そういうものをすべて窓から投げ捨てないといけないんだ。と言いつつ、クラシック音楽から入った人がやる即興というのは、そのやり方がちょっと違うような気もする。ぼくも完全にクラシック音楽のコンセプトをなげうったわけじゃないんだ。
ぼくは即興をやっているいまも、構造のことや、どうやったら美しいものをつくれるかとか、自分がプレイするものの全体像がどんなものになるのかを考えている。クラシック音楽を学んでから即興に転向した人の多くは、いきなり即興から入った人とやり方が違う。
だからぼくの場合は、正しい演奏をすることをあまり気にしなくていい、どういう演奏にしたいのかが大事なんだと思えるようになるまでが大変だったね。その音楽が何を言わんとしているのか、どんなものになりたいと思っているのか、それを見極めてついていくというのがね。
ギャン・ライリー
―クラシックギターを習いはじめたのは何歳のときですか?
ギャン:12歳くらいかな。
―お父さんはキーボードの名人ですが、なぜ12歳でギターをチョイスしたんですか?
ギャン:ギターのほうがプレッシャーが少なかったんだよね。キーボードのスキルを心配するよりも(笑)。
―以前のインタビューでテリーさんは「最初はギャンにピアノを教えようと思ったんだけど、彼は父親から教わるのを嫌がっていたんだ。だから好きにやらせた」と言っていましたよね。
テリー:まあ、この子はギターを弾くために生まれてきたんだよ。それは間違いないね。ギターをはじめたらすごく集中してやっていた。
というか、ギターを弾きはじめる前から、この子には音楽の才能があることに私は気づいていたんだ。何かモノになるだろうとね。最初はピアノをちょっと弾いて見せたりしていたんだけど、本気で好きにはならないだろうというのは彼を見ていてわかったので、好きにやらせたんだ(笑)。
―たしか大学では、セルビア出身のギタリスト、デュージャン・ボグダノヴィチに師事したんですよね。なぜデュージャンだったんですか?
ギャン:彼は大学で初めて師事した先生ではなかったけどね。学部生の頃はデイヴィッド・タネンバウムに師事していたんだ。大学院に残ったときにデュージャンに師事することにしたのは、学部生だった頃に彼の素晴らしさを知ったからなんだ。
彼のやっていたことがぼくにとってはすごく魅力的だった。ギター向けの興味深い曲をいろいろ書いていたし、なんといっても彼の即興が、それまで見たこともなかったようなやり方だったんだ。
ギャン:彼は自分が生まれ育ったバルカン / 東欧の音楽、ジャズやロックを即興演奏に取り入れていて、そんなやり方はぼくは聴いたことがなかった。しかもクラシックの即興もやっていて、バロックスタイル、ルネサンススタイル、19世紀のクラシックスタイル……あらゆる手法でギターの即興演奏をやっていた。
それを見て、大学院に残って彼と一緒にやりたいと思ったんだ。彼が完全にオリジナルな存在だって気持ちにはいまも疑いの余地がない。ギターの即興について、ものすごく幅広い知識を持っている人なんだ。たしか、もうリタイアしていると思うけど、ギターの……(即興を学びたい人は彼のところに行くべきだ、と言いたげな感じ)。
12歳でギターを本格的に学びはじめたギャン・ライリーは、翌年(1990年)には早くも父テリーのアルバム『In C - 25th Anniversary Concert』の録音に参加してレコーディングを初体験した。
以後、ギターを中心とした多国籍ラージアンサンブルWorld Guitar Ensemble、ギタークァルテットDither、エヴァン・ジポリン、イヴァ・ビトヴァとのトリオEviyan、バイオリン奏者ティム・ハリスとのDuo Probosciなどさまざまなユニットのメンバーとして作品を発表する傍ら、デイヴィッド・タネンバウム、ウィリアム・ウィナント、ジュリアン・レイジ、ザキール・フセインなどジャンルを超えて多くのミュージシャンとも共演してきた。
父テリーとも『Live』(2011年)や『Way Out Yonder』(2018年)などの親子コラボアルバムを発表している。また、現在は教師としても、母校サンフランシスコ音楽院などで教鞭をとっている。
参考までに、3月のテリーへのインタビューにおけるギャンに関するテリーの言葉をそのまま紹介しておこう。
人としては、私たちはずいぶん違う。彼はサンフランシスコ音楽院に6年間通い、非常に高い評価を受けた生徒だった。私も音楽大学でクラシックを専門的に学んだが、独学する傾向が強く、自分なりの方法で演奏したいと思う音楽にどんどん目を向けていった。私たちはずいぶん違う道を歩いてきたんだ。
ギャンはギターを演奏するときいつも、音やほんの些細なことに集中し、際立たせようとする。より繊細に、よりエモーショナルな効果を得られるようにしている。つまり、一つひとつの音の効果を生み出せるよう集中しているんだ。そういうアプローチをつねに心がけている点が、私は好きなんだ。 - 筆者によるテリー・ライリーへのインタビューより1935年、カリフォルニア州コルファックスで生まれたテリー・ライリーは、サンフランシスコ州立大学、サンフランシスコ音楽院、さらにカリフォルニア大学バークリー校で作曲を学び、60年代初頭から作曲家として活動しはじめた。
バルトークやシェーンベルクなどからシュトックハウゼン、さらにトータル・セリエリズム理論まで、20世紀現代音楽を学んだテリーだが、勉強の傍ら彼はクラブでジャズやラグタイムのピアニストとして働くなど、ポップミュージックにも親しんだ。また、バークリー校の仲間ラ・モンテ・ヤングが50年代末期から実験をはじめていたドローン(持続音)によるミニマルミュージックにも強い関心を持ち、大きな影響を受けた。
テリーは60年代前半のパリ留学時代に、2台のテープレコーダーをつなげてディレイサウンドをつくりだすシステム「タイム・ラグ・アキュムレイター」を考案。そこで得た、サウンドモジュールを積み重ねてゆく手法を集団即興的ライブ演奏に応用したのが、ミニマルミュージックの記念碑的作品『In C』(1964年)である。
「タイム・ラグ・アキュムレイター」を用いたキーボード(電気オルガン)の即興演奏で独自の世界をつくりあげていったテリーは、70年代に入ると、インド人声楽家パンディット・プラン・ナートの下でのインド古典音楽研究を経て、楽譜をほとんど用いない作曲家 / パフォーマーとなっていったが、1979年のKronos Quartetとの出会いを契機に、再び楽譜を書くようになる。
そしてそのことが、80年代以降のテリーの音楽活動の幅を大きく広げてゆくことになった。
―お父さんからは音楽を直接教わらなかった、とは言いつつもやっぱり子どもの頃から、うちの父親は特別な音楽家だという認識はあったんでしょう?
ギャン:いや、知らなかったんだよ。最初に父がピアノの手ほどきをしようと試みた5歳のころは何もわかっていなかった。ただの挑戦的な反逆児でさ。とにかく父がやって見せてくれているようにはやりたくなかったんだ。
アメリカのキッズというのはクソガキだから、何を教えようとしても無駄なんだ(笑)。「こういうふうにやってみたら?」と言われても「ぼくはイヤだ」と。「指をこういうふうに鍵盤の上に置くんだよ」と言われたら「イヤだ、指1本でやる」とか。
―10代になってギターをひととおり弾けるようになった頃にはさすがに、うちの父親はすげえんだなと思ったのでは?
ギャン:……(笑)。そうだなあ、ティーンエイジャーになって、いろんな音楽やいろんな人たちとの出会いがあるなかで、父はミュージシャンとして生計を立てているだけではなく、音楽界で幅広い尊敬を集めている人なんだってことがわかってきたんだ。歴史的に貢献したことだけじゃなくて、コンポーザーとしてもアーティストとしてもつねに自分を改革し続けている人ということでね。
―10代の頃はやっぱり普通の男の子たちみたいにロックとか聴いていました?
ギャン:ああ、サッカー、スケボー、スノボ、いろいろ夢中だったよ。でも……やっぱり気持ちの大半はギターに向いていたんだよね。
―たとえばロックバンドでギターを弾こうとか思わなかった?
ギャン:もちろん思ったよ。エレクトリックギターでいろいろ遊びはじめた時期でもあったし。それ以来エレキをやめることもなく、クラシックギターと並行してずっと弾いてきた。
―お父さんの音楽は、子どもの頃から聴いていました?
ギャン:そうだね、ギターを弾きはじめた頃には、よりしっかり聴くようになった。ちょうど父がギター向けの曲を書きはじめた頃だったというのもあって、その流れでちゃんと聴くようになったんだ。ぼくでも弾ける父の曲だったからね。
父はギターソロや、ギターの少人数アンサンブル向けの曲を書いていたから、実践的なかたちで父の音楽を知るようになっていったんだ。
ギャンが19歳のときに録音したテリーの『The Book Of Abbeyozzud』(リリースは1999年)から“Zamorra”を聴く(YouTube Musicを開く / Apple Musicを開く)
―自宅では、しょっちゅうインド音楽のレコードがかかっていたのかな……と想像してしまいますが。
ギャン:家ではいつも何かしら音楽がかかっていたよ。つねにインド音楽ってわけじゃないけど。朝は父がインド音楽に合わせて歌いながらピアノを弾いていたし、日中は作曲をしたりしていて、とにかくいつも何か音楽が流れていた。
―私は20年ほど前にギャンさんのことを知ったとき、まず「ギャン(Gyan)」という名前に驚いたんですよ。すごく珍しいなと。それまでには見たことのない綴りだったので。テリーさんはどういう意図でこの名前をつけたんですか。
テリー:いや、じつは息子の名づけ親は私のグル(尊師)であるパンディット・プラン・ナートなんだ。サンスクリット語で「神の知恵(knowledge of God)」という意味だよ。ギャンというのはインドではけっこうよくある名前だけど、息子は西側で育っているから、ちょっとした悩みの種だったかもしれないな。「えっ、何て名前?」みたいな。
ギャン:実際そうだったよ(笑)。
テリー:発音の仕方がわからなかったりね。でも私たちが住んでいるカリフォルニアはヒッピーカルチャーの存在が大きく、インドに行ったことのある人や、インドの哲学や文化に魅了された人の娘たち、息子たちがけっこういるから、こういう名前も受け容れられていると思うよ。
―これまでに、アメリカでギャンという名前の人に会ったことはありますか。
ギャン:いや(笑)……あっ、一度サンフランシスコで、Uberをオーダーしたときに会ったことがあったな。
注文したら、配達人の名前として「Gyan」が表示されたので、変だな、なぜぼくの名前が表示されるんだろう? と不思議に思ったんだ。通常は配達人の名前が表示されるわけだけど、そのときは「Gyan」が配達人の名前だなんて思いもしなかった。
で、届いたとき、配達人が感激して「君の名前もギャンなの? ぼくもギャンだよ! 同じ名前の人に会ったのは初めてだ」みたいな感じで、大興奮していたね(笑)。
―テリーさんは70年代には楽譜を書かない即興音楽にほぼ専念していましたけど、1979年にKronos Quartetのために“Sunrise Of The Planetary Dream Collector”を書いたことでまたひとつ新しい世界が開けたんじゃないかと思います。
―そしていま、ギャンさんと一緒にコラボをやることによって、さらに別の新しい世界が開けているんじゃないかなって、私は今日のライブを観ていて思ったんですけど、いかがですか。
テリー:即興音楽というのは音を「測る」ことができないからね。楽譜を書いていると、あまりに多くのものをフィルタリングしてしまう。
即興音楽をやっていると、測ることができないから、感じているものをそんなにフィルタリングできないんだ。私にとってはいま一番楽しいことが即興音楽だから、曲を書くときも極めてミニマムに留めて、プレイするときには楽譜に書いていないことを全部プレイするんだ。
もしすべて書き留めていたら、楽譜のなかの定型的な表現を読み取ったり、覚えたりすることにばかり気をとられてしまう。そうすると音楽が窒息してしまう気がする。だから私にとっては、楽譜はミニマムな構造にしておいて、そこからどう発展できるか様子を見られる状態が理想なんだ。
―2人のデュオ名義で2018年に発表したアルバム『Way Out Yonder』では、たしか2つの共作曲がありましたが、音楽的バックグラウンドも手法も異なる2人が共作する際の手順はどんな感じなんでしょうか。
テリー:私はクラシックの演奏家としてのキャリアはないけれど、カリフォルニア大学バークリー校など3つの大学できっちりと作曲を学んだ。そこではすこぶるスタンダードなクラシックの作曲法の訓練を受けている。ギャンもサンフランシスコ音楽院で学んだから、もともと2人とも作曲家なんだ。
2人でコラボレートするときは作曲家として取り組んでいる。楽譜を書かないときも、どういうふうに音の風景を描くかということをいつも考えているんだ。それぞれのアイデアは違うかもしれないけれど、自分たちの立ち位置や音楽のエネルギーの在り処についてはつねに考えている。
そして、2人でプレイしているときに私が気に入っているのは、音楽が生まれてくるところのエネルギーが、私たちはとても似ている、ということなんだ。どういうふうに音楽を組み立てるのか、解体するのか、ということがね。