2022年10月07日 11:21 弁護士ドットコム
同調圧力や忖度が生まれる長期県政。日本社会でさまざまな差別を受けるムスリム一家。社会から一定の距離を置き自分らしく生きるために車で生活するバンライファー。
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3つの視点から撮影された五百旗頭幸男(いおきべ・ゆきお)監督作品『裸のムラ』です。
登場人物はそれぞれが自分たちの立場や生活を守るために奮闘します。性別・人種・立場に流されて、ときにはずるく、ときには滑稽に、そしてときには必死に生きています。
それは五百旗頭監督も同じ。予定調和のない取材対象を前に奮闘する自身の姿をカメラの前でさらけ出しています。
撮影する中で「自分がいかにジェンダー視点を持っていなかったか気付かされた」と言う五百旗頭監督に、現在の日本に漂う違和感と、その先の希望についてお聞きしました。(成宮アイコ)
――富山市議会の不正を追った前作の『はりぼて』製作後に富山県のチューリップテレビを退職されましたが、なぜまた撮影をはじめようと思えたのでしょうか?
世の中がコロナ第1波に混乱する様子に、人間社会の本質がむきだしになっているのを感じました。目に見えない未知のウイルスが生み出す空気感。それを映像化したいと思ったのが出発点です。
2年前、2020年春にチューリップテレビから石川テレビに移籍したのですが、石川県庁を初めて取材したときに感じた違和感は富山県庁以上でした。知事に対する職員の忖度の強さと、記者に対する警戒心を強く感じたんです。
富山県の石井県政(石井隆一前知事)は4期12年、石川県の谷本県政(谷本正憲前知事)は7期28年。その差がこの空気感に出ているのかなと感じ、定期的に見ていきたくて撮影を開始しました。
――実際に撮影開始して違和感はどうなりましたか?
1回目の緊急事態宣言が出たときに、谷本さんはどの会見でも同じ発言をくり返すだけ。世の中の危機感が高まっているのに、彼らが重視しているのは「会見をした」というパフォーマンス。それを右往左往して追いかける記者クラブ、知事の発言を一言一句聞き漏らさないようにメモする県の部長たち。あまりにも滑稽だなと思いました。
石川県議会を初めて見たときの違和感も大きかったです。寝ている議員もいれば、後ろを向いて雑談をしている議員もいる。カメラマンによると「こんなのはいつも通りでおかしいと思わない」といいます。
ファーストインプレッション、会見、議会。3つの違和感が重なりました。石川県のメディアにも違和感を感じる人はいるのかもしれないけど、慣れてしまっているのか見て見ぬ振りでした。
――谷本さんが会見をしているすぐ後ろに眉間にしわを寄せてにらんでいる方が映りこんでいて、現場のピリピリとした雰囲気が伝わってきました。
あの方は知事の発言を聞き逃さないようにしているのと、変な質問をする記者がいないかを見張ってあの表情になっているんだと思います。取材対象の背景に真実が出ると、視点を広く撮っているのですが、この撮影方法は『はりぼて』の前の『沈黙の山』(18)というドキュメンタリーで意識をしはじめました。職員が壁の後ろに隠れながら囲み取材を聞いていたりと、周囲の様子がおかしい場面にたびたび遭遇したんです。
――記者たちの前で高校生たちが開発したお菓子を手にした谷本さんが「知事(自分自身)の手が汚れたって誰も動かないな、秘書課ならすぐ動くけど」と発言したあとの女子高生たちの目線や、知事のために麦茶のグラスの水滴を熱心に拭き取る女性など、ジェンダー視点も多くとり入れられていましたが、最初から意識されていたのでしょうか?
最初は意識していませんでした。正直に言えば、僕自身も「男のムラ社会」にどっぷりつかっている人間。言ってはだめなことを無意識に言ってしまうし、「わかっていない部分」が多いと思います。そんな僕ですら撮影しているうちに違和感を持ちはじめて、ジェンダー視点にも注目をするようになりました。
この気づきで、いかに自分がジェンダー視点を持っていなかったのかを痛感させられました。ただこれは一回痛感したからといってすべてが変わるわけではないので、意識し続けないといけない。そうしないと人は同じことを繰り返してしまうんです。
――他人の目を気にしすぎることを克服したくてバンライフをはじめた方に、「五百旗頭さんの演出が入っているからこれはドキュメンタリーじゃないよね」と言われるシーンがありましたが、どうしてそこを使おうと思ったのでしょうか?
あんなに人の目を気にして内向的だった方が、取材者の僕に「仕掛けてきた」ことへの驚きと、他人に意見をするようになった彼自身の気持ちの変化をうれしく思ったんです。
日本では特にドキュメンタリーへの誤解があるし、演出とやらせが曖昧になってしまっている。そこを明確にしておきたかったんです。ドキュメンタリーには演出も入るという種明かしをしてから、いかにも演出された海辺のシーンを入れることで、視聴者を揺さぶりたかった気持ちもあります。
――他にも、知事の記者会見で挙手している五百旗頭さんだけがなかなか指名されないシーンもありました。ご自身が取材する側からさらけ出す側になることに迷いはなかったのでしょうか?
まったくないです。撮影カメラがあって、ディレクターが入っている時点で、ありのままの現実ではなくなっているんです。さらにそれを編集で再構成をする。僕らが関与することで取材対象の現実を歪めてしまっているんです。
だから僕らは無関与ではいられない、そこを映像に残さないのはおかしいと思うんです。相手が嫌がる質問だと知りながら聞いているので、相手が権力者であればより自分が対峙している姿をさらすべきだと思っています。
――センシティブな取材も多い中で、取材対象の方との距離感はどのように意識していますか?
「撮影」にはもともと暴力性や加害性があります。いたずらに相手を傷つけたくはないので細心の注意を払いますが、自分の表現したいものに必要だと判断をしたら、相手が聞かれたくない話題でも質問をしなくてはいけないと考えています。
被写体に好かれようと思って取材しているわけではないので、極論を言えば嫌われるかもしれないとしても、作品を作りたい意識が強いです。表現ありき。まわりに気をつかって本来はできることにもストッパーをかけてしまうほうがこわいです。
――今回の撮影を通して、五百旗頭さんが希望を感じたできごとはありましたか?
県政だけではなく市井の人たちを入れたのは、暗澹たる出来事の中にも救いがあると思ったからです。
たとえばムスリム一家に登場する女性は、これだけ同調圧力の強い日本社会の中でも忖度せずに自分の思ったことを言います。「国籍を日本にしても顔で判断されて日本人に見られないから帰化はしない」と言う姿は清々しくもありました。
そのお子さんたちが僕に対してつれない態度をとることも新鮮でした。日本人はたとえ取材をよく思っていなくても、演じて取り繕うことが多いんです。あの子たちはそれがまったくなかった。カメラの前でもありのままでいる強さに救いを感じました。
ただ、母親があまりにも歯に衣着せぬ発言をするので、日本とは逆に「母中心のムラ」になっている矛盾もある。家族も小さなムラ社会なんですよね。
――そういった矛盾を描くことでどの人物にも奥行きが出て、わかりやすい善と悪ではないチャーミングな部分が映されていました。
悪いところを撮ろうとも、良いところを撮ろうとも思ってはいなくて、多面的な部分をカメラの前で見せてくれる人を素直に撮っているだけなんです。人間も社会も複雑で、一言で表現できるものではないですから。
今回の作品では、女性を都合よく利用してきた男性中心の「ムラ社会」を描きましたが、その中には見て見ぬ振りをした周囲の人や、「そういうものだ」とムラを受け入れてきた女性もいるんです。
たとえば、氷の入ったグラスに水滴がつくのは自然現象なのに、あれだけ入念に拭き取ってしまう。そういった無自覚の一つひとつが「男ムラ」をさらに強固にしてしまっていた。性別を問わず見つめなおしていきたい視点も含めて描いたつもりです。もちろん、僕自身も意識し続けなくてはいけないと思っています。
『裸のムラ』は10月8日(土)より、ポレポレ東中野(東京)ほか全国劇場公開される。