Text by 川谷恭平
Text by 和田拓也
ロシアによるウクライナ軍事侵攻がはじまってまもない3月11日、スケートメディア『THRASHER MAGAZINE』のYouTubeに『Revolutions on Granite(花崗岩の革命)』が公開された。これはソビエト連邦(以下、ソ連)時代、秘密裏に持ち込まれ、ソ連崩壊後の民主主義の到来とともに花開いたウクライナ・キーウのスケートカルチャーを映したドキュメンタリーだ。
キーウにある「独立広場」は、自由と独立を求めて闘った革命の舞台であると同時に、文化の「メルティングポット」でもあった。映像ではスケートボードが広場で担ってきた役割、スケーターたちが育んできたもの(あるいは奪われたもの)が、膨大なフッテージとともに鮮明に描き出されている。
革命の一翼を担っていたスケーターたちの尽力によって、ドキュメンタリー制作の過程で次第に姿を現していったキーウのスケートカルチャー。政治、戦争だけでは語り尽くせないウクライナの闘争の歴史を、キーウのスケートボードのありようを、『Revolutions on Granite』を制作したアメリカ人フィルマーのブレンダン・ギリアムへのインタビューをつうじて解きほぐしていく。
ブレンダン・ギリアム / Photo by Dmytro Prutkin
『Revolutions on Granite』は、ブレンダンとともに制作を始めたフィルマーのピーター・コノパスクがキーウを訪れたのが始まりだ。ニューヨークの大学で政治学を専攻していたピーターは、2014年にウクライナで起こった「マイダン革命(マイダンはウクライナ語 / ロシア語で「広場」を意味する)」を機に、キーウを訪れた。ブレンダンは、同ドキュメンタリーのきっかけから話しだす。
「普通の人たちからすると、アメリカ人が東欧の革命を目撃しに行くってのは奇妙に感じるかもしれないね。ピート(ピーター)は、ただその出来事の一部になって、そこで何が起こっているのかを理解したかったんだと思う。で、そのなかで革命の一翼を担っていたスケートボーダーたちに出会ったんだ」
「ブレンダン、彼らのスケートドキュメンタリーを何としてでも撮るべきだ」。ニューヨークへ帰ったピーターは、そうブレンダンを説得した。そこから、戦争、そして政治的状況に振り回され続けたキーウのスケートカルチャーを解き明かす、彼らの長い旅が始まった。2014年に起きたマイダン革命ののち、ロシアによってクリミアが併合されてまもないころだった。
左がピート / Photo by Brendan Gilliam
ウクライナの首都・キーウの中心に位置する独立広場。18世紀ごろから存在する同広場は、20世紀以降はキーウの「中央広場」としての役割を果たした / 写真提供:Brendan Gilliam
「当時は金がなくて頻繁にウクライナに行くことは難しかったから、作品の完成までにすごく時間がかかったよ。で、何より1番の問題は、オレらがロシア語をまったく話せないことだった。共通の言語はスケートボードくらいでね」
そうブレンダンは振り返るが、結果的に1番の解決策となったのも、その唯一の「共通言語」だった。撮影のために何時間もぶらぶらしたり、広場やスケートスポットで人間観察をしたり、スケートボードはとにかく街と人を見るにはうってつけの道具で、ブレンダンらが目にしたキーウと独立広場の美しい風景に新たな意味をつけ加えていった。
「次第に地元のスケーターたちとつるんでいったよ。彼らのアパートに泊まったり、生活のなかに招き入れてもらったり、ときに撮影したスケートビデオの上映会をやって盛り上がったりしながら彼らと友人になった。おかげで、彼らのスケートコミュニティーに受け入れてもらうことができたよ。
で、ウクライナのスケーターやフィルムメーカーがフィクサーのようなかたちでたくさん協力してくれたんだ。地元のジャーナリストがそうであるように、いろんな情報源を見つけて、シーンの重要人物に連絡を取って紹介してくれたり、撮影場所を探してくれたりね。インタビューの通訳や映像の翻訳にも協力してくれた。
スケートコミュニティーに深く関わる、キーウからニューヨークに移住した何人かの友人のおかげで聞き逃したことがたくさんあることにも気づけたね。それでまたキーウに行くんだ。編集のときも、『この言い回しはおかしい』『この演出は違う』ってな具合に、地元の人間にしかわからないニュアンスを落とし込んでくれた」
Photo by Brendan Gilliam
決定的だったのは、1990年代前後からアーカイブされたスケートビデオの数々だった。スケートビデオは、スケートボードのスキル以上に、スケーターのスタイル、消えては立ち現れる文化のありよう、街の文脈を記録した都市の重要なアーカイブ資料でもある。幸運なことに、ブレンダンたちはキーウのスケートコミュニティーの尽力によって、その貴重な記憶にアクセスする機会を得る。
「キーウにスケートボードが持ち込まれた当時、父親がスイスの外交官を務めるスケーターがいたんだ。彼は独立広場に入り浸っていたやつらのなかで、唯一ビデオカメラを持っていたスケーターだった。その彼と連絡が取れて、ものすごい量のVHSテープが送られてきてさ。
VHSだったし、ヨーロッパのビデオフォーマットはアメリカと違ったから、まず機材を手に入れるところから始まったんだけど、全部インポートしてみると、独立広場でたむろする若者やスケーターの様子が延々と記録されていたんだよ」
さらに、ブレンダンらがウクライナへ行く何年も前からキーウのスケートカルチャーを調査し、写真や映像を撮影・収集しながらドキュメンタリーを制作していたスケーターもいたという。
「当時あちこちでマイダン革命にフォーカスしたドキュメンタリー映像が世に出るなかで、革命の視点からしか語られなくなった独立広場の状況を政治的に利用するのがイヤになり、途中でやめてしまったらしいんだけど、彼はそれらをまるまるオレらに提供してくれたんだ」
ブレンダンいわく、その「手に負えなくなるくらいの膨大なフッテージ(編集に約2年を要した)」と、そこから徐々に輪郭を帯びていくキーウのスケートシーンのありように、ブレンダンたちは驚きを隠せなかったという。
「スケボーの乗り方を学ぶ前に、カラシニコフ(AK-47)の扱い方を覚えなきゃいけなかった」。作中に登場するキーウのスケーターはそう述懐する。
1990年、ソ連の構成共和国であったウクライナは、ウクライナ議会選挙の結果への不満からくる学生運動に端を発した「花崗岩革命」の最中で、1991年にはソ連からの独立を宣言。さらに、同年末のソ連崩壊により、ウクライナに西欧諸国の文化が次第に輸入されはじめる。
大理石と花崗岩が使用された独立広場はウクライナが手にした自由と革命の象徴であり、もともとはスケートスポットなどではなかったが、民主主義の到来とともに独立広場は若者たちによる文化の「メルティングポット」へと変容していく。
「Metallica、Guns N' Roses、Aerosmithの時代の到来さ。「カリンカ・マリンカ(※)」のオルタナティブだ! ってね」 - 『Revolutions on Granite』より「独立広場は、ウクライナの「ラブパーク(※)」そのものだった」 - 『Revolutions on Granite』より「ソ連崩壊が歴史的な出来事だとはあとから知ったよ。恋とか、顔にできたニキビのことで頭がいっぱいだったからね」
「スケートボードはぼくらにとって自由そのものだった」
- 『Revolutions on Granite』より敵軍を砲撃し祖国を守るための戦車も、スケーターにかかれば、自らの自由を目いっぱい感じ、トリックをするための最高のスケートスポットになる。
写真提供:Brendan Gilliam
スケートボードが手に入らなかった当時、外国人が乗るボードを盗むか、はたまた仲間と建物のドアを盗んでボードをつくるしかなかった。自作のボードは、ロシアのスケーターがハルキウ(※)のスケーターに秘密裏に教え、それがさらにキーウのスケーターに伝わったとされる。
キックフリップをすればたちまち折れてしまうような、「(作中のスケーターいわく)目を覆いたくなるくらい低クオリティーのボード」だったが、スケーターたちは新しい道具を手にするとすぐに独立広場へと向かった。見事なまでにフラットで、磨かれたガラスのような路面。あらゆる幅、長さ、種類の段差があった絶好のスケートスポットだった。
ブレンダンは、撮影のなかで知ったウクライナ独立以前のスケートカルチャーについて、作中では割愛した話も交えながら語ってくれた。
「オレの知る限りでは、スケートボードがウクライナに最初に持ち込まれたのは80年代のオデッサ(※1)だね。そこにバートランプがあったみたいでさ。ソ連時代はスケートカルチャーへのアクセスが禁じられていたけど、『鉄のカーテン(※2)』の隙間を縫う抜け穴はいろいろあったみたいだ」
写真提供:Brendan Gilliam
「ウクライナ西部ではポーランドからテレビやラジオを受信したり、ハルキウのスケーターがキーウに遊びに来て情報交換をしたりね。ちょっとしたスケートシーンの交流は生まれていた。ソ連崩壊のとき16歳だった『キーウのスケートボードの父』っていわれてるOGスケーターは、1983年からスケートをしていたようだしね。
キーウで流通していた『Extreme Magazine』ってDIYの雑誌もあって、トリックのコツだったり、『雨が降ったらここで滑れるぜ』みたいな情報から、『目の前でおばあちゃんが転んだら、オーリーで飛び越えろ』みたいことまで書いてあったらしい。雑誌のコピーを探したんだけど、これだけは手に入らなかったよ」
つけ加えると、1989年にアメリカで公開された映画『ローリング・キッズ(原題:Gleaming the Cube)』(※)もシーンに一役買ったそうだ。兄を殺した武器密輸組織にスケボーを使って復讐していく「チープなB級映画」だが、スケートのトリックも要所で見ることができ、『Revolutions on Granite』作中のあるベテランスケーターもこれを真似してトリックを覚え始めたのだという。
その後もウクライナはつねに戦争と政治的状況に振り回され続けるが、2014年、独立広場の意味合いは同国の歴史的な苦難を象徴する出来事によってまたも上書きされていく。
ウクライナ政府がEU加盟を直前に中止してロシアとの接近を図ったことで、独立広場を中心に反政府デモが起こり、機動隊との衝突、暴動に発展。多くの死傷者を出した結果、当時のヴィクトル・ヤヌコーヴィチ大統領が失脚してロシアへ亡命。新たな政権が発足する事態となったマイダン革命が起こる。
友達や意中の子とおしゃべりをし、酒を飲み、タバコを吸い、スケートをして遊ぶ若者が集うキーウの文化的メルティングポットは激しい社会運動の舞台となり、鎮圧部隊との衝突により息絶えた市民の遺体が横たわる場所へと変わった。ブレンダンは撮影中の出来事をこのように語る。
「ソ連崩壊後にスケートと出会って広場で育って、またも革命を体験したスケーターの言葉が忘れられない。広場の花崗岩を拾い上げながらこういうんだよ。『花崗岩の上でスケートをしながら育って、次はその花崗岩をバールとつるはしで砕いて壊す。機動隊に投げつけるため武器にするんだ。そんな奇妙な人生ってある?』って」
また作中で強烈な印象を与えるのは、カメラの前でこのようにつぶやくキーウのスケーターの言葉だ。
「悲劇が起こったことで、この場所でスケートできなくなった、スケートするべきじゃないって人もいる。でも忘れちゃいけないのは、ここが新しいウクライナを生んだ場所でもあるってことだ」
「スケートボードはクソみたいな世界から外に目を向けて、新しい世界を見せてくれる。バックグラウンドが違う友達にあって、街を違う視点で眺めて、この場所もスケボーによって新しい意味を持つようになった」
「スケートボードのかっこ良さは金じゃ買うことはできない。いくら金を持ってても5段のステア(階段)を360フリップで飛び超えること何てできないだろ? 血と汗を流し、痛みを経験することではじめて、新しい世界を手に入れることができるんだ」 - 『Revolutions on Granite』よりウクライナの人々は自由を自らの手で勝ち取り、育み、奪われるということを幾度も繰り返してきた。そしてそのたびにまた苦難と対峙する。キーウのスケーターたちの言葉は、彼らがまぎれもなく、その苦難と闘う意志を象徴する大きな存在であることを物語っている。
「ほぼ毎週、スケートボードのような新しい文化を快く思わない警察や大人たちとの衝突があった。でも、そのたびに言ったよ。『邪魔しないでくれ。お前がここに来るずっと前から、オレらはここでスケートをしているんだ』って」
「システムやおかしいことに対して逆らうことを教えてくれた、素晴らしいレッスンだった」
「スケートボードは、本当のスタイル、本当の美しさ、本当の真実を認識させてくれる。たとえそれがいかに巧妙に隠されていても、ゴミやナンセンスなものと区別することを教えてくれた」 - 『Revolutions on Granite』よりブレンダンは、スケートボードの美しさのひとつは、出自も考えも違う人々を平等な場所に置き、共通の価値観を育み、新しい世界を与えてくれるところにあると話す。
「スケートスポットは自己表現をするクリエイティブな発散の場であり、体を一心不乱に動かす肉体的な発散の場であり、外の世界に出ることで新しいものに目を向ける精神的な発散の場でもある。そして何より、楽しい。
何の役にも立たないし、どうでもいい存在だった、広場で5人程度の遊びから始まったスケートボードが一体どうしてブレイクダンサー、ローラースケーター、スケーター、ミュージシャン、多くの人が集まるコミュニティーを形成するに至ったのか。
それは、いままで考えもしなかったようなまったく新しい文化や世界観に触れて、リソースもないなかで自分で考えて物事を実現していく。そんなスケートボードのアイデアに取りつかれることが、彼らの環境に欠けていた『日常を楽しく過ごす方法』だったからだと思うんだよ」
ブレンダンは『Revolutions on Granite』の完成後、レジェンドスケーターであり、映画配給会社「Deluxe Distribution」を経営するジム・シーボーの協力を経て大量のデッキ(板)をウクライナへ寄付したことがあった。寄付を仲介した、ドイツでウクライナ難民にスケートスクールプログラムを提供するスケーターによれば、ロシアのウクライナ侵攻以降、スケボーを始める人々が如実に増えたのだという。
「信じられないかもしれないけど、キーウのスケーターたちは、戦争っていう狂った状況のなかでも『普通』の体験をするためにいまでもスケートに出かけてるんだよ。一時的にすべてを忘れて、何かに没頭したり楽しむ。そのためにスケートボードはこれ以上ない遊びだから」
ブレンダンは当初、ジャーナリズム性を帯びた作品を世に出すつもりはなく、ただただ正確に事実を描くことで、キーウのスケーターが納得して楽しめる「タイムカプセル」のような作品をつくりたかった。しかし完成後の上映から数か月で、作品の意味合いは大きく変わった。
政治的なドキュメンタリーに時間をさかないようなスケーターに見てもらいたいし、スケーター以外の人にも見てもらい、何かを得てほしいと彼は強く願っている。
「この作品の意味合いだけなく、当然ながら、スケーターたちの人生も一瞬で劇的に変化してしまった。しかも最悪な方向にね。一夜にして自分たちの国で戦争が起こり、近所で砲弾が飛んでいるんだよ。キーウで出会ったスケーターたちのうち、かなりの人数がキーウに残って街を守ってる。
実際に軍隊で戦っていて、いまでは安否がわからない友人もいる。叶うことなら軍隊にいったスケーターたちを追いかけて撮影し、安否を知りたいよ。
いま自分に何ができるのか、未だにわからない。ただ戦争について話すこと、戦争を無視しないこと、なぜ起こったのかを理解しようと努めることは大きなスタートなんじゃないかな。もしウクライナ人の友だちがいるなら、彼らと連絡を取り合ってほしい。自分たちが世界に存在するんだと知ることができるだけでも、大きな違いなんだ。
自分も最初はウクライナについて何も知らなかったけど、このプロジェクトをつうじてこの国の歴史やスケートボードの文化、人々の生活を深く知ることができた。彼らには感謝しかないし、心配で仕方ないよ。一刻も早く戦争が終わり、彼らの尊厳が取り戻されてほしい。最高のキーウに愛を。最高のキーウのスケートシーンに愛を。作品に関わったすべての人たちに心からの愛を、オレは送りたい」
Photo by Brendan Gilliam / ユニセフ「ウクライナ緊急募金」を見る(サイトを開く)、「UNHCR」支援サイトを見る(サイトを開く)