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吉本ばなな『N・P』が異色の「サイレント映画」に。小説と映画の魅力をパーソナルな記憶とともに綴る

2022年11月01日 03:00  CINRA.NET

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Text by 井戸沼紀美
Text by 原田時枝

吉本ばななによる1990年発表の小説『N・P』を、ベルギーを拠点とする作家スピリアールト・リサが映画化した。企画が発足したきっかけは、たまたま開催していた吉本氏のサイン会に来日中の監督が足を運び、本人に映画化を直談判をしたことだったのだという。

映画は『N・P』の危うく研ぎ澄まされた世界を、台詞の音が聞こえない「サイレント映画」として描き出した。2020年の『マルセイユ国際映画祭』以降、数々の国際映画祭での上映を経て、現在日本でも劇場公開されている。

今回の記事では、吉本ばなな作品を愛読しており、ベルギー出身の映画監督シャンタル・アケルマンのファンブック『アケルマン・ストーリーズ』への寄稿経験も持つ原田時枝氏に、映画を観た率直な感想や、原作・映画をめぐるパーソナルな想いを綴ってもらった。

※本記事は映画『N・P』のネタバレを含みます。

たしか13歳の頃だったと思う。従姉から「これ読みな」と手渡された小説が『N・P』だった。著者名には吉本ばなな、とあった。

ひとりっ子の私はその歳上の従姉が大好きで、いつも後ろをついてまわっていた。従姉はあっさりとした涼しげな顔だちをしていた。物腰が柔らかくて人当たりがよくて、でもいつもほんのすこしだけ心ここにあらずというような感じがした。男の子たちが彼女を放っておかない理由が私にはよくわかった。彼女は私に音楽と漫画と小説を教えてくれた。スマホもまだない時代の、小さな田舎町に私たちは住んでいた。

この本をはじめて読んだときのことはよく覚えている。淫行、自殺、近親相姦、オカルト、同性愛、心中。当時の世間では「不道徳」とされていたあらゆるモチーフが、これでもかと詰め込まれていた。

だけど私にとっていちばん重要なポイントはその過激さではなく、物語が、清潔で乾いたユーモラスな文体で書かれていたこと。「不道徳」なはずの登場人物たちが、どちらかというと善良な人間として描かれていたこと。それがなにより私の気を引いた。

映画『N・P』より、風美、咲、乙彦©2020 Escautville "N.P"

その頃の私はすでに、自分が同性愛者であることを知っていた。この小さな田舎町で、大人になった自分は生きてはいけないだろうということを知っていた。この町で「善きこと」とされているあらゆる物事と私のあいだには関連がなく、「不道徳」とされていることとのあいだに関連があった。

それだけが原因ではなかったけど、家でも学校でも居心地が悪く、いつもひとりぼっちの気分だった。だけど自分のことを異質だと思うことはあっても、邪悪だと思うことはなかった。私はごくごく普通の人間だった。

だから自分と同じ異質な登場人物たちが、この本のなかでは普通の気の良いやつとして描かれていることが本当にうれしかったし、救われるような気持ちがした。これは私だけのために書かれた本だ。そう確信した。

当時、私とまったく同じ気持ちでこの本を開いていた少女が全国に何千何万といたことを知ったのは、もっとずっと後になってからのことだった。

映画『N・P』より ©2020 Escautville "N.P"

いまでも私は数年おきに『N・P』を読み返す。そのときどきの自分が置かれた状況や年齢や精神状態によって、まったく違う読み方ができるのがこの作品のすばらしい点だ。だけどある時点を境に、この本を読むと必ず、過去の特定の出来事が私の頭をよぎるようになった。映画を観ているあいだも、頭の片隅ではそのことを考えていた。もう10年も前の出来事だ。

その人は「あなたのことすごく好きだけど、一緒にはいられない」という言葉を残して私の目の前から消えた。そんなことを突然言い出すなんて、ほかに好きな相手でもできたんだろうと思った。というよりそれでまず間違いなかった。名残惜しそうな態度も涙も、自分が悪役に収まりたくないがための演技としか思えなかった。それくらいの嘘を女は簡単についてしまえるということを知っていた。

だけどそれから時間が経って、何度目かの『N・P』を読み返した私は、ふと当時のことを思い出して(もしかして何か別の理由があったんじゃないのか?)と考えた。彼女と私に、なにか致命的な傾向のようなものがあって、それで私たちは駄目になってしまったんじゃないのか?

我ながら気持ちの悪い妄想だ。それに何もかもが手遅れだ。だけどそれから数年に一度、この本を読み返す2時間ほどのあいだだけ、私はそういうふうに考えるようになった。

左から、萃、風美 ©2020 Escautville "N.P"

傾向、その人がその人自身である不幸みたいなもの。『N・P』という作品のテーマ。あれほどお互いを強く求めあっていた乙彦と萃は、そして風美と萃は、どうして一緒にいられなかったんだろう? その疑問への回答は、原作では風美や萃の独白を介して、言葉を尽くして提示されている。

しかし映画ではそうなっていない。映画『N・P』では、原作小説を構成していた膨大な量の独白や会話は大胆に削ぎ落とされ、代わりに小説にはない肉体や物質の表現がそれを補っている。登場人物たちの身体や衣服が、自然や家具や飲み物が、目で見て手に取れる現実のものとして存在している。そのことが、この話がどんな物語で彼らがどんな人間なのかということを饒舌に語っている。

湖のほとりで、萃が身を乗り出して風美の目を覗き込んだ瞬間の空気の歪み、白目の表面の水分、投げ出された長く肉感的な脚。1990年代的豊かさを感じさせる風美の部屋。すっとんきょうなだるま柄のTシャツ。穏やかだけど頑固そうな横顔。短パン姿で地べたに座っていてもわかってしまう乙彦の、悲しいほどの無垢さ。夏の屋上、紙コップで飲むぬるそうな赤ワイン。萃の部屋の奥に見えた質素な洗面台。ベランダで寝そべりながら萃の最後の手紙を読んでいるときに風美が背中に感じているはずのコンクリートの冷たさ。

左から乙彦、風美 ©2020 Escautville "N.P"

風美 ©2020 Escautville "N.P"

無声映画という手法をとることで、こうした物質的なものの持つ意味がヒリヒリするほど生々しく、グロテスクなほどに強調されている。その一方で、印象的な構図とキュートな色使い、カメラワークには心が踊る。この映画全体を、ひと揃いの絵はがきセットにして家に持ち帰りたいくらいだ。ヒリヒリする生々しさと、心躍る手つき。この相反する二つの性質が、吉本ばななの小説の読みくちを忠実に再現していた。すべてが意図されている、そう感じた。

画面のなかの萃は「あなたのことすごく好きだけど、一緒にはいられない」と叫んでいた。声は聴こえないけど、だからこそ全身がそう言っていた。どうしても納得することのできなかった物語の結論を、映画はもう一度私の目の前に差し出した。その人がその人自身であることの不幸。愛をもってそれを受け入れること。

こんなにも長い時間が経ってからではなく、10年前のあのときあの瞬間に私は、彼女がああするしかなかった理由をわかるべきだった。風美と乙彦が萃にそうしたように、私だけはそれをわかるべきだった。

映画のラストシーンでは、風美と乙彦が海辺で楽しげに焚き火をしている様子が映し出される。砂浜に座った風美と乙彦の目の前で、日本海側特有の荘厳な日没が空と海を割っていく。燃えさかる炎が二人の頬を照らす。神話のような情景だった。眺めていると脳がぐらぐらと揺れる感じがした。画面が暗転するまでの間、私は目の前の情景をただじっと見つめていた。