マンガ家が作品を発表するのに、経験豊富なマンガ編集者の存在は重要だ。しかし誰にでも“初めて”がある。ヒット作を輩出してきた優秀な編集者も、成功だけではない経験を経ているはず。名作を生み出す売れっ子編集者が、最初にどんな連載作品を手がけたのか──いわば「担当デビュー作」について当時を振り返りながら語ってもらい、マンガ家と編集者の関係や、編集者が作品に及ぼす影響などに迫る連載シリーズ。第6回で登場してもらったのは、白泉社キャラクタープロデュース部に所属する友田亮氏。克・亜樹「ふたりエッチ」や羽海野チカ「3月のライオン」など、ヤングアニマル(白泉社)のヒット作品を手がけた編集者だ。
【大きな画像をもっと見る】取材・文 / 的場容子
■ しりあがり寿&祖父江慎と作った1冊目「カモン!恐怖」
友田氏は1992年に白泉社に入社。その年の5月に月2回刊のヤングアニマルが創刊となり、入社早々配属となった。新人研修が明け、最初に担当したのはサブカル界のスーパースター、しりあがり寿だった。
「当時の副編集長だった高木さんから引き継ぎました。その頃、しりあがりさんはまだ兼業作家で大手ビールメーカーにお勤めでしたね。原宿の洋食屋さんでよく打ち合わせしていました。当時、どちらかというと僕は少年ジャンプが大好きなタイプで、そこまでサブカル好きではなかったので、しりあがりさんのことは知っていたんだけど全体的に勉強不足だった。お会いして打ち合せはするんだけど、とんちんかんなアイデアを出して『そういうネタは昔いっぱいやったんだよなー』みたいなことを言われちゃったり(笑)。要するにダメダメだったわけです。ただ、しりあがりさんはものすごくよい方で、『新入社員なんて最初はこんなもんだろう』って感じで大きな心で接してくれたんだと思います」
創刊号から始まった連載は、「カモン!恐怖」というタイトルで1993年に単行本にまとまっている。しりあがりにとって5冊目の単行本で、ホラーをテーマにバカバカしくエキセントリックなギャグ作品が集結した、著者も大好きな一冊だ。「恐怖ものでギャグをやる」というコンセプトは最初から決まっていたという。
「連載時は『恐怖のマト』というタイトルだったんだけど、単行本にまとめるにあたり『カモン!恐怖』になりました。勉強になったのは、デザインが上がってきたときに『装丁でこんなに変わるのか!』とびっくりしたことですね。装丁を担当してくれたコズフィッシュの祖父江(慎)さんがすごく一生懸命やってくれたんですが、祖父江さん自身もすごく個性的な方で、話をしていて面白かった。もう30年くらい前の話ですが、今思い出しても自分は勉強不足だったので、本当にまわりの皆さんがよくやってくださったなあと感じます(笑)」
■ 読者ハガキが縁をつなげた浅井裕「2人とも同じ絵を描けるんで」
同じ頃、作家への声掛けから含め、初めて自分で一から企画した作品も動き始めていた。1980年代からコロコロコミック(小学館)などで活躍していた浅井裕の「マーメイドガール」である。高校生男子と人魚の恋愛を描いた、王道のお色気ラブコメディだ。いわゆるハーレム設定のストーリーで、今では成年コミック以外ではあまり見かけないが、女性登場人物の乳首がけっこうな割合で衣服の上から透けており、時代の空気感が生々しく蘇る作品だ。
「当時のヤングアニマルって根本的に作家さんが足りなかった。それに、月2回刊で雑誌を出さないといけないのに、2号先の台割が3分の1くらい空いてる状態だったので、とにかく埋めていかないといけない。そして、しりあがりさんみたいなギャグマンガに加えて、僕もストーリーマンガをやりたいと思っていた。
編集部の新人は読者から届いたハガキの整理やアンケートの集計をするのが常で、アニマルでも当時一番下っぱだった僕の役目でした。そこに浅井さんがハガキを送ってきてくれて。名前はちょっと違ったけど、職業も『マンガ家』とあって連絡先も書いてあったので、電話してみたんですよ。当時浅井さんは、リイド社のコミックジャックポットという隔週のマンガ誌で『星の数だけ抱きしめて』というラブコメを連載していて、僕はそれを読んでいたんですね。
打ち合わせの場に行ったら、意外にも現れたのは女性でした。『女性の方が描いてるんですか?』と聞いたら『夫婦2人、同じ絵を描けるんです』と言う。月イチなら描けるかも、ということで連載が始まりました」
作家からの読者ハガキがきっかけで連載が始まるとは珍しいパターンだ。
「作家さんの連絡先って、今みたいにInstagramやTwitterを通じて聞けるわけじゃなし、誰も教えてくれないし、入手するのが本当に難しかったんですよ。だからどんなに細いツテでも頼らないと会えないんですよね」
浅井は、現在は夫の「あさいもとゆき」と妻の「浅井裕」で筆名が分かれてクレジットされることが多いが、当時は2人とも「浅井裕」名義で執筆していた。
「90年代のエロマンガ事情について書いた本を読んでいたら、『マーメイドガール』を描いていたのは奥さんじゃなくて夫のもとゆきさんだったと書いてあって。もとゆきさんは対人関係が苦手だったので、対外交渉は奥さんに任せていたと。だから、結局描いている本人とはまったく打ち合わせができずに始まって終わったことになる(笑)。連載が終って10年くらい経ってから、もとゆきさんのことを知ったわけだから、まあ成功するには程遠かったんだなあと思います。
今回の取材を受けるに当たって『マーメイドガール』を久しぶりに読み返してみましたが、恥ずかしくてまともに読めなかった(笑)。若かったからしょうがないと思うんだけど、わかりやすすぎるよね」
その後、マンガ界の最先端をひた走ることになる友田氏にとって、超初期に担当した作品たちは甘酸っぱい思い出なのかもしれない。
「でも後悔があるわけじゃなくて。当時としては一生懸命やっていたし、自分の中ではあれ以上できなかった。しりあがりさんに関しては、大手ビール会社勤めの超一流サラリーマンだったので本当に時間がなくて、打ち合せも土日くらいしかまともに時間取れなかったんですよね。しいていえば、そこが後悔が残る点かな。だけど、今でも会えば親しくお話はできる関係なので、若かりし日にお世話になったことを感謝している存在です」
■ マンガを描くのってこんなにめんどくさいんだ!
さらに編集者人生において大きな影響を受けた担当作を2作品教えてくれた。まずは、1994年に発売されたあろひろし「無敵英雄エスガイヤー」。
「あろさんはもともと子供の頃から好きで、学生時代も『面白いギャグマンガを描く人だなあ』と思いながら、ずっと読んでいた作家さんなんだよね。僕が新人の頃は、月刊少年ジャンプで『ふたば君チェンジ♡』を連載したり、徳間書店でも描いていた。うちでもぜひお願いしたいと思って、当時、マンガ家の連絡先を集めた名鑑が出ていたので、そこに載っていた電話番号にかけてみたんです。そうしたら『はい、スタジオぱらのい屋です!』ってものすごい明るい声であろ先生ご本人が出て。当時あろ先生は、忙しくてこちらのオファーを受ける余裕はなかったんだろうけど、ヒーローものをぜひ描いてほしいという話を誠心誠意したところ、じゃあまずは読み切りで、と受けてくれました」
そんなきっかけで始まった「無敵英雄エスガイヤー」。どこにでもいる男子予備校生が、無敵英雄エスガイヤーに変身、3人の美女の力を借りて宇宙害虫と戦うというストーリーだ。主人公の名前は、なんと“友田涼一”。あと一歩で“友田亮”だ。
「なぜこの名前になったかというと、エスガイヤーになるのは地球上の任意の1人、誰でもいいわけです。あろさんと『じゃあ“友田亮”でもいいじゃん』という話になって(笑)。当時の編集長には『編集の名前がキャラとして出てくると、作品に甘くなるからよくない』とも言われたんだけど、意図と設定を説明したら、『じゃあ友田の名前そのままの“亮”じゃなくて“涼一”にしよう』となりました。
あろさんはとにかく原稿が遅くて(笑)。『ふたば君チェンジ♡』の担当さんも、単行本のおまけページでいかにあろ先生が遅いかというエッセイを書いていて、自分も大変だろうなって思ってはいたんだけど──どうも話を聞くと、あろさんは、1話分のネームは作らないと言うんです。じゃあどうやってマンガを描いてるんですか?と聞いたら、『原稿を1枚1枚描く』というんですね。ネーム兼下描きを描いて、そこにペン入れして原稿にする。それが終わったらまた真っ白い紙を前に考える──その繰り返しで。
ネームを事前に確認できないわけだから、こちらとしては怖いですよね。連載ならまだいいけど、初回は読み切りでモノクロ28枚の約束だったから、(28枚で)終わらなかったらどうしようという恐怖感があって(笑)」
ネームが作家の頭の中にしかない。ある程度枚数の自由がきく描き下ろし作品ならまだしも、ページ割がきっちり決まっている雑誌だ。いくらベテラン作家の作品とはいえ、ライブのようにぶっつけ本番で仕上がっていく原稿をそばで見ている新人編集・友田は、気が気でなかったであろう。
「ただすごく勉強になったことがあります。会社で仕事が終わってから、あろ先生の仕事場にお邪魔して、描いているのを見ていたんですよ。アナログ原稿ってどう描くかっていうと、まずネームを描いて、それを原稿用紙に写して鉛筆で下絵を描くんだよね。枠線を描いてペン入れをして、鉛筆の線を消すために消しゴムをかけて、背景を入れて……という一連の作業。僕は入社して1年くらい経ってこの読み切りを担当したんだけど、実はマンガを描いてる現場を見たのってこれが初めてだった。それで『マンガってこんなにめんどくさいんだ!』というのを思い知って。たとえ読み切り1本でも、飛行機の機内の背景を描くために、映画の1シーンを一時停止してアシスタントたちと相談しながら先生が描いているのを見て、マンガを描くことの大変さ、すごさを実感しましたね」
今ではマンガもデジタルでの作業が主流だが、アナログ原稿の大変さ、工程の多さは経験がなければわからないだろう。まだ新人の友田氏にとって、あろの仕事ぶりを観察できたのは貴重な経験となった。一方、ストーリーに関する打ち合わせはあまりなかったという。
「ヒーローもので行こうというコンセプト以外、打ち合わせはほとんどなかったですね。特にあろさんはしっかりストーリーを作る方だし、ベテランで本格的なSFもよく描いていたので、編集者の意見がストーリーに影響することはなかったと思う。結果的に『エスガイヤー』は1冊完結だけどよく売れたよね。ビジネス的にも成功して、できれば2、3と出したかった。だけどあろ先生のスケジュールもなかなか取れなくて1冊ぽっきりになってしまいました」
■ 月の残業268時間、新谷かおる「砂の薔薇」
友田氏が新人時代に大きな影響を受けた担当作2作目は、新谷かおるの「砂の薔薇」。新谷は、松本零士のアシスタントを経て代表作「エリア88」で注目を集めた作家で、精緻なメカニック描写を駆使した戦争ものに定評がある。「砂の薔薇」はテロで子供を奪われた女性が反テロリズム組織のメンバーとして活躍するハードアクションで、ヤングアニマルの前身である月刊アニマルハウス時代から連載されていた。
「これはすさまじく大変だったね。担当になったのは入社して1年経ってからなんだけど、ともかく新谷さんはべらぼうに遅い! 毎回金曜の朝が締め切りだったんだけど、前任の編集担当は火曜日くらいから会社では姿を見なかった。新谷さんのところに泊まり込んでずっと見張ってるんですよ。まあ、見張ってても描かないんだけど(笑)。
とはいえ、新谷さんはすごい人。当時僕はまだ24くらいで、先生が40代前半くらいだったけど、とにかくいろんなことを知っている。政治情勢からマンガ界の噂話までなんでもかんでもよく知ってて、しゃべり出すと止まらないし面白いし、『この人とずっと話をしていたい』って思っちゃうんだよね。ところが、仕事となると一切進まない。『次の回はこんな話でさ……』って説明されるとすぐに上がりそうな気がするんだけど、できないと。ともかく鍛えられたね。
その頃、1年目だけど『砂の薔薇』に『エスガイヤー』『マーメイドガール』『カモン!恐怖』も持っていたので、5本くらい担当していて。だから、火曜の夜までにほかの仕事を終わらせて、そこから新谷さんの家に行って終わるまで泊まる。そういう生活でした」
聞くだに過酷である。都合、火曜から最短金曜まではずっと新谷邸に泊まり込んでいたわけだ。
「でも実際は合宿みたいで意外と楽しくて(笑)。あるいはお祭りというか、僕にしてみれば修学旅行みたいな感じだったんですね。自宅兼仕事場に編集が寝られる泊まり部屋があったんだけど、そこにいると新谷さんが降りてきて、『ネームできましたか?』と聞くと『できてねえよ!』『ちょっとラーメンでも食いにいかねえか』って(笑)。先生はいろんな車を持っていて、『どれがいい』って聞くから、『じゃあこれでいきましょう』とか言いながら2人で出かけたりして、楽しかったんだよね。こちらの話もすごく聞いてくれたし、物知りだし、すごく気が合った。年も離れていたけどすごくかわいがってもらって、『マンガ家ってこういうふうにものを考えるんだ』と勉強になりました。
だからと言って原稿が早くなるわけではなく、毎度毎度間に合わなくて凸版(印刷)の板橋工場まで届けに行ったり。ほとんど先生の家に泊まり込んでるから、会社で勤務表に『9時半~33時』とか書くこともざらで……。一番残業した月で、268時間くらいだったかな(笑)」
今なら労働基準局がすぐさま飛んできそうな勤務時間だ。ほとんど1カ月間、まるまる仕事しているような状態だったのだろう。
「いろんな意味ですごくお世話になったなと思います。なにより、度胸がついた。ちょっとやそっと遅い作家さんにはびびらなくなった。例えば、今担当している羽海野チカさんも早いわけじゃないけど、僕にしてみれば羽海野さんは見てなくてもちゃんと描くから。新谷さんは目の前で見てても描かなかったんで(笑)、そういう意味では腹が座ったよね」
「どうあっても原稿が上がらない」という極限状況を、新人のかなり早い時期に経験し、印刷所とも相当やりあったという。「今は木でできたバターナイフみたいな人間になってしまったが、昔はジャックナイフのような男だった」と笑う友田氏の、熱い編集者時代である。
「当時、寝た記憶がない。家に帰ると気絶するように倒れて、起き上がってまた仕事に行く。そんな生活の中でも、本はよく読んでいましたね」
■ 羽海野チカには勝負もの、克・亜樹にはセックスシーンを
さまざまな作家との経験を経て、編集者として成長していく友田氏。2007年、羽海野チカがヤングアニマルで「3月のライオン」の連載を開始したとき、執筆の場が女性向け雑誌から青年向け雑誌に変わったことはマンガ好きたちの話題の的だった。立役者は友田氏で、美大を舞台にした青春劇「ハチミツとクローバー」で世間を魅了した羽海野に、まったく異なるテーマ──「将棋やボクシングなど、一対一の勝負モノを描くといい」と持ちかけたところに、とてつもない閃きを感じる。このテーマをぶつけた理由を聞いた。
「結果論ということで、たまたまうまくいった例でもあると思います。羽海野さんほどの力量を持った人であれば、ほかのテーマでもうまく描いたと思う。ただ『ハチミツとクローバー』を読んでいて、羽海野さんは群像劇がうまい人だなと思っていて。主人公のはぐみちゃんがうまく絵が描けなくて絵の前で泣いているシーンがあるんだけど、それを凡人である竹本くんが見ていて『神さま やりたい事があって泣くのと みつからなくて泣くのでは どっちが苦しいですか?』っていうモノローグが入るところが、僕は『ハチクロ』で一番好きなんです。この子は絵と“格闘”しているんだな、と思った。
恋愛に関する部分も面白いんだけど、むしろ僕は、人としてなさねばならぬことがある、という命題について描いているところに胸を打たれて。『この人は勝負物を描けば、ひょっとしたらすごいものになるかもしれない』と思いました。あとは自分が将棋をやっていたことと、『ヒカルの碁』がとても好きでよくできた話だなと思っていたので、碁にこんな素晴らしい話があるなら将棋でも作ってみたいなと思っていました」
編集者の重要な仕事の1つに、作家自身が思いもよらなかったテーマを持ちかけてマッチングさせるという役割がある。料理で言えば、和食では普通使わない食材とスパイスを組み合わせることで、未知の味わいが生まれることがあるのだ。組み合わせのコツはなんだろう。
「作品を読んだときに、『俺だったらこうするのに』という意識を持っているといいかも。例えば僕は中高生のときから克・亜樹さんのマンガを読んでいて、すごく絵が華やかなんだけど、妙にストーリーをずらしちゃう人だなと思っていた。『恥ずかしがらずに描けばもっといいのに』ということを、その頃からなんとなく思っていて(笑)。で、実際に自分が担当になって話をしてみたら、この人は照れ屋さんなんだというのがわかった。だったら、照れようがないセックスっていうテーマを持ってこようと思ってできたのが『ふたりエッチ』です。
あとは、過剰にストーリーは入れないこと。セックスシーンってアクションシーンと同じで、ストーリーが進まないんですよ。16枚の連載の中に6、7枚セックスシーンが入ると、その分話は止まるわけですよね。克・亜樹さんはサービス精神旺盛だから、ついついいろんなストーリーを入れちゃう。だけど、これはセックスのお話だからそちらがメインであって、そのほかの細かい話はメインじゃないんですよ、という感じでお話を持って行ったのはよかったかもしれないね」
なるべく作家が向き合いたくない部分に、あえて正面から向かわせる。慧眼であるが、話の持っていき方にも工夫がいったことが想像される。「王道」の大事さも語ってくれた。
「克・亜樹さんや羽海野さんや新谷さんも含め、結局作家さんって、あまのじゃくだから人と同じことはしたくないわけです。でも人と同じことをしないと、そこは読者も含めた『誰もいないゾーン』になっていく。だから王道をしっかり描いたほうがいい例は実はけっこういっぱいあるんですよね。テンプレは同じかもしれないけど、描き手さえ違えば個性的に見える。でもみんなそのテンプレを使うのは嫌がる。そこをどう作家さんを嫌がらせずに、『個性的で面白いですよ』とうまく伝えるか、が大事だと思います」
■ 編集者はクリエイターではない
勝機はニッチなゾーンではなく、王道にこそある。友田氏の哲学の1つに触れた気がした。作家も、編集者に信頼を置いているからこそ意外な提案も受け入れることができるのだろう。友田氏には作家に信頼されるために、大事にしていることがある。
「注意深くあることです。例えば、先生の仕事場に行ったとして、片付いているのか、いないのか。郵便物は、薬は、本は整理されているか。ぴちっと整理されている人は几帳面だし、ぐちゃぐちゃの人は頓着しないタイプだよね。いつも几帳面な先生のトイレがきれいでなければ、トイレ掃除に手が回ってないくらい忙しいんだなって想像がつく。あとは、着てる服。男だと、いつも同じ服の人も多いけど、それは服を買いに行く暇がないのか興味がないのか──こんなふうに、作家さんの人となりや状態は、いくらでも目の前から情報収集ができていくわけです。
それをひたすら自分の中に貯めていって、『この人はこういう人なんじゃないか』と想像する。その人物像に基づいて会話したときに、違うなと思えば修正していけばいい。信頼関係を得るのは実は簡単というか、相手を注意深く見て、やってほしいと思ってることをスッと差し出すようにすると、段々と関係はよくなっていくんです」
恋愛のテクニックにも通じる気がする。注意深く観察し、状況を察し、相手の望みを叶えてあげる。そして、シャーロック・ホームズのような優秀な探偵のようでもある。
「ホームズとワトソンの会話でよく出てくるのが、観察力の差の話。ホームズは常に観察していて、階段が何段あったかまで数えている。ワトソンは『そんなことどうだっていいじゃないか』と言うけど、ホームズは『いつか役に立つかもしれないじゃないか』という姿勢。この注意深さの差なんです。若い編集者やライターさんって、作家とはマンガの話さえしてればいいって思ってるんだよね。だけど、僕は羽海野さんとマンガの話ってほとんどしないよ。極端な話、お話を考えるのは作家さんであって編集じゃないから。
ストーリーに関して編集者がやれることはたかが知れていて、10のうち2をやれれば大したもんだよね。だって絵も描けないし、お話も自分が一から作っているわけじゃないし。そうなると、その人が普段どういうことを考えながらストーリーを動かしているのかを聞いていったほうが、編集の役割においてはよりスムーズで、合理的だと思う」
作家との会話では、マンガの話よりも重要なことがある──目から鱗だった。そんな友田氏と羽海野との最近の会話は。
「先日会ったときは、羽海野さんがコミケに出した本の作業がいかに大変だったかという話を聞いていました。特に女性の作家さんには聞く耳を持つのが一番だと思います。傾向として、男性の作家さんは提案を待ってるんだけど、女性の作家さんは提案を待ってないんだよね。話を聞いて共感することが重要です。それに、話す内容は雑談8割、マンガ2割くらいでいいと思う。
はっきり言うと、僕はマンガの話があんまり好きじゃないんだよね(笑)。もちろんマンガを読むこと自体は好きですよ。でも自分の思ったとおりにはならないし、『俺ごときが考えた話でウケるかよ』という思いもあって(笑)。それよりも、目の前に座っている作家のよい部分を、最大限どれだけ引っ張り出せるかが大事なこと。だから、『編集者はクリエイターではない』ということを編集者がわかっていると、あんまりマンガ家さんともめずに済むと思います」
■ 苦しみと同居するのが天才なら、天才なんていないほうがいい
編集の仕事をしていると、クリエイティブにおける線引きが難しくなる瞬間がある。作家の創造領域にどの程度立ち入るのか、立ち入らないのか。この発言はネタ出しの範疇に収まるのか、口を出しすぎているのか……。編集者によって、作家によって、作品によって方針や境界はさまざまで、正解はない。入社以来、30年を編集に費やしてきた友田氏の言葉は潔かった。そんな氏の“面白い”の定義は、徹底した個人の主観にあった。
「結局、自分が面白いか面白くないかだね。読んでみて面白いと感じれば面白いし、どんなに売れていても、読んでみて『これがウケる世の中、俺は好きじゃねえな』って思うものもある。全部主観。ただ主観だけだと、世界中で僕がただ1人面白いって言っててもしょうがないので、売れてるかどうかがバロメーターで、主観のパラメーターを調整する。編集者は基本的には自分が面白いと思ったものを信じて、世の中的にウケていても、僕は違うなって思ったら別の答えを出せばいいと思います」
自分だけのパラメーターと、世間のバロメーター。うまく折衷していくバランス感覚は編集者なら誰もがほしいところだ。そんな友田氏は数多くの“天才”を目にしているはず。身近な天才について聞くと、日々作家を陰に日向に支えている編集者ならではの、実感のこもった言葉が返ってきた。
「新谷さんも羽海野さんも『すげえ!』って思うんだけど、たぶん、彼らは天才と言われるのを嫌がるんだよね。それ以上に努力家なんですよ。羽海野さんに関して言えば、どれだけのものを犠牲にして、どれだけ苦しんでマンガを描いているか目の前で見ているから、簡単に『天才はすごいな』なんて言えないんですよね。ずっとつらい作業をしているので、彼女のまわりにいる編集の中で唯一僕だけは、『いつ引退してもいいですよ』って言っているんです。つらいことに耐え続けなくてもいいよ、って。ただ、羽海野さんってものすごいネームを出すじゃないですか? だから『もうちょっとだけ続けてもいいんじゃない?』って話はするけど(笑)。──ただ、苦しみと同居するのが天才だとするのならば、あんまり天才はいないほうがいいと思うよ」
■ マンガの未来、見開きと縦スクロール
「苦しみと同居するのが天才なら、天才なんていないほうがいい」──図らずも、羽海野チカの作品テーマそのままのような名言が飛び出した。友田氏が今所属している部署は、キャラクタープロデュース部。力を入れているのは、縦スクロール作品のヒット作を生み出すこと。
「キャラクタープロデュース部の場合、電子が主戦場なので、基本的には見開きよりも縦スクロールの作品をうまく活かすことができればいいなと思っています。僕は、見開きマンガは『鬼滅の刃』がなければあと5年くらいで終わりだって思っていたんです。『鬼滅』のヒットのおかげで、小学生がマンガを読む方法論を身に着けたと思う。世界に広げて話をすると、世界でマンガが流行ったことって実はなくて、本当にウケているのはマンガ原作のアニメなんだよね。
これから、見開きマンガはなかなか難しいかなと思います。日本の人口が減って縮んでいく中で、極めてガラパゴス的で、日本だけが市場の見開きマンガだけに注力していていいのかと思っていて。世界では縦スクロールが主流になってくると思うので、ものすごく努力した作家や天才が出てきて、縦スクロールの大ヒット作品を作ってくれるかもしれない。そうした作品を出す下地を、韓国や東南アジアではなく日本で作っておければと思います」
見開きのマンガにどっぷり親しんだ世代としては希望を持ちたくはある。そして、この日本で、数々の見開きマンガのヒット作を世に送り出してきた友田氏の口から出た言葉としてはとても意外だったが、危機感のきっかけは、とても身近なところにあった。
「うちの息子が今11歳なんですが、『鬼滅の刃』の最終回が載った少年ジャンプが三省堂神保町本店に平積みになっているのを見て、『何これ?』って聞いてきたんだよね。『ジャンプに「鬼滅の刃」の最終話が載ってるんじゃない?』って言ったら『ジャンプって何?』って言われて……リアルな小学生の声って、もうそんなもんなのよ(笑)。そのくらい、紙の雑誌ってすでに若い世代に認知されていない。だから、これから新しいメディアや見開きマンガをやるなら、より覚悟を持って、より先鋭的なものをやっていくしかないと思います」
時代は刻々と移り変わっている。いつか、しびれるほど面白い縦スクロール作品を読めるのが楽しみだ。最後に、若い編集者に向けてエールをもらった。
「長く編集者をやっていると、『ふたりエッチ』や『3月のライオン』のようにうまくいった例もある。だけど、失敗作も山のように経験してきているわけです。ただ、失敗したところで命を取られるわけでもない。若い人は後から後悔しないように、恐れずにばんばん挑戦してほしいですね。例えば、最近自分が後悔した例を出すと、『二月の勝者』をうちから出せなかったこと。ちょうど息子が中学受験の準備を始めるとき、作者の高瀬志帆さんが中学受験について描いたマンガを読んで感嘆していたのに、僕は声を掛けなかった。掛けても描いてはくれなかったかもしれないけど、『この人うまいなあ』で終わってたんだよね。
昔の自分、20代、30代前半の僕だったら連絡先を探して、『中学受験ものを僕と一緒にやりませんか』って声を掛けていたと思う。それをやらなかったのは本当に後悔が残る。そうした経験を踏まえて、とにかくフットワークを軽くして、失敗なんか恐れずにチャレンジしていってほしいです」
■ 友田亮(トモダリョウ)
1992年に白泉社に入社。同年創刊のヤングアニマル編集部に配属。ヤングアニマル嵐編集長、花とゆめ編集長を経て、ヤングアニマルのある第三編集部部長を務めた。現在は白泉社キャラクタープロデュース部部長。主な担当作品に新谷かおる「砂の薔薇」、克・亜樹「ふたりエッチ」、羽海野チカ「3月のライオン」など多数。