2022年10月09日 10:11 弁護士ドットコム
さまざまな事情を抱えた人たちが集まってくる東京・台東区のドヤ街「山谷(さんや)」。その一角にたたずむ建物の2階に男性たちが集まり、それぞれが撮った写真について「いいね~!」と語り合っている。
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「これはすごいな~!」。ある男性が撮った写真にひときわ大きな賞賛の声があがる。約3年前に山谷にやってきた「新入り」だという。
「新入り」の名前は、クラキさん(40代)。かつては、自転車屋として働きながら、高級住宅が並ぶ都心で両親と暮らしていた。一眼レフで写真を撮ることが趣味だった。
「ニコンの一眼レフを片手にお台場の展示会でコンパニオンを撮ったこともありました。人物を撮るのが好きなんですよ」(クラキさん)
そんなクラキさんは約3年前、大事な一眼レフを手放して、山谷にたどり着いた。
ある日、同居していた母親が精神疾患を発症して、アパート内でトラブルを起こすようになって入院した。クラキさんと父親は神奈川県に引っ越し、母親の退院後は新居で共に生活した。
ところが、母親の体調は悪化し、ふたたび精神病院に入院することが決まった。同時に、母親の面倒をみていた父親もガンが再発した。
それから約3カ月後、父親の入院先から電話がかかってきたが、クラキさんは仕事中で出ることができなかった。その後、姉からかかってきた電話で、父親が「危篤」だと知った。急いで病院に向かったが、すでに亡くなっていた。
クラキさんは24年間続けてきた自転車屋の仕事をやめた。母親の面倒をみながら、細々とバイトを続け、勤務先で正社員になった。しかし、母親の体調は回復せず、そのまま亡くなった。
心の中でプツンと何かが切れた。「人と関わりたい」という気持ちが失せて、「働きたくない」と思った。すべてに疲弊しきっていた。
神奈川県内の住まいを引き払い、路上で生活できる程度の荷物を積んだ自転車に乗り、山谷へと向かった。ほぼ毎日炊き出しがおこなわれていることをネットで知ったためだ。「ここなら生きていける」。そう思った。
晴れている日は公園、雨の日は橋の下で寝る日々。小銭をくれる人がいたため、その金を貯めてアウトドア用のテントを購入し、数カ月間、路上生活を送り続けた。
約2年前、職業紹介や応急援護などの支援をおこなう城北労働・福祉センターで利用者カードをつくった。年末年始はドヤに無料で宿泊でき、コンビニ弁当の引換券をもらえるためだ。ドヤに泊まってみると「部屋で暮らしたい」という気持ちになった。
路上生活者の支援などをおこなうNPO「山友会」のスタッフに相談して、生活保護を申請。2021年3月からは、介護などが必要な人のために、山友会が提供する宿泊施設「山友荘」で配膳の仕事を始めた。
「今は、山谷で暮らしながら、アンドロイドのスマホを使って写真を撮っています。アイフォンよりも画質がいいんですよね。ここでは、僕は『新入り』なんです。スタッフとメンバーに誘われて、今年5月に『メンバー』になったばかりなんですよ」
実は、冒頭の男性たちは、山谷で生活しながら、街や風景、人物などを写真で記録する活動をおこなう写真部(「山谷・アート・プロジェクト」)のメンバーだ。この日は、それぞれが撮影した写真を見せ合うミーティングのため、NPO「山友会」に集まっていた。
メンバーは、40代から70代の男性。山友会が用意したデジカメや個人スマホで撮影している。
山谷にやってきた経緯は、人それぞれ。2021年10月からメンバーに加わったコウジさん(40代男性)は、コロナ禍で派遣切りにあい、山谷で暮らすようになった。
「写真部には自分から入りました。写真を撮って、少しでも前向きになれればいいなと思ったんです」(コウジさん)
今年9月からは新たに仕事が見つかり、終業後に写真を撮っている。
「夜の景色が好きなんですよね。何を撮ろうかなと考えるときが一番楽しい。遊び心ある写真を撮りたいと思っています」(コウジさん)
2016年から初期メンバーとして活動しているミサオさん(60代)は、1996年から仕事の関係で山谷に出入りしていた。知人に声をかけられて山友会につながり、ボランティア活動に参加。写真部は「おもしろそう」と感じ、立ち上げメンバーに加わった。
彼もまた順風満帆な生活を送っていたわけではない。路上生活をしていたことや、生活保護を受ける際に「戸籍が汚されている」と驚くべき事実を告げられたこともあった。
「戸籍があちこち動かされていたり、養子縁組に使われたりしていることがわかったんです。心当たりとしては、以前、勤務先で緊急連絡先として実家の住所等を書いたこと。法テラスに相談していますが、まだ手続きに時間がかかると聞いています」(ミサオさん)
「古いものが好き」と話すミサオさんがこれまで撮影した作品集には、『ビリーパック』(河島光広/少年画報社)など昭和中期に刊行された漫画本や、数枚の猫の写真が並ぶ。
「毎朝、買い物がてら散歩に出かけるんですけど、いつもこの猫がいたんですよ。最近は見なくなってしまったんですけど…」(ミサオさん)
ミサオさんは、過去に別の猫に救われた経験がある。家を失くし、千代田区の公園で寝泊まりせざるを得なかったとき、夜はいつも猫と一緒に寝ていた。猫があたためてくれたおかげで、寒い日々を乗り切ることができたという。
ミサオさんと同じく初期メンバーでもあり、リーダーのマサハルさん(70代)は、山谷で22年間炊き出しなどのボランティア活動を続けてきた。現在は定年退職し、年金生活を送りながら、山谷で暮らしている。
どんなに空腹でも『オレは施しを受けない』と言って食事を受け取らないプライドの高い「おじさん」や、生活保護受給後に「トンズラする人」も見てきた。それでも、山谷に居続ける理由について、「結局、ここが好きなんだよ」と話す。
「写真部の活動があると、やっぱり生活のハリが違う。身体が丈夫であれば、ドヤでの生活は、朝起きて、テレビみて、朝昼晩のごはんの心配しかない。でもここに来れば、話し相手がいるじゃない」(マサハルさん)
マサハルさんが撮影した写真の中には、椅子の上に置かれた元メンバー、マッチャンの遺影もあった。マッチャンも初期メンバーの一人。遺影が置かれた椅子はマッチャンがよく座っていたものだという。
マッチャンは写真部にいたため、ほかのメンバーから写真を撮影してもらう機会があった。しかし、山友会スタッフの後藤勝さんによると、山谷で亡くなる人には身寄りがない人も多く、遺影に使える写真がない人もいるという。
中には、人とのつながりがないために、亡くなっても発見が遅れてしまうこともあるそうだ。後藤さんは、しばらく顔を見てないメンバーがいると、ドヤを訪れて「写真、撮っていますか?」と声がけしている。
写真部では、閉ざされた「山谷」というコミュニティの中で生きる人たち同士のみならず、彼らと社会がつながることができる機会が提供されている。
定期的に開催される「フォトコンテスト」もその一つだ。第2回目は今年中に開催予定で、マスメディアやアートの関係者が審査員となる。一般投票もオンラインでおこなわれる予定だ。
さまざまな事情を抱えて、山谷にたどり着いた男性たち。写真部は、彼らにとって、間違いなく「居場所」となっている。
男性たちは、今日もカメラを片手に、写真を撮る。山谷の記録と生きた証を残し続ける。
※メンバーの名前はすべてアーティスト名