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『ランボルギーニ・ディアブロ』3メーカー群雄割拠のGT500に挑んだレーシング・ディアブロ【忘れがたき銘車たち】

2022年10月12日 09:31  AUTOSPORT web

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1995年の全日本GT選手権を戦ったレインX タムラディアブロ。ドライバーは和田孝夫、池沢さとし(最終戦のみ金海辰彦)が務めた。
モータースポーツの「歴史」に焦点を当てる老舗レース雑誌『Racing on』と、モータースポーツの「今」を切り取るオートスポーツwebがコラボしてお届けするweb版『Racing on』では、記憶に残る数々の名レーシングカー、ドライバーなどを紹介していきます。今回のテーマは、全日本GT選手権に参戦した『ランボルギーニ・ディアブロ』です。

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 1994年の全日本GT選手権(JGTC)本格スタートから、2022年のSUPER GTに至るまで29シーズン、休むことなくランボルギーニでの参戦を続けているジャパン・ランボルギーニ・オーナーズ・クラブ(JLOC)。

 JLOCが最初にJGTCへと挑んだマシンがランボルギーニ・カウンタックで、そしてこのJLOCのJGTC参戦が、のちにランボルギーニ本社のモータースポーツ活動を本格化させるきっかけとなったことは、以前の本連載でお伝えした。

 今回は、そのカウンタックに続いてJLOCがJGTCに投入した車両、ランボルギーニ・ディアブロについてご紹介しよう。

 1994年のJGTCをカウンタックで戦ったJLOCは1995年に向けて、新たな車両の製作を画策していた。カウンタックは、レース向けの改良は加えられていたものの、ほぼノーマルとも言えるスペックだったため、JGTCのGT1クラス(のちのGT500クラス)を戦えるだけの車両ではなかったのである。

 そこでJLOCはランボルギーニ本社に掛け合い、新規車両の製作を依頼。その当時はランボルギーニがF1から撤退したばかりで、ランボルギーニ・エンジニアリングの設備が残っており、その遺産を使って車両が作られることになった。

 JGTCマシンのベースに選ばれたのはディアブロSEという車両だった。このディアブロSEをベースに足まわりのブッシュを強化品に変更したほか、リヤウイング形状の変更やドアも軽量化。さらにオイルクーラーとミッションクーラーをフロントへと移設するなどのモディファイが加えられた。

 こうして完成した“レーシング・ディアブロ”は、ディアブロ・イオタと名付けられ、いよいよ1995年のJGTCへとデビューする。

 イタリアのバイラーノやモンツァでテストが重ねられ、バイラーノではフェラーリF40と同等のタイムをマークしたというディアブロ・イオタだが、実際のレースでは大苦戦を強いられることになってしまう。

 パワーボートとF1エンジンの製作者が携わったというエンジンこそ強力でストレートでは速さを見せたものの、ブレーキング、コーナリングは大の苦手。下位クラスに追いつかれてしまうような状態だったのである。

 そんなディアブロ・イオタのまま1996年まで戦ったJLOCだったが、1997年になるとディアブロGT1という1台のマシンが投入される。

 このディアブロGT1は、元AGS F1のミッシェル・コスタが設計を担当し、レーシングカーとして一から製作された車両であった。ランボルギーニの肝煎りで初めて生み出されたマシンだったのだ。

 そしてJGTCへの参戦にあたっては、このディアブロGT1をベースに元トムスの今西豊の手によって改良が加えられ、1997年より実戦へとデビューすると1998年には二度の入賞を達成。

 さらに非選手権戦ながら2000年の鈴鹿1000kmでは3位表彰台にも登壇している。このようにディアブロは徐々にレーシングカーとして、ポテンシャルアップを果たしていたのだ。

 しかし、この時代のJGTCといえばニッサン、トヨタ、ホンダの3大メーカーによる開発競争がより本格化した時期でもあり、プライベーターとしてGT500を戦うJLOCには厳しい状況となってしまっていた。

 その後、2001年にはシャシー、足まわりなどを新設計し、200kg近い軽量化も果たしたJGTC専用のニューマシン、ディアブロJGT-1も投入されたが、目立った成績を残すことはできなかった。

 その後、マシンをムルシエラゴにチェンジしたJLOCは、GT500とGT300の並行参戦期間を経て、2006年からはGT300へとフィールドを本格的に移行した。

 そしてその2006年のムルシエラゴから現在のウラカンGT3 Evoまでおよそ17シーズン。2023年にはJGTC初参戦から30年目を迎えるJLOCは、今も古豪チームのひとつとしてGT300クラスを戦い続けている。