Text by 川浦慧
Text by 畑中章宏
アイスランドの山間に住む羊飼いの夫婦と、羊から生まれた「羊ではないなにか」をめぐる映画『LAMB/ラム』。「禁断(タブー)」とされるその子羊(小羊)は、どんな存在であると考えられるか? 日本の民俗研究上の視点、さらにキリスト教の視点を交えながら、民俗学者の畑中章宏が考察する。
ヴァルディミール・ヨハンソン監督の『LAMB/ラム』は、動物と人間のあわいにあるものをめぐる幻想的で怪異で、美しい物語である。
アイスランドの人気の少ない山間に、牧羊を生業にする1組の夫婦が暮らしている。ある日、1頭の羊が産まれる。2人にとって、日常的な出来事だったが、そのときに産まれてきた子羊は異様な姿をしていた――。
ユーラシア大陸の東の海上に位置する日本と、西の海に浮かぶアイスランドでは、宗教や信仰、習俗は当然異なった様相をみせる。私は日本列島の信仰、伝承を研究しているものなので、そうした立場からこの不思議な作品を観た。するとまず、民俗研究上(昔話説話研究)の「誕生」をめぐる、いくつかのタームを思い浮かべることとなった。
アダと名づけられた「子ども」が普通とは違う姿形で生まれてきたという映画の発端については、「異常誕生譚(異常出生譚)」という民俗学上、説話学上の分類概念に当てはまる。「異常誕生譚」は神話や伝説、昔話などで、普通ではない姿で生まれてきた場合にだけではなく、生まれ方の異常さを特徴とする場合もこのように名指しされる。
「異常誕生譚」のうち体の小さい(あるいは背丈の低い)登場人物のことを「小さ子(ちいさこ)」と呼んでいる。『LAMB/ラム』を観て、私の頭を真っ先によぎったのは、この「小さ子」をめぐるメルヘン、ファンタジーの類だった。「小さ子」はつねならざる異能の持ち主で、その能力で人々に幸いをもたらすことがある。
「小さ子」が男の子の場合、具体的には一寸法師や桃太郎がこれにあたる。子どものいない夫婦が、神仏に祈って子どもを授かる。「小さ子」として生まれた彼らは立派に成長し(多くの場合、武士となり)、鬼退治をして宝物を獲得する。こうした昔話には、古代から続く小さな子どもに対する信仰、また男の子の通過儀礼や、英雄になるものは異常な経緯で世に生まれてくるものだという民俗的理想等々が反映しているのではないかと想像されてきた。
©︎2021 GO TO SHEEP, BLACK SPARK FILM &TV, MADANTS, FILM I VAST, CHIMNEY, RABBIT HOLE ALICJA GRAWON-JAKSIK, HELGI JÓHANNSSON
また「小さ子」が、女の子である場合の話も少なくない。異常誕生譚中、女の子、女性を主人公にしたものでもっとも有名なのは『竹取物語』のかぐや姫だ。
「小さ子」として竹から生まれたかぐや姫は、翁(おきな)夫婦によって美しく成長し、何人もの貴公子たちから求婚され、帝(みかど)からもお召しを受けたがそれにも応じないまま、月からの使者に迎えられて天に昇る。『LAMB/ラム』の「小さ子」であるアダは、一般的に女性のファーストネームだが、もしアダが女性だとしたら、かぐや姫のように物語が展開していくこともありえるだろう。
一方、瓜子姫(うりこひめ)をめぐる一連の昔話は、女の子の「小さ子」でも異彩を放っている。子宝に恵まれない老夫婦が川で拾った瓜から生まれた小さな女の子が、老夫婦の留守中に「あまのじゃく」に連れ去られてしまう。その後の展開は話が伝承されている地域によりさまざまで、なかにはあまのじゃくが、殺めた瓜子姫の皮をかぶり、姫になりすまして陰惨な結末で終わるものもある。
このほか蛇やタニシ、カエルなどの動物の姿で生まれてくる昔話もある。さらに、「小さ子」は人々に、神の子どもだと理解されてもきた。私もアダはもしかすると、神の子ではないかと思ったのだ(ある意味ではこの映画に対するこうした理解は、現在も覆ってはいない)。いずれにしても、「小さ子」の人生(?)が只事で終わるわけはない。
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日本の説話中の「小さ子」事例の紹介が過ぎたかもしれないが、「小さ子」説話の範疇に入れられることが少ない妖怪譚についても話をしておきたい。じつは、これから紹介する話も、『LAMB/ラム』の物語展開として、もしかするとありうるのではないかと思ったからだ。それは河童をめぐる東北地方に伝わるよく知られた民譚である。
日本の民俗学を始めた柳田国男の代表的な著作『遠野物語』(1910年)は、岩手県の山間部に伝わるさまざまな妖怪譚を集めたものだが、ここにも何編か異常誕生譚が収められている。
「五六 上郷村(かみごうむら)の何某の家にても川童(かっぱ)らしき物の子を産うみたることあり。確かなる証とてはなけれど、身内真赤にして口大きく、まことにいやな子なりき。忌わしければ棄てんとてこれを携えて道ちがえに持ち行き、そこに置きて一間ばかりも離れたりしが、ふと思い直し、惜しきものなり、売りて見せ物にせば金になるべきにとて立ち帰りたるに、早取り隠されて見えざりきという」 - (柳田国男『遠野物語』より)『遠野物語』ならではの文語体で語られる怪異譚は、得も言われぬ読後感を催させる。しかし、原文では難しいと感じる読者もいると思うので、現代文に近い口語体に訳してみる。
「遠野にある村のある家で、河童のような子どもが生まれたことがあったという。たしかな証拠はないが、真っ赤な体で、口が大きく、本当に不快感を覚えさせる子どもだったという。あまりに忌まわしい姿形をしていたので、子どもを持って村はずれの辻まで行き、そこに置いて少しのあいだそこを離れたが、『捨ててしまうには惜しいもんだ。売って見世物にすれば金になるのに』と思い直して、子どもを捨てたところまで戻ったが、早くもどこかに持っていかれて見つけられなかった……」 - 羊の顔を持つアダは、遠野の河童のように忌々しくはない。それどころか、羊以上に、人間以上に愛らしく、大切に育てられる。飼っている羊から、アダがこの世に生まれ出たことを、夫婦は僥倖だと感じている。そして、娘を亡くし、悲嘆にくれていた夫婦は、アダが娘の「生まれ変わり」に違いないと理解していたふしがある。
生まれてきた子どもを、どのような場合に「生まれ変わり」だと判断するか、あるいは「生まれ変わり」という現象、事態をどのように解釈するか。こうした面から『LAMB/ラム』を観たとき、「小さ子」とはまた別の見方ができるかもしれないがどうだろう。
©︎2021 GO TO SHEEP, BLACK SPARK FILM &TV, MADANTS, FILM I VAST, CHIMNEY, RABBIT HOLE ALICJA GRAWON-JAKSIK, HELGI JÓHANNSSON
かぐや姫がそうであったように、アダは「異界」からの来訪者と見て、展開を予想するのは、ファンタジーとしては自然な見方だろう。いずれにしても、私は『LAMB/ラム』を、日本の昔話その他の「小さ子」事例、異常誕生譚と重ね合わせて、本来とはかけ離れた楽しみ方をし過ぎたかもしれない。『LAMB/ラム』は地理的辺境とはいえ、ヨーロッパを舞台にした物語だし、主人公はあくまでもかぐや姫や河童ではなく子羊(小羊)なのである。
キリスト教では、洗礼者ヨハネは、イエス・キリストを、世の罪を取り除く神の子羊(小羊)と呼んだ。人類の罪を背負って十字架上で死に、罪のあがないを成し遂げたキリストは、温良な子羊として象徴化される。
「神の子羊」は、初期キリスト教美術ではカタコンベ(地下墓所)の壁画などに描かれ、聖堂のステンドグラスのモチーフとしてもよく見られる。15世紀に、初期フランドル派の画家、ファン・エイク兄弟(フーベルト・ファン・エイク、ヤン・ファン・エイク)が描いた『ヘントの祭壇画』(ベルギー)は、「神秘の子羊」「神秘の子羊の礼拝」とも呼ばれ、上下二段構成の下段の中央パネルには、緑に覆われた牧草地に置かれた祭壇の上に捧げられた生贄の子羊が描かれている。
『ヘントの祭壇画』Jan van Eyck, Public domain, via Wikimedia Commons
キリスト教世界における「神の子羊」が、この作品とその主人公であるアダに、何かしらのかたちで反映していることは専門家の意見を待ちたい。
いずれにしても、アイスランドの牧畜地帯を捉えた特筆すべき映像美を推進力にする、謎に満ちた『LAMB/ラム』は、さまざまな想像に私を導いてくれたのだった。