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『チェンソーマン』は現実と戦う漫画だーージャンプ大好き評論家3名が「第二部」を語り尽くす

2022年10月13日 07:01  リアルサウンド

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 2022年10月11日より、いよいよTVアニメの放送がスタートした『チェンソーマン』(藤本タツキ)。本作は、「週刊少年ジャンプ」にて、2019年1号から2021年2号まで連載された作品で、完結後は2022年7月より「少年ジャンプ+」にて第二部という形で続編の連載をスタートさせた。


参考:『チェンソーマン』は本当に“愛の物語”だったのか? ジャンプ大好き評論家3名が討論


 人気マンガの続編はときに物議を醸すが、『チェンソーマン』の大ファンだと公言する3名の論客は第二部に何を思うのか? ドラマ評論家の成馬零一氏、書評家の倉本さおり氏、アイドル専門ライターの岡島紳士氏が語り合う。


第二部は藤本タツキの完全最新作?


成馬:第二部は、主人公のデンジが中々、出てこないことに驚きました。第一部から引き続き登場している主要キャラは吉田ヒロフミくらいで、舞台も違う。だから、別のマンガを読んでいるみたいだと戸惑うと同時に、これが許されるのが今の藤本タツキの立ち位置なんだなぁと思いました。


 第一部が終わって、藤本タツキ先生を巡る状況が大きく変わりましたよね。「Rolling Stone Japan」や「SWITCH」などの雑誌で藤本タツキ特集が組まれるようになって、漫画家という枠を超えて、現在、最も注目すべき旬のクリエイターという扱いになっている。これは『チェンソーマン』の成功だけでなく、第一部終了後に発表した『ルックバック』、『さよなら絵梨』、原作を担当した『フツーに聞いてくれ』(漫画:遠野おと)といった短編がSNSでバズって高く評価されたことが、大きかったと思います。『チェンソーマン』までは、どちらかというと、作品に対する注目度が高かったと思うんですよ。でも『ルックバック』以降になると、藤本タツキ先生が次にどんな漫画を描くのかに注目が集まっている。その流れを受けて第二部がスタートしたので、『チェンソーマン』を読んでいるというよりも、藤本タツキ先生の最新作を読んでいるという感じです。


倉本:『ルックバック』は、社会現象とまではいかないかもしれないけど、普段あまりマンガを読まない層からも注目されていましたよね。


成馬:マンガファンの間でも、『チェンソーマン』が好きな人と、『ルックバック』や『さよなら絵梨』を好きな人って、読者の好みに少しズレがあると思うんですよ。『チェンソーマン』までは、ギリギリ「週刊少年ジャンプ」に掲載されている少年漫画が好きな人が読んでいるという印象でしたが、『ルックバック』や『さよなら絵梨』は、同じ漫画でも純文学的な世界ですよね。この二作は表現者の苦悩を描いた作品だったので、作者の藤本タツキ先生が何を考えて描いたのかを考察しながら読まれていたし、逆にそういうSNSでの過剰な読みに対する牽制として『フツーに聞いてくれ』が描かれたようにも見える。


 作品を通して作者と読者が対話をする中で独自のファンコミュニティが生まれていく様子は、それこそ太宰治などの文学作品の読まれ方と近いのかなぁと思います。そんな『ルックバック』や『さよなら絵梨』を経てからの第二部だったので、純文学的な作品になるのか、エンタメ寄りになるのか、今後の展開が気になります。


岡島:第一部が終わって第二部が始まるまでの間、日本社会でおかしなことがどんどん起こって行きましたよね。コロナはもちろん、戦争や暗殺も。その影響がどのように出るのかにも興味があります。「チェンソーマン」の第一部では、主人公のデンジ君が「ただ普通の生活を望む」貧困層であることで、日本の現在性を描き、物語にリアリティーを与えていたので。


成馬:第二部には「戦争の悪魔」が登場し、第一部の「支配の悪魔」に続き、ヨハネ黙示録の登場する四騎士が大きなモチーフとなりそうですが、支配、戦争、疫病、飢餓と、今のところ、飢餓以外は全部、現実化してますよね。物価の値上げも進んでいるし、世界規模の食料危機も噂されているので、飢餓もそう遠くない未来なのかもしれない。


岡島:もし第二部が、第一部のあと時間をおかずにすぐ始まっていたら、また意味合いが全然違っていたと思うんです。現実世界で前述のようなことが起こり続けているからこそ、今回のような第二部の始まり方になったのかなと。夜のシーンが多くて、画面が暗くて不気味な感じで……。今の世の中の動きと相まって不穏ですよね。あと第二部では、視点がアサと戦争の悪魔(ヨル)から始まります。女の子2人でどこか『ルックバック』の主人公2人の関係性を感じさせるうえ、1話のデンジとポチタの対比構造にもなっているんですよね。でも、そういう明らかなことを藤本タツキ先生にやられると、これは全部後で壊すためのフリなんじゃないなかなって思ってしまいます(笑)。他にも、支配、戦争、飢餓、死……をテーマに、第四部までやるのでは?という予想をしているファンの方もいるみたいなんですけど、そんなことは全くなく、あっけなくみんな死んでしまうんじゃないかなって。


成馬:第二部は7月8日に起きた安倍晋三元首相銃撃事件から5日後の7月13日に連載が始まったじゃないですか。あの時はTwitterのタイムラインがとにかく荒れていて、暗殺、カルト教団、コロナ、ロシアによるウクライナ侵攻の状況といった物騒なキーワードがトレンドとして並んでいたのですが、いっしょに『チェンソーマン 第二部』や“田中脊椎剣”といった言葉が混ざっていたのが印象深かった。Twitterを見ながら「現実と戦ってるなぁ」と思ったんですよ。ひどい現実に拮抗する、ひどい表現をぶつけてるというか(笑)「戦争の悪魔」を登場させる時点で読者は、ウクライナ侵攻のことを連想するわけで、第二部はすごい戦いに挑んでいるなと思いました。今の時代ってフィクションよりも現実の方が圧倒的に酷い状況なので、中途半端な表現をすると、すぐに現実に呑み込まれてしまうじゃないですか。そんな中で『チェンソーマン』はまだ、ギリギリのところで戦えている。だから今回の『チェンソーマン』の敵って「日々悪化する現実」で、本編の裏で藤本タツキ先生の現実との戦いが毎週起こっている感じがして、面白いですよね。


物語を多角的に見る、続編の描き方


成馬:10月からの放送に向けて、アニメ『チェンソーマン』の告知をよく見かけるようになりました。ネット上では「誰が声優をやるのか」「誰が主題歌を担当するのか」といった部分でも注目されていて、マンガ読みだけではなくアニメファンの関心も高まっている。以前の対談で、岡島さんが“藤本タツキ先生が作る状況も含めて作品”と仰っていましたが、第二部では悪魔と戦うチェンソーマンをめぐる大衆の様々な反応が描かれていて、作品や藤本タツキに対するSNSの反応自体が、作品の中にフィードバックされている。「ジャンプ+」で水曜日に第二部の最新話が配信されると、すぐにみんなが作品を読んで、感想を呟いたり、考察動画を上げているわけですが、そういった情報のうねりも含めて楽しんでいる人がたくさんいるので、下手をすると「週刊少年ジャンプ」以上に訴求力がありますよね。


岡島:SNSでいかに話題になるか、トレンド上位に入るか、というのが、今のエンタメコンテンツが“売れる”ことのキモになってますよね。「ジャンプ+」に連載されバズりまくった『タコピーの原罪』(タイザン5)なんて、現代版トレンディードラマ&ジェットコースタードラマみたいで、ショッキングなことが毎回起こって、バズることに特化した内容になっていました。ネットですぐに無料で読めるんだから、本誌よりも「ジャンプ+」の方がバズりやすいし、“バズ”が重要とされる現在において、「ジャンプ+」の存在感が増してくるというのは、まあ当然という感じではありますよね。


倉本: 「週刊少年ジャンプ」といえば、『ルリドラゴン』(眞藤雅興)が“ジャンプらしからぬ新作”として、話題になっていますよね。一方で、「ジャンプ+」では『正反対な君と僕』(阿賀沢紅茶)というラブコメが話題になっていて。私自身ラブコメはこれまであまり好んで読むタイプの作品ではなかったんですけど、『正反対の君と僕』にはめちゃくちゃハマってしまいました。読み進めていくと『ルリドラゴン』と『正反対な君と僕』って通ずるものがあるんですよ。例えば、「拳で語り合う」系の非言語コミュニケーションと違って、登場人物たちがあらゆる場面で言葉でコンセンサスをとることが重要視されている点とか、それぞれのキャラクターや関係性が主人公ひとりの物語に収束しない点とか。そうした点で最近のジャンプの方向性の流れは汲んでいるのかなという印象を受けました。そこで『チェンソーマン』の第二部を読んで思ったことなんですが、『進撃の巨人』新章では主人公のエレンが登場しないところからスタートしたじゃないですか。つまり、物語を一方向だけから見た描き方をしない、みたいな最近の路線を行っているのかな、と。藤本タツキ先生がというよりも、近年の作品全体のトレンドかもしれませんが。


成馬:『東京喰種』(石田スイ)も続編の『東京喰種トウキョウグール:re』では視点が大きく切り替わりましたよね。確かに登場人物を増やして多角的な視点から描くというのは最近のフィクションの流れかもしれない。


倉本:第一部では、悪魔に恐怖すればするほど、その悪魔は強くなるという設定がありましたよね。それに対して、デンジは思考がぶっ飛んでいるから、そもそも恐怖することがない。だからめちゃくちゃ強いという展開だったけれど、第二部に登場する戦争の悪魔は、恐怖ではなく罪悪感を抱かれるほど強くなっていくという……。罪悪感ってまともな人の方が抱きやすいから、ぶっ飛んでいればいるほど強いチェンソーマンと、まともであればあるほど強くなる可能性がある戦争の悪魔は、対比的で面白いなと思いました。あと、第一部と第二部では世界観がそんなに変わらないのかもしれないけれど、学校が普通に存在していることに驚きましたね(笑)。


成馬:ただ一方で、学校に通っている子たちのほとんどは、両親が悪魔に殺されてるんですよね。101話では、政治家が街頭で以下のような演説をします。


「私の周りには20人ほど話を聞いて下さる人達がいますが、この中で老衰で死ぬ事ができるのは5人のみです 残りの5人が病気で死に 1人は交通事故 1人は人間に殺され もう1人が自ら死を選びます そして残り7人が悪魔に殺されるのです…! <チェンソーマン二部 第101話より>」


 このセリフに登場する数字は、生々しいなと思いました。悪魔の部分をコロナに置き換えて読むこともできるし、通り魔的な犯行で命を落とす人の数にも聞こえる。「死」がすごく身近にあっているけど「日常」はなんとなく続いているという、今の気分を反映していると思いました。


思考停止している人たちへの手厳しさ


倉本:先ほどの、一方向から物語を見ないという点にも繋がる話なのですが、『チェンソーマン』って自分たちだけは安全だと思って思考停止している人たちに対して、結構手厳しいところがあると思うんです。物事を自分で選択するのか否か、または周りに委ねてしまうのかみたいな。これは、『アンデッドアンラック』(戸塚慶文)のNo.122で風子が言い放つ「辛い事も楽しい事も全部人間(じぶん)のせいにしたいんです」というセリフと通じるものがあるなと。


成馬:『アンデッドアンラック』は「否定者」と呼ばれる異能力者たちが主人公で、その能力が原因で、大切な人を失った人間たちの物語なんですよね。風子たちの目的は、そんな世界を“普通に生きて普通に死ねる世界”にすることで、そのために理不尽なルールを押し付けてくる神に戦いを挑み、世界をやり直そうとしている。その決意が表れているセリフですよね。


倉本:そういう、今置かれている現状に委ねてしまうのか否か、という問いが『チェンソーマン』に繋がるところだと思います。


成馬:第一部って、無知で愚かだからこそ強かったデンジが、大勢の仲間を失ったことで、最終的に「考える」ようになるまでの話なんですよね。藤本タツキ先生は、昔のパンクロックのように初期衝動だけで大暴れしている漫画家だと思われがちなんだけど、実は細部まで構成を練った漫画を描いている。だから、考えに考え抜いて作品を作っている漫画家なんですよね。


社会情勢によって変わるマンガ表現


岡島:第一部の最後でマキマはデンジに敗北して、その後地獄で転生し、新たな支配の悪魔として中国で生まれるわけですよね。


成馬:岸辺さんは、その支配の悪魔を回収するために中国へ行くと……。


倉本:そうだ。支配の悪魔が中国で生まれるって、よくよく考えると、おぉって思いますよね。


成馬:この2年間で、中国やロシアといった言葉の持つ意味がだいぶ変わってしまったじゃないですか。戦争やパンデミックもそうですが、かつてはフィクションの世界の中で済んでいたことが急速に現実化して洒落にならなくなっている。


 例えば、『SPY×FAMILY』(遠藤達哉)も、連載当初とは位置づけが変わりつつあると思うんですよね。あの作品はスパイ映画のパロディになっていて、スパイ映画全盛だった冷戦時代の記憶が過去になったからこそ、ファンタジーとして楽しめたのですが、ロシアのウクライナ侵攻が起きたことで、読まれ方はもちろん、描き手の意識も変化しつつあるように感じます。主人公・ロイドの過去編(62話)はウクライナ侵攻が始まってから描かれたエピソードですが、幼少期のロイドが体験した空爆の描写がすごく生々しいんですよね。


 さじ加減を間違えると、今まで積み上げてきたコメディとしてのバランスが崩壊しかねない危ういエピソードでしたが、あれを描かなくてはいけないと作者が思う気持ちはすごくわかるんですよね。今までなら「フィクションだから」ということで済まされていたことが、次々と現実化していることで、読者の反応がセンシティブになっている。社会情勢の変化を真摯に受け止めた上で、エンタメとしてどう打ち返せるのかを、フィクションの作り手が要請されているのが、今の時代なのかなぁと思います。


岡島:『ルックバック』は、公開当初に不適切な表現があったとして炎上しましたよね。だから『チェンソーマン 第二部』では、かなり考えているでしょうね。そうした意図はなくとも、偶然社会と合致したことが起こるかもしれませんし。


倉本:一方で『チェンソーマン 第一部』や『ルックバック』は、生活の面をすごく丁寧に描いているじゃないですか。それに対して、第二部はアサの暮らしぶりがあまり描かれていないんですよね。親のいないアサがどうやって生活してるのか、細かいところがよく分かってないし。それが少し意外だなと感じています。


成馬:アサは高層建築のマンションに住んでいますが、ユウコは郵便ポストが剥がれているくらいのボロ家に住んでいますよね。本当にあそこに住んでいるのかすら、怪しいですけど。


倉本:“生活の積み上げ”みたいなものがあまり描かれていないんですよね。例えば、『ルックバック』は春夏秋冬を同じ構成でしつこいくらい描いてたし、第一部はデンジがパワーやアキと暮らしたときの洗濯物の風景があって、すごく印象的だったんですよね。


岡島:街並みの雰囲気は第二部の方が印象的かも。


倉本:『鉄コン筋クリート』(松本大洋)みたいだなと思いました。


成馬:違法建築が多いというのは、香港にあったスラム街・九龍城のイメージですよね。一方で、101話でコウモリの悪魔が登場する場所は、現代のショッピングモールみたいだと思いました。もしかしたら、世界観自体がモザイク状になっているのかなと。チェンソーマンが食べたことによって、この世界からなくなったものがいっぱいあるという裏設定があるのかなと推測しています。


倉本:余談なんですけど、そのショッピングモールみたいな建物も、現代のイオンみたいな箱状のものではなく、90年代に香港とかシンガポールで作られた陸橋で繋がっている建築と形状が近いなと思っていて。もしかしたら、90年代へのこだわりがあるのかなと感じながら読んでいました。


成馬:それは気づかなかったです。再構築された90年代というのが面白いですよね。


『タコピーの原罪』『ボボボーボ・ボーボボ』を踏襲したパロディ


岡島:「ジャンプ+」や「週刊少年ジャンプ」のエロ・グロ表現ってどこまでがセーフなんですかね? 


倉本:第二部では顔を引き裂くわ、人の体に色々突き刺さるわ……。


岡島:顔を引き裂かれるだけじゃなくて、腸みたいなものも出ていましたよね。


成馬:『チェンソーマン』は、物理的な暴力描写がどんどんひどくなっていきますからね(笑)。腸が出たり血が飛び散るみたいなのは、80年代のホラー映画の様式をなぞっているように感じがします。グロ表現以外だと、第二部の1話では、最初に『タコピーの原罪』(タイザン5)と思わせながら、やっていることは『100日後に死ぬワニ』(きくちゆうき)や映画「ブタがいた教室」のパロディになっている。最近の作品のパロディが多いなという印象を感じました。


岡島:これは、藤本タツキ先生や担当編集者の林士平さんのインタビューで知ったのですが、上京前に担当編集の林士平さんが、「これを読んで!観て!」ってたくさんのマンガや小説、DVDを送っていたそうなんです。他にも、地元のレンタルビデオ屋でビデオを借りたり、マンガ家仲間で映画をオススメし合ったり。『チェンソーマン 第一部』『ルックバック』『さよなら絵梨』などの作品を経て、そうした青春期にインプットした過去作の貯金が段々と尽きてきて、近年発表された作品の要素を取り入れるようになったのかなと思いました。


成馬:あと、田中脊椎剣の元ネタは『ボボボーボ・ボーボボ』(澤井啓夫)みたいですね。


倉本:みんな『ボボボーボ・ボーボボ』好きですよね。『呪術廻戦』(芥見下々)もあらゆる場面に『ボボボーボ・ボーボボ』のオマージュがちりばめられていますが、ギャグではなくすごくかっこよくてシリアスな、戦慄するようなシーンになっているのが本当にすごい(笑)。


今の「週刊少年ジャンプ」を読んで


倉本:『チェンソーマン 第二部』は「少年ジャンプ+」での連載となりましたが、最近の「週刊少年ジャンプ」本誌のほうはみなさんどう読んでいましたか?


成馬:『僕のヒーローアカデミア』(堀越耕平)がクライマックス間近ですし、『ブラッククローバー』(田畠裕基)も最終章で、ジャンプを支える長編連載がどんどん最終回を迎えている。『ONE PIECE』(尾田栄一郎)は別格として、後は『呪術廻戦』が残ってるくらい。


倉本:“学園マンガの雄”こと『SKET DANCE』の篠原健太先生の新作『ウィッチウォッチ』もありますよ!


岡島:『ウィッチウォッチ』良いですよね。デニムの蘊蓄をマニアックに語る回は“ポストこち亀”感がある。


成馬:『ウィッチウォッチ』は安定感ありますね。少し前まで「少年ジャンプ」には、『チェンソーマン 第一部』はもちろん、『約束のネバーランド』(白井カイウ、出水ぽすか)や『鬼滅の刃』(吾峠呼世晴)があって、ストーリーマンガの全盛期だったと思うんです。それ以降は、『高校生家族』(仲間りょう)、『僕とロボコ』(宮崎周平)、『破壊神マグちゃん』(上木敬)といった日常に寄り添ったギャグマンガが増えてきている。話題になった『ルリドラゴン』(眞藤雅興)もギャグではないですが日常系の話ですよね。ストーリーマンガでエッジの利いた新しい大作が減りつつある気がします。


岡島:「週刊少年ジャンプ」で打ち切られる作品の理由として、単に人気がないから、というだけでなく、新しい連載を入れる枠を空けるため……ということもあるのかなと思います。新しい連載候補作がないから、打ち切られずに続いている作品もありそうですよね。


成馬:「ジャンプ+」の影響も多少あるんじゃないかなと。「週刊少年ジャンプ」における競争原理が、もう働かなくなりつつあるのかもしれない。


岡島:「ジャンプ+」は「週刊少年ジャンプ」的ではない、例えば「アフタヌーン」とか「ガロ」とか、他のコミック誌のテイストを感じさせるような、新しい要素のある作品を積極的に取り入れようとしていますよね。


成馬:あとは『あかね噺』(末永裕樹 / 馬上鷹将)が話題ですよね。単行本第一巻では、尾田栄一郎先生、第2巻で庵野秀明さんがコメントを寄せたことも話題になりました。


倉本:今、大学でサブカルチャーの授業を受け持っているんですけど、その授業で『あかね噺』を教材に使いました。すごく便利です。教養マンガとしての性格と王道の成長ストーリーのバランスがいい。


成馬:個人的には『SAKAMOTO DAYS』(鈴木祐斗)が好きです。今のところ、ストーリー漫画として面白いというよりは、アクションの見せ方がめちゃくちゃ面白いという評価ですが、今後『呪術廻戦』に続く看板作品になるのではと、期待しています。


倉本:『逃げ上手の若君』(松井優征)も評価が高いですよね。歴史物ですが、途中から読んだ人でも一話ごとに楽しめるように作ってある。


成馬:以前、松井優征先生が以前インタビューで「防御力をつければ勝率も上がる」という話をされていたのですが、読者に驚きを与えつつもいかに脱落させないようにわかりやすく読ませるかについて、すごく考えたと明かされていたんです。でも、松井先生の漫画って時々、「え?」って驚くような少年漫画を逸脱した表現が入るんですよね(笑)。時代が戦乱の世だから仕方ないとは思うのですが、10歳くらいの子供が笑顔で武将の首とかを平気ではねる。リアリティを追求しようとすると、サイコパス味があがるというか……。純粋無垢な少年を描いた結果、怪物的存在になってくる。


岡島:そもそも『HUNTER×HUNTER』(冨樫義博)のゴンや『ドラゴンボール』(鳥山明)の孫悟空がそうでした。ジャンプの王道主人公の思想を突き詰めると、“サイコパス”に着地せざるをえないんですよね(笑)。ゴンは善悪に無頓着に物事を判断するし、強者に出会うと首筋のあたりがゾクッとする。悟空は「地球が滅ぶ可能性があっても強いやつと戦いたい」という考え方だし、「殺されたみんなや破壊された地上はドラゴンボールでもとにもどれるんだ 気にすんな」なんてことを言ったりする。


成馬:戦闘ジャンキーですよね。


岡島:今は昔のマンガと違って、ストーリーやキャラクターに精密さを求められるじゃないですか。だから、王道的な正義感を持つキャラクターの考え方に整合性を持たせようとすると、狂気を孕んだやつにしかならないということですよね。昔は単に「正義の味方だから」で通用したものが、今はそれでは世の中が納得しない。で、主人公が戦うことの理由づけをしようとすると、「戦闘が好きだから」というバトルマニアになったり、ヒロアカの初期のデクみたいに人々を救うために身体欠損しようがどうなろうが全く自己犠牲を厭わない性格になったり……。『チェンソーマン』の場合は、例えばデンジは「おっぱいを揉みたい」「モテたい」という理由でチェンソーマンになって戦うんですよね。単純ではありつつも、人が持つ根源的な欲求をキャラクターが動く動機に設定していることで共感を生むし、読者が自己投影しやすい構図になっている。二部では悪魔が「未来のある学生1人」と「ジジイ、ババア5人」を人質に取って、チェンソーマンにどちらを助けるか選ばせようとする回があるけど、デンジ(チェンソーマン)はどちらも選ばずに悪魔を倒し(学生も老人もどちらも死ぬ)、たまたまそこにいたネコを1匹、助ける。ここで「知らない他人よりも、自分が好きな動物」を選ぶというのは、今のモラル的にギリギリな表現だと思う反面、今を生きる人々にとってはすごくリアリティーを持てる感覚じゃないかとも思います。これまでの少年マンガの主人公にはない行動原理を描いていることにも、「チェンソーマン」の新しさと魅力を感じます。