Text by 後藤美波
Text by 水上文
ショーン・フェイの著書『トランスジェンダー問題 議論は正義のために』は、トランスジェンダー女性であるイギリス人の著者が、トランスジェンダーの人々が社会で経験しているさまざまな困難の実態を、幅広い調査や分析によって明らかにする書籍。イギリスでは2021年に発売され、このたび邦訳が刊行された。
フェイ氏はブリストル出身、ロンドンを拠点に活動するジャーナリストで、過去には『Dazed』の編集長を務めたほか、The Guardian、Independent、Viceなどで執筆活動を行なっている。医療や教育、法律、労働環境など、当事者の人々の生と尊厳に関わる切実な問題が記されている本書において、著者は「私たちは、論争されたり馬鹿にされたりするための『問題(イシュー)』ではない」と綴る。
「日本のトランスジェンダーのために翻訳したかった」という訳者の高井ゆと里氏は、訳者印税を全額投じて当事者らに本書を献本したという。本書のタイトルが意味することや、献本の試みの背景、日本の読者への思いなどを聞いた。
“トランスたちを「トランスジェンダー問題」として枠にはめることは私たちを連帯から切断し、私たちを「他者」にする効果を持つ。 - 『トランスジェンダー問題』p.37”─まずは『トランスジェンダー問題』というタイトルについて伺えればと思います。タイトルだけ見て内容を誤解される方もいるかもしれません。
高井:このタイトルは、著者のフェイさんも言っているとおり、わざとつけられています。
最近、多くの人のあいだで、トランスジェンダーは社会にとって問題を起こす存在だと考えられがちです。最も典型的なのはトイレや更衣室にまつわる話ですね。しかし、そのようにトランスジェンダーそのものが「問題」として語られる一方で、そこではトランスの人たちを苦しめている問題については、決して語られません。
著者はそんな現状に対するフラストレーションを、強く持っていたと思います。日本にも、同様に感じているトランスの人が多いと思います。
だからこの本では、「トランスジェンダーがいかに問題でないか」というアピールには、あまり紙幅を割いていません。本書の出発点は、当事者が経験している困難を伝えること。「自分たちはこんな法律や医療制度に悩まされて、こんな労働環境で大変なのに、誰も聞いてくれない」ということです。このキャッチーなタイトルは、当事者たちが直面している本当の問題に目を向けさせるために、あえてつけられていると思います。
『トランスジェンダー問題 議論は正義のために』表紙。明石書店のウェブマガジン「Webあかし」では、本書のイントロダクションを全文公開中(サイトを見る)
─「議論は正義のために」という副題もとても素敵ですね。
高井:もともとの副題は「An Argument for Justice」で、直訳すると「正義のための一つの議論」、あるいは「一つの試論」という意味です。ですが、どういうふうに読んでほしいかという、私と明石書店さんの想いも含めて、「議論は正義のために」と訳しました。
トランスの人たちは、とにかく「議論」の対象にされがちです。議論する多くの人たちは、トランスジェンダーじゃない人たちです。人口の99%以上の人はトランスジェンダーじゃない人たちだけれども、トランスジェンダーについて「議論」したい、という雰囲気がいまとても高まってしまっていると感じます。
議論をする、というのは、一見するとすごく公平な態度に見えますが、SNS上など現実生活から離れたところでゼロベースで議論をすることはほとんど意味がありません。実際のトランスの人たちは、たとえば学校や職場でどういった姿で過ごすか、どこで着替えるか、どのトイレを使うかといったことを、個々の生活空間のなかで、本当に心細い思いで周囲の人と交渉したり、議論したり、あるいは何も口に出すことができずに孤独に耐えたりしています。誰にも見えないところで、自分が生きていくために、細かな細かなコミュニケーション、議論をすでにやってきたのです。それを全部ひっくり返して、みんなで「議論」をしましょうっていうのは、当事者を苦しめるための議論にしかならないと思います。
一方で、法整備など、トランスの人たちを苦しめている問題は依然として社会に存在し続けているので、議論自体が不要ということではありません。議論が必要な問題はたくさんあります。
─だから「正義のために」という部分が重要なんですね。
高井:そうですね。ただこの「正義」は、単にトランスにとって良い結論だけを求めているものでは、決してありません。本書が言う「正義」は、トランス以外の人たちも含めた不正義からの解放なのです。
たとえばトイレひとつとったとしても、どんなトイレのデザインだったらみんなが安全に、安心して使えるんだろう、と考え出すと、それは決してトランスだけの問題ではないはずです。現状の公衆トイレは奥まった場所にあって、非常に入り口が狭いものも多く、さまざまな人が排除されたり、結果として危険な環境に置かれてしまったりしています。そういう公衆トイレのデザインは、いくらでも改善することができるはずで、それは結果としてトランスの人にとっても安全に使えるものになるかもしれない。
医療制度でもそうです。トランスの人たちは、確かに特別な医療を必要とすることがありますが、お医者さんはシスジェンダーのヘテロセクシャルな男性が多く、結果として女性たちに固有の疾患や、男女で性差が発生するような医療領域への研究が非常に遅れてきた歴史があります。医療制度全体の問題として、男性中心主義を改善していくことは、決してトランスだけの問題ではありません。
このように、議論すべきことは山のようにあります。そしてその正義は決してトランスだけのものではないということが、本書で一貫して言われていることです。
“周縁化された異なる人々のニーズがこのように重なり合うことは、強調されなければならない。なぜなら、「トランスの人たちの関心ごとは、ニッチで、高度に複雑である」という幻想が、しばしばトランスたちの力を削ぐための手段になっているからである。” - 『トランスジェンダー問題』p.100”─ここからは本書の具体的な内容についても触れていければと思います。
イギリスにおけるトランスの人々をめぐる状況を紹介する1章に続いて、2章は医療がテーマです。ここではホルモン治療や性別再割り当て手術(=Sex Reassignment Surgery、SRS)など、トランスの人たちがしばしば必要とする医療サポートにおける問題点の指摘をはじめ、トランスのヘルスケアの発展の歴史がリプロダクティブ・ヘルスの発展に類似していることも指摘されています。トランスの人に対する強制不妊の問題も出てきますが、それもリプロダクティブ・ヘルツライツをめぐる運動と決して無縁ではありません。
高井:おっしゃる通りです。日本には、「性同一性障害者の性別の取扱いの特例に関する法律(通称・特例法)」があり、法的に性別を変えることが可能です。本書の2章でも書かれているとおり、昔は多くの国でトランスの人が法的な性別を変えるときに、手術をして不妊状態になってなければならないという条件を課してきましたが、日本の特例法はいまだにそうです。
この背景には大きく二つの発想があると思うんですが、一つは法律上の家族関係がややこしくなってしまうというもの。トランス男性が出産した時に、母として登録するか父として登録するか、といった民法上の家族構成の問題として、不妊化させておいた方がトラブルが起きないという観点から、不妊化が強いられてきたように思います。
もう一つは、優生思想です。トランスジェンダーの人たちはずっと——非常に悪い言葉を使いますけど——「精神的におかしな人たち、病気の人たち」として、医学の世界でカテゴライズされてきました。そういった、精神に疾患や障害のある人は子どもを産んではいけないという発想です。これは、精神疾患、精神障害のある人々に対する差別として世界中で繰り返されてきた、不妊化の歴史と重なっています。
かつて、日本でも優生保護法によって、主には遺伝性疾患を持つとされた人たちに対して不妊化措置が行なわれてきました。子どもを産んではいけない存在として、カテゴライズされてきたのです。トランスジェンダーに対する不妊要件も、明らかにその優生学の歴史に連なっています。
優生保護法と特例法は、まったく同じではありませんが、本人にとって非常に重要な利害関心になっている法律上の性別変更に際して、特例法の規定のためにやむをえず望まない不妊化措置を行なう人たち、それを選択せざるを得ない人たちが現実に存在しています。不妊化を伴う手術を結果として希望するトランスジェンダーの人もいますが、すべての人がそれを希望しているなら、このように強制などする必要がない。ですから、ここに優生思想という共通の問題があることはやはり指摘していくべきだと思います。
─性の問題としては、4章でセックスワークについての議論も出てきましたね。
高井:トランスジェンダーのうち、セックスワークに従事している人の割合は他の集団に比べて高く、その人がトランスだとわかった状態でトランスの人を目にする最初の機会がポルノである場合はすごく多い。だから本書の4章は、セックスワークについてです。
著者のフェイさんが立つ基本的な立場は、セックスワークは労働である(「sexwork is work」)というものです。フェイさんは、トランスのセックスワーカーがしばしば安全ではない環境で働いてることも、顧客から暴力をふるわれたりする人がいることも、よくよく知っています。だからといって、セックスワークを取り巻く業種や行為をすべて違法にするという「犯罪化」の方向には進まないんですよね。
そうではなく、セックスワーカーがそれを労働としてやっている、場合によっては雇われて、お金をもらってやっているのであれば、その他のすべての労働者と同じように、労働法の下で労働者として保護されて然るべきでしょうと。問題ある労働環境ならばその環境を変えるために肯定的な議論を進めていこう、セックスワーカーもまた権利主体として力を認められて当然でしょう、ということがこの章では主張されています。
─労働の問題は、3章「階級闘争」でも扱われています。
高井:トランスの人たちってどんな人たちだろうと考えた時、あるいは誰かがトランスジェンダーであると知った時に、多くの人はまず「体の手術をしているのかな」というようなことに意識が向くんですよね。たしかに手術は、当事者にとって重要になることがあります。けれども、じつはトランスの人が悩んでいる問題には、もっと多くの人と共通していることがたくさんあります。
たとえば低賃金で働かなきゃいけない、安全に労働ができない、もしくは病院に行きたいけれど仕事を休めない。そうした労働に関する悩みをトランスの人たちもたくさん抱えています。
加えて、トランスの人たちは、トランスジェンダーであることが理由で就職市場にまともに参加させてもらえなかったり、就職しても性別移行を理由に退職を結果として強いられてしまったりすることがとても多いです。2020年の日本の調査によると、トランスの人で、貯金がこの1年間で1万円を切った人は3割を超えています。トランス女性に限ると45%ほどにもなります(*1)。
トランスの人たちがそれだけの貧困に悩まされていることは、あまり知られていません。私たちの生活基盤を脅かしてる問題については関心が向けられず、むしろトランスジェンダーの人たちは自分の文化的なアイデンティティーを声高に主張している、文化的エリートだと語られることすらあります。ぞっとするような話です。3章の階級闘争の話では、そういった労働の問題や資本主義の問題が扱われていて、すごく重要な章です。
“大半のトランスたちにとって、普通自分のジェンダーアイデンティティは収入に負の影響を与える。” - 『トランスジェンダー問題』p.180”─今回、高井さんは訳者としての印税のすべてを費やして本書を数百冊買い上げ、トランスの人たちやトランスアライの人たちに献本する試みをされていますね。また明石書店さんがこの400ページ越えの翻訳書の価格を2,200円(税込)に抑えたことも、そのような経済的な問題に関連しているかと思います。
高井:私は『トランスジェンダー問題』の翻訳という仕事に関わることでお金をもらいたいとは、まったく思わなかったんです。私は大学の先生で、すごく恵まれた環境にあります。私の預金総額が増えることは、日本のトランスコミュニティーにとって何の意味もありません。
いま幸いにもSNSで本書に注目してくださる方がたくさんいらっしゃるなかで、その様子を見ているトランスの当事者の人たちが、自分もトランスジェンダーの一員で、明らかに自分に関わる本であるにもかかわらず、金銭的な事情でそれを買えないという状況は、すごくつらいし嫌なものだと考えました。
なので、トランスの人たちで、読んでみたいけどお金がなくて読めない人を極力減らしたいと思ってもともと始めたのが献本の試みです。今回は非常に例外的だし、あまりやるべきでない理由もあるんですけど、印税全額で買い取らせていただいて、多くの方に献本させていただくことができました。
明石書店・辛島(本書担当編集):高井さんの強い熱意なくしては、この価格は実現しませんでした。社内でも、この本の出版は非常に大きな社会的意義を持っているということで、できる限り価格を下げて手に取りやすくする方向で意見がまとまりました。
─2,200円という本書の価格は、ホルモン注射1本分の値段でもあるそうですね。
高井:そうなんですよ。テストステロンとかエストロゲンとかのホルモン注射を定期的に続けてらっしゃるトランスの方はすごく多いのですが、ホルモンには保険が適用されていないので、全額自費になります。しかもその金額はクリニックやお医者さんによって本当にまちまちです。注射1本500円でやってくれる良心的なところもあれば、2,000~3,000円くらいのところもあって、毎月結構な金額になってしまいます。
本当にお金がないなかで生活をやりくりしていて、この本の価格を手が届かないものとして感じる当事者の方も多いと思います。価格を注射1本分の金額に抑えられたこと自体は嬉しいですけど、やはりそれでも注射1本分をトランスの人から奪ってしまう金額であることは、私が献本のときにずっと意識していたことでした。
─訳者あとがきでも「日本のトランスジェンダーのために訳したかった」と書かれていました。
高井:本の企画が立って、明石書店さんから私に話がきたときに最初に思ったのは、この本が売れるっていうことを世の中に見せつけてほしいということでした。
類書の少ない本で、ガチガチの社会正義の本でもありますが、トランスの人が政治的にシビアな話をしている本が売れたという実績ができると良いなと思いました。そしてこの本の後に別の本が続いてほしい。トランスの人たちを馬鹿にしたり、誤った情報をわざわざ広めたり、そこで面白がってお金を稼ぐ人たちが出るよりも前に、このような本が売れる実績をつくってほしいと思いました。
翻訳に際して、たくさんの当事者の力を得ることができました。本当にみんなには感謝しています。トランスの仲間に助けてもらったからこそできたことだし、一人ではできなかったと思います。この本を手に取る日本のトランスの人たちがエンパワーされてほしい、コミュニティーにとって少しだけ良いことができたらなって思っています。
─当事者ではない読者に向けて、何かメッセージがあればお願いします。
高井:トランスジェンダーではない読者の人たちに考えてほしいのは、ここに書き記されている現実に、なぜ誰も興味を持たなかったのかということです。できれば、この本を読んでそれを振り返る機会を持ってもらえたらと思います。
トランスの人たちはこれまでもずっと、自分たちの置かれている状況を訴えてきました。自分たちを苦しめている法律や医療のあり方、職場で受ける差別、教育現場でのいじめとか、お金がないとか。
たとえば、数年前にイギリスで行なわれた調査では、トランスジェンダーの若者で自殺未遂を経験してる人は4割を超えていました。10年前のアメリカの調査でも、41%の人が自殺未遂を経験しています。トランスの友達にその話をして、「たった41%なの?」って言われたことがあります。それがトランスジェンダーのリアルなんですよ。
ここ数年、日本語圏でもトランスジェンダーに対する差別言説が増加してしまいましたが、トランスの人たちからすると、自分たちが本当に訴えたいことはずっと言ってきたつもりなのに、黙殺されたまま状況は変わらず、差別言説に該当するものが増えてしまっている。だからこそ、この本が注目されている部分もあると思うんです。それはすごく皮肉なことです。自分でも言っていて悔しいし、著者も悔しいなかで書いていたと思います。
─SNSなどでトランスの人に対する攻撃的な言葉を目にする機会が増え、何かしたいと思いながらも何をしたらいいのかわからない、という人も多いように感じます。
高井:差別言説は許せないって思ってくださる方が増えていることは嬉しいです。でも忘れないでほしいのは、トランスの人たちはSNS上で言説に苦しめられたり偏見を煽られたりする以前から、社会にある根深い構造や制度、法律の水準でずっと不当に扱われてきた歴史があるということです。
書類の性別欄ひとつとってもそうだし、就活の画一化された服装もそう。トランスの人たちを苦しめている社会の設計について、ぜひ一緒に声をあげてほしいと思います。
差別言説のどこが間違ってるか、どこが現実的でないかを勉強するのは大事なことです。でもそれは結果として差別的な言葉にペースを握られっぱなしになってしまうことでもあるので、トランスの人たちがどういった社会のあり方に対して異議申し立てをしているのか、何を変えようとしてるのか、ということにも思いを寄せてもらえたら思います。それはトランスの人だけではなく、多くの人にとってのより良い社会を求めることにもなるはずです。
明石書店・辛島:私自身がトランスで、ノンバイナリーであることもあり、この本を担当させていただきました。私はこれまでトランスに対する肯定的な表象がもっと増えるといいな、ということをメインに考えていたのですが、この本を担当することで、トランスジェンダーが直面する問題を社会構造の問題としてとらえる視座を得られました。自分としても思考が広がったと思っています。
─本当に、限定された場や人々の問題ではなくて「私たちの問題」であることが、よく理解できる本だと思います。
高井:トランスジェンダーはSNS上の生き物ではありません。現実社会でどんな問題に苦しんでいるのかということを、ぜひ本書を読んで知ってほしいと思います。
それはトランスジェンダーという、とても小さな集団について知る新しい経験であると同時に、辛島さんのおっしゃるように思考が広がる、目が開かれる経験にもきっとなるはず。本書を読んで、トランスの人たちがどういった人たちなのか、自分たちとどれくらい似た問題に苦しんでるのかということを一緒に体験してもらえたら嬉しいです。