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『地図と拳』小川哲×『満州アヘンスクワッド』門馬司 特別対談 いま満州を舞台にフィクションを描く意味

2022年10月08日 12:11  リアルサウンド

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 日露戦争前夜から第2次世界大戦まで満州のある地域をめぐり、密偵、都市計画、戦闘など波乱万丈の歴史を語った長編小説『地図と拳』(小川哲)。満州に移住した日本人青年・日方勇が、やむにやまれぬ事情で阿片密造グループの一員となり販路拡大にとり組むマンガ『満州アヘンスクワッド』(原作・門馬司、作画・鹿子)。2作は、様々な国籍、身分の人々が行き交った満州を舞台にした点で共通する。小説家、マンガ原作者である小川、門馬両氏にこの時代を描いた経緯や、歴史とのむきあい方などを語ってもらった。(円堂都司昭/9月9日取材・構成)※『地図と拳』内では「満洲」と表記


参考:『テスカトリポカ』佐藤究×『ルポ 川崎』磯部涼 特別対談 川崎の〝流れ者〟たちが描く世界地図


満州はフィクションにする魅力がある


――なぜ満州を作品の舞台に選んだんですか。


小川:編集者にいくつか提案された候補の1つでした。書く前は満州について歴史の教科書くらいの普通の知識しかありませんでした。でも、調べていくと、満州には様々な国の人がいて、日本人の間でもいろいろな思惑が入り乱れていて、フィクションにする魅力があると思いました。戦争を描くうえでもいろいろな視点から立体的に描けると感じました。


――小川さんはSF作家としてデビューした時から人工都市に関心がありましたよね。


小川:国家を作ったり、ルールを考えたりに興味がある。だから、『地図と拳』の主題が、都市開発になったんです。


門馬:僕も最初は、満州のことは全然知りませんでした。ただ、ひとつ前にやっていた作品で阿片を登場させていたんです。それで編集さんから阿片を使った物語をやれませんかといわれ、最初は日本を前提に話していたんですけど、調べるうちに満州につながりました。その歴史が面白いし、ロマンがある。満州という名前は知っていてもどんな場所か知らない人は多そうだし、舞台にしたら面白いんじゃないかと、ここに決めました。


小川:僕の場合、最初は高山英華さんでなにか書きませんかといわれたんです。駒沢オリンピック公園などを手がけた建築家で、若手の頃に満州の都市計画に携わった人です。計画は、戦争のために実現しなかったんですけど。高山英華自体をとりあげることにはなりませんでしたが、都市を描くこと自体が満州を描くことになる、そういう小説になりました。


――お互いの作品についての感想は。


小川:『満州アヘンスクワッド』は、とても面白かったです。連載中のマンガは今10巻までまとまっていますが、たぶん調べている資料が僕と門馬さんは近い。だから、例えば僕はこのマンガが何巻くらいで終りそうか想像できるというか。


門馬:(笑)。


小川:『ONE PIECE』で残りの島がいくつあるかみたいなことなんです。『満州アヘンスクワッド』は、街へ行って造った阿片を売り、次にまた別の街で売り始め、さらに別の街へという進みかたなので、構造はシンプルです。残った都市の数は多くないので、先を想像すると奉天か大連へ行くのではないか。そもそも満州が面白いというか、調べたことを筋道立てて書くだけでフィクションが成立してしまう。本当にいろんな人が集まっていて、ちゃんと新しい国家を作ろうと理想を持つ人がいる一方、制度が曖昧で隙間に入りこもうとする悪いやつもいる。民族の誇りを持つ現地の人々がいて、モンゴル人やロシア人もいる。『満州アヘンスクワッド』は、阿片を題材にしたことで満州の闇が自然と描けている。僕の小説でももっと阿片に触れる予定でしたけど、本筋との関係であまり書きませんでした。だから、マンガを読んで阿片という切り口で満州のカオスが描けるんだなと思い、素直に面白かったです。


門馬:僕は小川さんの短編集『嘘と正典』も読ませていただいて、特に表題作が好きなんですけど、そこにもあった史実とフィクションの合体というか、ストーリーを追うことで勉強できるうえに面白い。そういうスタンスが好きです。『地図と拳』にはそれが見事に出ていて夢中で読みました。とても長い年月が語られて、登場人物もいろいろ入れ替わって残る人がいれば去る人もいる。人の歴史とともに満州の歴史も変わっていく。僕の好みでもあり、素晴らしい作品でした。


――資料にどうあたるかとか、この時代を描く難しさがあったと思いますが。


小川:以前、『ゲームの王国』でカンボジアの話を書いた時、資料自体を探すのが難しかったんですが、満州の場合、逆に資料が多すぎて漫然となんか小説のネタはないかと探していたらきりがない。かといって、情報がありすぎて困るところと、なくて困るところの差が激しい。庶民の生活や風俗とか、フィクションを描くうえで地味だけど重要な情報があまりないんです。一方、人物の話はいっぱいあるので、スキルがいるというと大げさですけど、どの情報を採用するか取捨選択が必要でした。食べものや服装については、資料にはあまりなくて、フィクションに載っていたりする。昼ご飯のシーンがあれば、なにを食べていたかだけでなく、家の形などもわかる。だから莫言の小説などは、かなり読みました。


門馬:昔の密輸のやり方を書いた本や、芥子栽培の方法の本は面白かったです。真面目に芥子の品質を上げようとしていたんです(笑)。


小川:『満州アヘンスクワッド』も産地がどう、純度がどうと、ワインのソムリエマンガみたいな側面がありますね。


門馬:あと、僕が好きだったのは、憲兵隊の手記のような本です。ただ、なかには信用ならない資料もけっこうありますよ(笑)。


小川:やっぱり戦争がからんでいるから。


門馬:マンガの場合、実在した人の名前をそのまま書くか変えるか、迷うところがあります。親族の方も存命の方もいらっしゃるので気をつかいながやっています。


小川:『満州アヘンスクワッド』では、けっこう名前を変えていますものね。


歴史で真偽が不安定な部分は触れにくい


――フィクションと事実は、どれくらいのバランスで考えていましたか。


小川:僕はフィクションを書いているという姿勢ですし、それを支える土台として現実があるととらえています。歴史を題材にしてもSFやファンタジーを書いても、そこは変わりません。読者にどの程度リアリティを感じさせるかという書きかたの問題はあるけど、小説を書く以上、フィクションではある。そもそも実際にあった満州の歴史に、僕が責任を負える立場ではありません。ただ、現実にあった出来事を参考にする時は、記述によって傷ついたり怒ったり、嫌な気持ちになる人もいます。それをゼロにするのは難しいけど配慮しつつ、可能な限りフィクションとして面白いものを書く。それで、何年にこういう歴史的な出来事があったと触れる時は、読者も調べたくなるように書ければいいなと考えています。


門馬:やっぱりメインはフィクションで、歴史教科書みたいにはしたくないんです。面白いことが大前提。そこにうまく溶けこむ形で史実が入ればいい。服装や街の風景など見た目がよりリアルになれば、読者も臨場感を味わえていいかなと思ってやっています。


――『地図と拳』に関する小川さんと新川帆立さんの対談では、小説の構造とディテールが話題になっていました。マンガでは原作が構造、作画がディテールにあたりますか。


門馬:そうですね。世界を完成させるのは作画家さんです。『満州アヘンスクワッド』では作画の鹿子さんと資料を共有しているので僕のなかのイメージは伝わっていると思います。服装や細かい装飾などはお任せしているので、そこは作画家さんのパワーですね。


小川:僕が話を聞いたことのある原作者と作画家はだいたい揉めていたんですが……。


門馬:(笑)。


小川:そこは違って、いいコンビネーションなんですね。


――『満州アヘンスクワッド』を読んでいて、うわぁって思うのは、やっぱり阿片を吸った瞬間の表情ですね。滑稽な変顔にもみえるけど、えらく気持ちよさそうで、いかにもやばい。


小川:あれは小説では描けない。あと、僕のなかではディテールを書いた結果、構造が変わることがあるんですが、マンガでもあるんでしょうか。例えば、作画の方がとてもいいキャラクターを描いてきたら、その人の役割が大きくなるとか。


門馬:あります。殺すはずだったけど、生かしておこうとか。あまりにもいいキャラに仕上がっていたから、これはもったいないとなることはあります。


――戦争の時代を描く場合、どこまで踏みこんだ表現にするか、難しいことはありませんか。


門馬:小説で書いてはダメなことってあるんですか。


小川:小説で書いちゃいけないこと……。ダメなことはないと思います。ただ、マンガも同じでしょうけど、歴史の真偽について意見が分かれる部分を書いた際に読者が限定されるリスクはある。僕が怒られるリスクはどうでもよくて、ある層の読者を失ってしまうリスクです。歴史上で実際にあったことだからといって、誰かを差別することを推奨するような言動を今書いたら、読む立場として苦しいものがあったりするでしょう。資料に書いてあった、史実通りだと書いてもいいんだけど、読者が楽しめるかどうかは別の問題。


門馬:資料をみていると、昔の表現は本当に使えない。


小川:だから僕は『地図と拳』を「小説すばる」に連載する時、集英社と中国人を「支那人」と書くかどうか話しあいました。「支那」と書いた方が、過去の日本人が中国をどう思っていたかをイメージしやすいだろうし、「中国」にすると違ってしまうと思いました。本でもそうですが、意図を説明した注記を入れたうえで書きました。それも一つの選択です。


門馬:歴史で真偽が不安定な部分は触れにくい。僕はけっこう、やめておこうとなります。


小川:僕はわりと書いていますけど、マンガの方がより広い範囲の人が読むでしょうから、気をつかうところはより大きいかもしれません。


満州は今はもうないという事実が、絶対的にある


――『地図と拳』と『満州アヘンスクワッド』で面白いのは、国際的な舞台を活かしていることです。例えば、満州国の「五族協和」(五つの民族が協調して暮らすという建国の理念)のイメージに作品としてどうアプローチするかとか。


小川:『満州アヘンスクワッド』は、主人公たちの多国籍チームで「五族協和」が実現する(笑)。阿片販売によって満州の理念が結果的に成立してしまう皮肉。阿片密造には個人の能力が重要で、むしろ悪いことをするには国籍や人種は邪魔な概念になる。それが面白い。


門馬:各地を転々とするうちに、そこにいるモンゴル人やロシア人も仲間にしていって、うまいこと国籍色が豊かになった感じもあります。


――主人公たちは葛藤しながらも阿片販売に加わる。彼らが悪に手を染めているのを知りつつ、読者は感情移入してしまう。読者にも葛藤があるわけですが、原作者としての考えは。


門馬:それはもう、金がないと苦しいことを誰もが知っているからです。阿片には欲、金、死という人間から切り離せない3つがからんでいる。金のために人としてこのラインを越えるか越えないか、本能的に引き寄せられて葛藤するのではないか。自分だったら本当にこれを悪といえるか、絶対嫌だといえるか、読んでそれを考えてもらえたら嬉しいです。


小川:作中では幼児を売ったり女性に体を売らせたり、金のためにもっとひどいことをする連中がいる。それに比べれば阿片はまだ許容できる、というのでもなくて主人公たちが無理矢理、相手を顧客にすることもある。その際に葛藤を抱えているのが興味深い。


門馬:葛藤なんか抱かない人も実際にはいっぱいいて、そういう人ほど生き残っていくものだったりする。でも、そこで葛藤し、やはり割り切れないことがドラマにつながっていくのが、エンタメとして面白いと思うんです。


――作中の阿片描写をみていると、自分だったら吸っちゃうかもと恐ろしい(笑)。


門馬:そんなつもりで作ってはいなかったんですけど、気がついたら日方勇の作る純度の高い真阿片が、水戸黄門の印籠みたいな威力抜群なものになっていました。


――マンガではそれこそ地図を塗りつぶしていくように物語が展開しますが、小川さんは小説で満州に対し『地図と拳』という象徴的な言葉を持ってきました。


門馬:小説のなかで細川がそれらの言葉について演説する場面には、本当に感銘を受けました。あれは、小川さんが日頃から考えていたことですか。


小川:連載ではあの時にそろそろ折り返し点という感覚があって、タイトルの意味を1回考える回があってもいいと思ったんです。僕が考えていたタイトルの意味を、作中人物の立場からみえる範囲で説明しました。細川がたいしたことのない人間だと小説の格もたいしたことのないものになってしまう構造になっているので、彼の能力からしてこれくらいはいうだろうという線で書きました。


――お二人の作品では、ボスの娘が親であるボスに反抗するのも共通点ですね。


小川・門馬:あー、そうですね。


小川:理由は単純で、当時の満州で史実にならおうとすると女性を出すのが大変なんですよ。『満州アヘンスクワッド』には李香蘭のような女優が登場しますけど、ああいった形か、銃後を守る母や妹みたいな形でしかなかなか女性を登場させられない。軍人としても馬賊としても出せないけど、戦う女性を書きたいから抗日軍の1人として出しました。それが首領の娘。『満州アヘンスクワッド』にも戦う女性が中華マフィアの娘として出てきます。満州をフィクションにするうえで、首領の娘を出すのは1つの定型になりそうな気もします。


門馬:ただの戦う女性だとちょっと弱い。権力者の娘という要素が1つ乗っかるといいバランスになります。


――満州を舞台にする限り、フィクションとして書いていても曲げられない史実はありますよね。日本は戦争に敗けるとか。


小川:避けられないネタバレ(笑)。どんな終り方でも、勝利はないと決定されている。そこをどうするか。『地図と拳』の場合、細川という作中人物が未来を予測するのは、読者の僕らが日本は敗けるというネタバレを知っているのを、彼も知ろうとするようなものです。だから、細川の行動は、戦争の結果を知る僕らの行動でもある。今戦争を描くのなら、そういう人物が1人はいていいと連載中から思っていました。これが日露戦争なら勝つのを知っているから、ここからどうやって勝つかという楽しみ方ができる。でも、登場する全員が本気で勝つつもりなのに、読む僕らが敗けるとわかっているのは悲しいでしょう。敗北がわかっている代表戦のハイライトみたいな感じにならないように、みせ方は気をつけました。


門馬:満州は今はもうないという事実が、絶対的にある。逆にそれがわかっているからロマンがあるし、こいつらどうなるんだというワクワク感もあるととらえて、いいことかもしれないと思っています。


歴史は構造的に繰り返し続ける


――2人は小説家とマンガ原作者ですが、もし逆の立場だったらどうでしょう。


小川:僕は1人で仕事がしたいと思って小説家をしているので、作画の人の行動やモチベーションをコントロールできないマンガ原作はストレスがありそう。人と揉めたくないから小説を書いているところもあります。


門馬:小説は読むのは好きですけど、頭にあるものを文章のみで表現するのは難しそうだしすごいと思います。僕は昔マンガを描いていて、それから原作者になったんです。


小川:僕は絵がまったく描けない。だから、もし阿片の気持ちよさを小説に書いても、絵で表現できないから、気功が云々とかの理屈になっちゃうと思うんです。その点、『満州アヘンスクワッド』だったら、そこは表情と姿勢の絵だけですぐ伝わる。


――小川さんは昨年、「多層都市『幕張市』プロジェクト」で、ほかの人のアイデアを小説化しましたよね。(参考:「『幕張市』をSFするーCivic Vision SF Workshop Series」第一回アーカイヴレポート)


小川:一般市民がアイデアを出すああいう企画なら楽です。わりと自分が好きなように書けるので。でも、プロからアイデアをもらって、相手を尊重して対等の立場でやるとなると難しそう。自分がどこまで変えていいかわからないので。


――作画の方から原作のここを変えてくれといわれることは……。


門馬:滅多にないですね。人によるところはありますけど、『満州アヘンスクワッド』の鹿子先生とは本当にうまくやれています。お互い信頼していますし、鹿子先生なら大丈夫と思って、僕もぶん投げています。だから、仮に変えてくれといわれても納得できたら変えるし、無理ですとはいわないと思います。


 せっかくの機会なので小川さんに聞きたいんですけど、『嘘と正典』の「魔術師」はどういう発想から生まれたんですか。


小川:コンセプトは、50%の確率でSF、50%の確率でミステリというものでした。マジックに種があればミステリ、なければSFという風にどちらにも読むことが可能な構造を考えました。僕が書いた小説のなかで一番構造がきれいなのですごく満足している作品です。


門馬:エンゲルスが出てくる『嘘と正典』の表題作についてもお聞きしたいです。


小川:僕は、東大の2年生くらいまでずっと「マルクス・エンゲルス」が1人だと思っていたんです。未だに勘違いしている人は一定数いそうですけど。マルクスとエンゲルスが別人だと驚いてから2人を調べたら、マルクスは借金しまくっためちゃくちゃな人間だったけど、彼の生活を支えたエンゲルスは資本家として才能があり、金も稼いで会社を大きくしていた。彼らが共産主義を考え出した。その記憶がストックに残っていて、エンゲルスがいなければ共産主義国家は誕生しない。ゆえに、CIAの究極のオペレーションは彼の殺害だ。この発想はやばくない?(笑)と考えました。その種のストックが自分のなかにはいろいろあって、それを書こうとしているガジェットや設定と結びつけるんです。


門馬:『地図と拳』では、なにかといろいろ計測したがる須野明男が好きなキャラでした。もう一人、砂時計を持ち歩く黄宝林もぶっ飛んでて好きなキャラです。


小川:昔、読んだ合格体験記に、勉強以外のあれこれを毎日8時間以内に収めるため、ストップウォッチを持ち歩いて東大理3に合格した人の話が載っていたんです。勉強する時間ではなくそれ以外を計って、自分に許された自由な時間がどんどん減っていく。その衝撃がすごくて、いつかエリートを登場させる時にこのネタを使おうと思っていました(笑)。


――『地図と拳』と『満州アヘンスクワッド』には、現在の状況で読むから面白いというところもあると思います。


小川:新しい国家を目論んだ満州は、多様性など今我々が抱える課題に先進的な答えを出すことも可能な場所だったと思います。そういう理念を大義名分にして日本は、西洋に対し満州は国家だと主張したけど認められず、戦争に進んだ。当時の関東軍が現地の人にしたことは、ロシアとウクライナの戦争に通じるかもしれない。なぜ今につながるかといえば、歴史は構造的に繰り返し続けるものだから。そういう意味で今読むと面白いのではと思います。


門馬:あの戦争に日本は敗けましたけど、未来にむけて、敗けや失敗が一番勉強になるかもしれない。これから10年、20年経つと、あの時代を生きた人たちはほとんどいなくなります。我々は実際に満州へ行ってはいないけど、描くことで新しい人がまた興味をもってくれて、調べてくれるかもしれない。そこに意義があるかもしれません。べつに高い理想を掲げてはいませんけど、そんなこともあったらいいなと思っています。