Text by 島貫泰介
Text by 川浦慧
不思議なこと、不条理なことは多い時代だが、それはもっぱら「人」の行ないに依存している。そんなときこそ妖怪だ! 妖怪の持つ怪奇や謎はさまざまだが、そこにはロマンだけでなく畏れがある。
かつて人々は、身の回りに起こった不思議なことを、狸や狐といった動物の仕業として理解し、それを怪異として受け入れてきた。都市化した生活を得るなかでも遭遇する、科学的には説明できない出来事。私たちは妖怪や幽霊といった存在のリアリティーを巧みに取り入れながら、不思議なことと付き合ってきた、と言えるかもしれない。
妖怪研究の第一人者である小松和彦は、広い意味で日本人の社会規範や心象を「妖怪」という不可視の存在から浮かび上がらせる研究を続けてきた。
では、あらゆる物事が説明可能であるような、SNSやネットのなかにあらゆる答えが用意されている……と人々が思ってしまうような現代社会のなかで、妖怪や怪異はどんな意味・意義をもって存在しているのだろうか? あるいは存在し続けることができるのだろうか?
長年、小松が妖怪学の研究拠点としてきた国際日本文化研究センターを訪ね、話を聞いた。
小松和彦(こまつ かずひこ)
1947年、東京都生まれ。国際日本文化研究センター所長。埼玉大学教養学部教養学科卒業、東京都立大学大学院社会科学研究科(社会人類学)博士課程修了。専攻は文化人類学・民俗学。著書に『いざなぎ流の研究─歴史のなかのいざなぎ流太夫』(角川学芸出版)、『神隠しと日本人』『妖怪文化入門』『呪いと日本人』『異界と日本人』『鬼と日本人』(角川ソフィア文庫)、『百鬼夜行絵巻の謎』(集英社新書)、編著に『妖怪学の基礎知識』(角川選書)など、多数。2013年、紫綬褒章受章。2016年、文化功労者。
ー小松先生は著書『日本妖怪異聞録』(1992年初版、小学館)のあとがきで「わたしにとって、妖怪とは人間と人間との関係のなかから立ち現れてくる幻想であって、しかも、それは自分(たち)の否定的分身である」と書いていますね。
小松:『ゲゲゲの鬼太郎』のねずみ男に顕著ですが、妖怪というのは、人間の「よい」と「悪い」部分の両方を体現していると思っています。鬼太郎に退治される妖怪には「むしろ人間のほうがおかしいよ」と人間への批判みたいなものが含まれているじゃないですか。彼らは悪事や残酷なこと、人間にとって否定したいこともするけれど、それは人間である自分のなかにあるものでもある。それは戦争を経験した水木(しげる)さん自身も持っていたものなのでしょう。
ー人間が抱えている二面性・多面性が作品からも感じられるんですね。
小松:仏と魔というかね。その魔の側を表現せざるをえないのが、作家という存在です。漫画も文学もそうで、言ってしまえば仏しか描かない作品なんてちっとも面白くない(笑)。ぼくは表現者ではないにせよ、魔が託されるものとして妖怪に魅せられて、人間とは違う世界、鬼、地下世界といった広い意味での幻想領域を研究してきたんです。
ー関心を持ち始めたきっかけがあるのでしょうか?
小松:図像的に言えば、いちばん影響を受けたのは映画ですね。『ゴジラ』(1954年)を見ていると、ゴジラは怖いけれどよい存在にも思われるわけですよ。『東海道四谷怪談』(1959年)でも、無惨に殺されて幽霊になるお岩さんに同情してしまう。同時に『四谷怪談』の敵役である田宮伊右衛門にだって、なんとなく同情する部分もあるしね。「婿養子はつらいよなー」と。
ー大衆的な共感を持ってしまうと。
小松:多くの人がお岩さんの恨みや登場人物の葛藤に共感するからこそ、成立する物語でしょう。しかし誰かに鎮めてもらうべき存在であるとも理解できる。そこで姿のない幽霊を武士は退治できないから、じゃあお坊さんの役目だろうかとか思いながら見ていましたね。
そうそう! いちばん好きな映画は『吸血鬼ドラキュラ』(1958年)でした。ねずみ男とは違う魅力ですが、あれもぼくの心のなかにあるドラキュラ的な気持ちを刺激します。でもね、こういった大衆的な表象を研究する学問は、ぼくが若い頃はほぼなかったんですよ。
―そういった魔の側の表像にこそ、人間らしさが宿るものだと感じます。
小松:人間は、自らに災いをなすような鬼や天狗や河童を好み、たくさん描いてきたにもかかわらず、芸術や学問の分野は、仏さまや観音さまを描く高尚な宗教美術ばかりを対象にしている。でも「人間の思い」がどちらに託され、絵のようなかたちで外在化されているかといえば、明らかに妖怪や魔の側ですよね。
主題:河童 著作者:歌川芳員 / 画像提供:国際日本文化研究センター
主題:天狗、箒 著作者:洒落斎芳幾(歌川芳幾) / 画像提供:国際日本文化研究センター
小松:しかし、そういったものは大衆的、子ども騙し、エンタメとして軽蔑されていて、映画や漫画っていうのは研究の対象にならなかったんです。さらには近代文学でさえまともな評価がなされない時代でしたからね。「まだ評価が決まってないから研究できない」という考え方。
ー知らないこと、はっきりしないことを研究していくのが学問の醍醐味だと思います。
小松:エリートの側の優れた作品はたくさんあるけれど、どんなに稚拙であっても庶民が描いたものに価値があると考えて、ぼくは民俗学を始めたんです。芸術的な価値ではなくて、その時代の人々の思想、価値観、好奇心が描かれていて、多くの日本人は、そこに自分たちの興味、歴史を刻みこんだんじゃないか、と。
そういった意識で研究をしていると、自ずと同時代の作家とつながるし、お互いが影響を与えながら表現と研究が進んでいく。そうやって現代の大衆文化ともつながるんですね。個人の欲望・表現衝動みたいなものに端を発しながら、人類学や民俗学は集団表象、村落共同体の人たちが共有している価値観を研究対象にするので、その点で作品をつくる側との相違は出てくるわけですが。
ー共同体という言葉が出ましたが、昔と現代の共同体のあり方は大きく変わっています。いまはSNSなどを介して、必ずしも同じ地域に住んでおらずとも、また世代的な共通性がなくても、趣味でつながっていくような共同体のあり方があります。共同体が変われば、妖怪を受容する感覚も変わっていくのでしょうか?
小松:妖怪は農村や暗闇に現れるものとされてきた。ぼくがフィールドワークを行なっていた高度経済成長期には、農村に行けば前近代的な風景がまだ残っていました。横溝正史の小説に描かれた社会がまだなんとなくあるような時代で、さらに遡れば泉鏡花の時代であれば、『夜叉ヶ池』(1913年発表の戯曲)は同時代に存在する村の話だったんですよね。
しかし、いまそれらの時代を現在進行形の物語として描くのは困難で、研究にしてもそう。京極夏彦さんの小説が昭和を舞台にしてるのも同じ理由で、作品で描かれる現実はすでになく、バーチャルな空間のなかでしか妖怪は描けない時代になったということでしょう。
ーどういうことでしょうか?
小松:対象となる妖怪にも変化があって、狐や狸が人を化かす、なんて話は遥か前にリアリティーを失ってしまって、いまは人間に起因する幽霊が怪談・怪異が主流です。それもはっきりした原因・理由は明かされず「よくわかりません」という曖昧さを備えている。
時代がどんどん進んでいくにつれて、バーチャルな世界のなかでしか恐怖は語られないんです。だから最近シリーズ化している村系の映画、『犬鳴村』(2020年)や『牛首村』(2022年)も、かつてあった村を想定して怖い話をつくるでしょう。
主題:狐 著作者:牧墨僊
狐に騙された人々の様子を描いたと思われる / 画像提供:国際日本文化研究センター
ー80年代の終わりぐらいから、黒沢清、高橋洋、小中千昭らがJホラーの潮流をつくってきましたが、基本的には都市型の幽霊が主流ですね。間違っても、狐の仕業とか古道具に意志が宿って、みたいな話ではない。
小松:幽霊の場合、その原因はわからなくても、人間関係を想起することができますからね。でも狐や狸と人間のあいだにはもう関係が成立しない。都市に暮らしながら、夜歩いていたら狐が目の前を通ったとか、多くの人は経験しないでしょう。
ーそう考えると、新美南吉の児童文学である『手袋を買いに』(1943年)も、そういった社会的なリアリティーに依拠した妖怪譚ですね。
小松:そうですね。でも農村的なものが失われて、都会の空間で意味があるのは人間なんです。男女の関係とか、学校でいじめられたとか、そういった恨みや、そういった恨みが生じる場所で物語がつくられていく。幽霊が主流になっているのは、人間が人間に対して持っている心情を託すことができるから。
物語はつながりがあってはじめて生まれます。しかしつながりがないものに対して、悲しいことに人間は関心を持てない。地獄の世界があったとしても自分とつながりがなければ「あるんだ、ふーん」ぐらいで、スルーしてしまうんです。
ーいっぽうで、SNSにおけるコミュニケーションのなかに「妖怪的なもの」を感じるときも多くあります。例えばTwitterだと、顔の見えない匿名の誰かが自分に対して突然攻撃的な存在として現れたり、まったく意見の合わない不特定多数がネットの向こうにぼんやりいると感じたり。これも現代における妖怪みたいな存在とも言えるのではないでしょうか?
小松:「見えない」ことが問題なんでしょうね。身体や顔がなく、言葉だけが氾濫している。それはすごく怖いことだと思います。だいぶ昔に、差出人のない幸福の手紙があったじゃないですか。逆に「不幸の手紙」というものもありましたね。
ー10人に同じ文面の手紙を送らないと不幸になる、という。
小松:Twitterでは、それに近いものが一瞬のうちに大量に現れますから怖いですよね。なにか発言したら100倍くらい反応が返ってくるかもしれない。
あるいは、キャラクター的な妖怪の造形もネットのなかでつくられているでしょう。コロナ禍で注目されたアマビエは、いろんな人がそれぞれのバリエーションでアマビエを描いて、それが人気を呼んで、さらにたくさんの人が描いて。そういうものが突然うける現象は、現代人の心に深く関わっていると思います。コロナに対する不安とか、いろいろ。
ーそうやってネット上でバズった、爆発的に増殖したものは、これからの社会で深く定着していくものでしょうか? 村落共同体は、100年200年という長い時間のなかで、慣習を受け継いできたわけですよね。
小松:かたちを変えて受け継がれていくでしょうね。「エレベーターの怪」という都市伝説があります。同じエレベーターに乗っていたはずの人が、目的の階に着いた頃には消えてしまっている。視界から遮断されたところでなにかが起こる、という話は昔からあって、その前はタクシー、その前は人力車やカゴ。その時代ごとの特徴を背景装置として使いながら、同じ怪異が語られていくということがあるわけなので、おそらくそれは次の時代の装置のなかで語られるんじゃないかと思います。
ーしかしそれは妖怪とはちょっと違うものではないでしょうか?
小松:私の研究では、「妖怪」の概念を「妖怪現象」「妖怪存在」「妖怪表象(造形化された妖怪)」の三段階に分けて説明してきましたが、妖怪が引き起こした現象があり、その原因に妖怪という存在があり、それが絵巻物などで造形化される。そうやって人々は不思議なこと、原因のわからないことを理解してきました。
でも水木しげるさんは、例えば「べとべとさん」と呼ばれてきた存在と現象を、新奇なキャラクターとして造形化することで、それまで狸や狐として理解されてきた怪異現象と怪異存在のつながりを断ち切ってしまった。フィクションの力で因果を断ち切ったほうが絵にしやすいからね。都市化した昭和の時代に、狐や狸では絵にならないですから。
ーさきほどの幽霊の話に近いですが、正体不明な状態だからこそ現代人は受け入れることができる。
小松:「不思議なことがあるね」と感じたら、もちろん原因は想像するでしょう。でもそれを具体的に名指してしまったら突然リアリティーがなくなってしまう。それは神なき時代の心理ですが、神さまがいないのと同じように妖怪存在もいない。でも、怪異は語りたいという気持ちはある。
ー私たちがネットの向こうの匿名者を妖怪的に感じるのも、いまの時代に怪異を求める気持ちが反映しているかもしれないです。
小松:妖怪の定義も変わっていくでしょうね。妖怪存在は長い歴史を持ちますから、それ自体は否定できないけれど、ネットのような新しいもの、神なき時代の妖怪は、妖怪存在なき妖怪みたいなものとして生まれてくるはず。
ーもやもやした気持ちになりますね(苦笑)。妖怪存在と妖怪現象を結びつけることができたかつての村落共同体は成り立たなくなったけれど、それに近い共通する価値観を持ちたいという気持ちはおそらくいまの人にもあって、しかしそれに見合った器が見つからないから。
小松:だから新興宗教も流行る。ぜんぶ説明してくれますからね。サタンのせいだとか神さまのせい、とか。妖怪存在や神のない生活のなかに神を入れてくれるわけだから、なんとなく充足した気持ちにさせてくれる。
でもそれは脅迫みたいなもので、「あなたが病気になったのはこれこれのせいである」という説明は、まわりから見たらインチキでも、弱っている人にとっては逃れ難い言葉になる。そうやって占い師や宗教家は、社会一般のコードとは関係なく「あなたの物語」として指し示すわけです。水子の祟りとか言われたら、それが他者とは共有不可能だとしても「私個人の物語」として正当性を持ってしまう。物語なき時代ゆえですね。
ーあくまで個人を軸とする生き方と、共同体を前提とする生き方、それぞれよし悪しありますが、そのどちらかを選ぶことは難しいように思います。
小松:難しいですよね。これは妖怪好きの内輪ネタですが、妖怪オタクの人たちはオタクであることで鬱にならないなんて話がありますね。もう一つの世界があると意識することで心の余白が担保され、あるいは水木さんの描いたものを絵解きしているだけで楽しいから、深刻になってる暇がない(笑)。
そういう人たちはインターネットでグループをつくって情報交換していますから、顔を合わせなくても、匿名でも、ひとつの共同体ができてるような気がしますよね。その意味では、匿名のよさと悪さが両方あるのかな。
しかし究極的にハードルになるのは、我々には生身があるってことですよね。食べたり動いたり生活する肉体がある限り、そこから完全に解放されることはない。だからこそ、ゲームのなかのアバターやコスプレなんかを介して、自分とは違うものになる変身願望を満たしている。そうやってどんどん仮想の自分像に心が充足されていくと、どんどん生身が邪魔になっていく。
ー間抜けさや醜さといった自分のコンプレックスを、生身の身体は残酷に突きつけてきますからね。実際のところ他人はそんなに自分に興味なんか持ってないけれど、SNSにおけるコミュニケーションは「いつも誰かが自分を見ているのではないか」というオブセッションを極限まで強めます。その心理状態も、なにやら妖怪的ななにかに取り憑かれているようにも思えます。
小松:コロナ禍のせいだけではないでしょうけれど、マスクを取れなくなってしまう人もいるでしょう。バーチャルな共同体をつくることが容易になっても、生身の肉体とは無縁ではない。でもなんらかの方法でいろんな人たちとつながることは必要だし、自分の研究者としての実感から言っても、学際的につながっていかなければ、それは学問とは言えない。
ーともに生きることのジレンマですね。妖怪についての質問が、こんなふうに展開するとは思いもしませんでした。ありがとうございます。