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「騙さなくてはいけないという使命感がある」 ミステリー作家・市川憂人が語る、異色のラブストーリー『灰かぶりの夕海』誕生の背景

2022年10月06日 12:11  リアルサウンド

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 観ていた世界が豹変する。市川憂人による『灰かぶりの夕海』(中央公論新社)は、そんな驚きを幾つも味わえるミステリーだ。読み進めていくに連れて作者の企みと主張が見えてくる本作はどのようにして紡がれたのか。デビュー作となった『ジェリーフィッシュは凍らない』から一貫して、奇想をベースに社会の諸相と人々の心情が滲むミステリーを書き続けてきた市川憂人に、創作の秘密を聞いた。(タニグチリウイチ)


参考:早川書房「HAYAKAWA FACTORY」担当者が語る、攻めたSFアイテムを生み出し続ける理由


【あらすじ】配達の仕事をしていた波多野千真が、道ばたに倒れていた女性を見つけて近づくと、女性の容姿が2年前にこの世を去った恋人の夕海とそっくりなことに気がついた。名前も同じ夕海という女性を千真はアパートに連れ帰り、自分の下で同じ宅配の仕事に就いてもらう。その仕事中に2人は密室での殺人事件に遭遇する。死んでいたのは千真の恩師の亡くなったはずの妻だった――。


■大変な目に遭っている方の個人個人に物語がある


――『灰かぶりの夕海』は、物語の世界が置かれた状況や、死んだ恋人とそっくりな女性の登場、密室殺人のトリックなど大小のネタが次々に繰り出されて、驚かされっぱなしでした。


市川:ネタをたくさん入れたのは、大ネタだけだと薄味になると考えたからです。物語として平坦になってしまうということで、もう少し厚みを持たせて豊かにしたいと考えて、いろいろとエピソードを盛り込みました。ミステリー書きとして読者を驚かせなくてはいけないという意識が、やはり根本にあるんですね。騙さなくてはいけないという使命感。それに従って書きました。


――実際に騙されっぱなしでした。どう騙されたかを言うだけでネタバレになってしまいかねない作品ですが、基本線としては、社会構造が大きな出来事によって変化した世界で育まれる純愛ラブストーリーだと言えます。


市川:物語のラインとしては、千真と夕海の2人の話が中心になっていますね。そこから、昨今のような状況下で暮らす一人ひとりの側面を語っていくラインを乗せていって、物語を紡いでいきました。


――道ばたで拾った夕海の”正体”をめぐって、千真と夕海の関係が変化していった先で迎えた結末には感嘆させられました。


市川:夕海に関するあることに千真が気づいた時、千真の夕海に対する言葉が微妙に変わって来るんです。それが最後のシーンに繋がっていきます。注意して読んでみてください。実はその結末も当初は違ったものを用意していたのですが、もうひとひねりが欲しいと思って書き加えました。


――今のパンデミックにも通じる、大変な状況下で暮らす人たちの心情に迫る描写も読みどころです。


市川:パンデミックもそうですし、他の世界情勢を見ていても、亡くなられた方がたくさん出てきて大きく騒がれますが、時間が経つに連れてだんだんと数字に置き換わっていくような気がするんです。やがてその数字すら出てこなくなります。確かに大局的な意味ではただの数字なのかもしれません。けれども、それだけでは見えなくなってしまうものがあります。被害に遭われた方、大変な目に遭っている方の個人個人に物語がある。そこに焦点を当てたいと思いました。


――『灰かぶりの夕海』というタイトル自体にも、ある種の仕掛があって驚きました。


市川:最後まで読んで、タイトルの意味が分かるというところを狙っていたので、うまくハマってくれました。もしかしたらネタバレになるかもといった心配もありましたが、読まれた方の感想に「そういう意味だったのか!」といったものがあって嬉しかったです。


――タイトルの意味とも関わる設定はどこから思いつかれたのでしょう。


市川:ネタバレになってしまいますから詳しくは触れられませんが、私が小中学生だった時に住んでいた地域では、それについてよく教えられていたんです。子供の頃から刷り込まれていたことを書いてみようと思いました。もうひとつ、作中設定の一例として説明されるエピソードは自分が実際に経験したことで、人生ではただ一度だけのことでしたがなかなか強烈でした。


――どのことか気になります。『灰かぶりの夕海』はラブストーリーを基本線に社会情勢も描きつつ、ミステリーとしても成立させなくてはいけない作品でした。書き上げるのに苦労されましたか?


市川:プロットを含めると書き上げるまでに半年くらいかかりました。特に密室のところはどうしようかと苦しみました。ネタに関しては毎回毎回のたうち回っています。ネタ帳のようなものはあるにはあるんですが、この作品には使えないものばかりだったので、ストーリーが固まってから新しく考えました。それこそ乾いた雑巾を絞り出すようにしてネタを考えて入れていきました。


――トリックも含めて読みどころの多い作品ですが、読者にはどこをアピールしたいですか。


市川:そこはミステリー書きですので、まずはミステリーをよく読んでいる方に向けたものということになりますが、そうでない読者の方々にも、恋愛の部分に共感してくれれば良いなと思っていますし、あるいは社会であったりといった部分にも興味をもっていただければ嬉しいですね。


―――市川先生の作品ですが、2020年の『揺り籠のアディポクル』(講談社)はある意味でパンデミックそのものがテーマになっていますし、2022年2月の『断罪のネバーモア』(KADOKAWA)もパンデミックが起こって、それがいったん落ち着いた日本が舞台になっています。今回のコロナの流行は作家として避けて通れないものだとお考えですか。


市川:今、小説に限らず創作物には「2020年問題」というものがあると考えています。コロナでパンデミックが起こって生活も一変しました。その中で舞台設定をどうするのかということを、小説でも考えなくてはいけなくなりました。コロナそのものを題材にした作品も出てはいますが、そうではなくても、2020年代の諸相を正面切って描こうとすると、どうしてもコロナが日常になって来てしまいますね。


――コロナ前の2019年に発表した『神とさざなみの密室』(新潮社)でも、政権打倒と外国人排斥という対立する勢力の2人が殺人事件に遭遇する設定になっていて、社会問題に斬り込む姿勢がうかがえました。


市川:『神とさざなみの密室』は、テーマになっていることを今のうちに書いておかないとまずい、ここを逃したら機会が無いという思いで初稿を書き上げて出版社に渡しました。ボツを食らうかもと思いましたが、担当がふところの広い方で、刊行して戴けてありがたく思っています。


■特殊設定ミステリーとの出会い


――市川先生は2016年に第26回鮎川哲也賞を『ジェリーフィッシュは凍らない』(東京創元社)で受賞してデビューされましたが、それ以前から執筆活動はされていたのでしょうか。


市川:小説を書き始めたのは大学に入ってからになります。文芸サークルの「新月お茶の会」に入って会誌に書きながらコンテストにも応募していたんですが、ずっと蹴られていました。就職してからは書く時間がとれなくなってしまい、これではいけないと思ってコミックマーケットに出展して同人誌に小説を書きながら、応募を続けていました。それで東京創元社のミステリーズ!新人賞に応募したところ、最終選考まで残ったのですが選考委員の先生から口々に「長編向きだろう」と言われて、それならと書いたのが『ジェリーフィッシュは凍らない』になります。


――現実世界とは少し違ったテクノロジーが存在する世界で起こる事件を描いた、いわゆる特殊設定ミステリーでした。


市川:元々は通常の飛行船を登場させるつもりだったのですが、それでは難しいということでジェリーフィッシュという特殊な飛行船のアイデアを考えました。いったいどうやって作られるのかを考えるのには苦労しましたが、M気があるのかそうやって苦労するのも楽しみのひとつで、苦痛には感じなかったですね。


――荒木あかねの『此の世の果ての殺人』(講談社)が受賞した第68回江戸川乱歩賞は最終候補作がすべて特殊設定ミステリーだったそうですが、それらより早く特殊設定ミステリーを書き始めていたと言えます。


市川:西澤保彦先生の影響が大きいですね。新本格自体は大学に入る前から第一世代の先生方の作品を読んできましたが、大学に入った頃に西澤先生や京極夏彦先生、森博嗣先生が登場してきて、浴びるように読みました。そこで『完全無欠の名探偵』や『七回死んだ男』といった西澤先生の作品を読んで、現実とは外れた要素を絡めて謎解きが行われるという特殊設定のミステリーに最初に触れて、こういうことが描けるんだと思うようになりました。


――鮎川賞では市川先生の翌年に今村昌弘先生が『屍人荘の殺人』(東京創元社)で受賞しデビューされました。これも一種の特殊設定ミステリーでした。


市川:今村先生の『屍人荘の殺人』は鮎川賞受賞作では空前の売れ行きとなりましたが、やはり面白くてジェラシーを感じてしまいます。ただ、自分は同じミステリー作家として突飛な発想が出せないので、現実世界を土台にしてその上に特殊設定を置いていくような作品を書いていくことになると思います。


――市川先生は、東京大学の「新月お茶の会」出身であることをプロフィールにも書かれてますが、どのような文芸サークルなのでしょう。


市川:『SF・ミステリー・ファンタジー・エトセトラ』ですね。大学に進んだ時に、ほかにミステリー専門のサークルが無かったので入りましたが、入会当時は創作でミステリーをやろうとしているのは私だけでした。年に4回会誌を出していて、その回ごとにテーマがあって、お題をもらって短編を書くコーナーに書いていました。ミステリーばかりではなくホラーテイストのものだったり、ドタバタ劇だったりと色々なものを書いていました。文章を書くことに慣れる経験ができて、今の自分の血肉になっていると思います。


――『ジェリーフィッシュは凍らない』から始まる〈マリア&漣〉のシリーズは、長編が3冊と短編を集めた『ボーンヤードは語らない』が出ています。ファンも多いシリーズですが、こちらの予定は?


市川:シリーズとして続ける予定です。忘れられないうちに続編を出したいですね。デビューして3作目を出した後は、他の出版社から依頼を戴いた順番にお仕事をさせていただいてきました。『灰かぶりの夕海』もその1冊ですが、〈マリア&漣〉のシリーズも合間に「ミステリーズ!」に短編を掲載させていただいています。書いていない年はないですね。


――同じミステリー作家で現在、関心を持っている作家や作品はありますか?


市川:方丈貴恵先生ですね。同じ鮎川賞の出身で、1月に『名探偵に甘美なる死を』(東京創元社)を出されました。〈竜泉家の一族〉というシリーズ物の最新刊です。そして白井智之先生。『名探偵のいけにえ―人民教会殺人事件―』(新潮社)が刊行されたばかりで、グロテスクと本格謎解きの融合した作風がたまりません。


――次の予定があれば聞かせてください。


市川:今は長編のプロットを出して返事を待っているところです。そちらが終わったら新しい出版社から出すことになると思います。


――期待しています。本日はありがとうございました。