2022年10月05日 07:01 リアルサウンド
私生活のすべてが伊集院静「脳」になってしまったという放送作家の澤井直人。彼がここまで伊集院静さんを愛すようになったのは、なぜなのか。伊集院静さんへの偏愛、日々の伊集院静的行動を今回もとことん綴るエッセイ。
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前回、伊集院静さんと先生について書かせて頂いたが、
先生なき独走時代、伊集院静さんは“舞台演出家”をしていたということをご存じだろうか?
ときは1970年代末。あのユーミンこと松任谷由実&正隆夫妻が当時CMディレクターをしていた伊集院さんの元に「ステージを作ることは出来ますか?」と訪ねて来たのだ。
ユーミンは20代半ば、一流ミュージシャンとしての地位を着実に築きつつあった時代(とき)だ。
その依頼内容は……『楽曲に込めた自分のイメージをヴィジュアル化したい』というものだった。
今では信じがたいが、当時のコンサート演出というのはテレビ局のスタッフがアルバイトでやったり、ミュージシャン自ら手がけるという形が多かったという。
音楽の世界を、ヴィジュアルで表現する。未経験で、かつ難しい課題ではあったが大きな、やりがいのある仕事だったので伊集院さんはそれを引き受けた。
そこで演出という仕事を仕組みから大きく変えることにされたのだ。まずはステージのトーンから構成、流れまでを、一枚一枚、絵に描いて起こす『絵コンテ』を作った。
これで全体のイメージを作ると、第一線で活躍しているスタイリストや舞台美術家といった、衣装、美術の専門家を集めてスタッフィングを強化。ユーミンさん本人、メンバーの衣装を刷新し、アルバムから広がるヴィジュアルの世界を構築していった。
一方で、ミュージシャンの聖域であるバンド編成にもテコ入れを図った。具体的にどうしたかというと、メンバーに「踊れ」と命じたのである。予想通りこれには反発もあったが、
「踊れないメンバーは、外す」とまで伊集院さんは宣言した。
音楽の世界観を視覚的に表現するためには、ミュージシャン自身も加わらなければ話にならない。方針は曲げる気はなかったという。照明、音響、その他のスタッフを加えると、新編成は合計で100名近くのまったく新しいチームが誕生した。
チームが新しくなってからどんどんとアイデアを形にしていく。最初の仕事は、アルバム『OLIVE』(79年)をひっさげての全国ツアー。綿密な絵コンテと脚本を書き、それに沿ってスタッフを動かした。
アーティスト本人だけじゃなく、全員の意識を高めリハーサルには通常のコンサートの十倍以上の時間を費やした。それはこれまでのコンサートの枠を超えた、まだ誰も見たことのない画期的なクリエイションだったと振り返る。
さらに! そのメイン公演ともいえる、東京・サンプラザでのステージに、ある大仕掛けを投入し勝負をかける。
それは……「ゾウ」を登場させたのである。もちろん、仏像や銅像ではなく正真正銘生きた動物の「象」だ。さすがに大きいだけあって象の威力は絶大だった。このゼロイチにより、「ユーミンのステージは凄い」とあちこちで話題を呼んだのだ。こうして、舞台演出としても大成功を収めた。
それから、松任谷夫妻と伊集院さんのコラボレーションはステージからアルバム作りまで含めてしばらく続いた。
アルバム『時のないホテル』(80年)では、「スパイの出てきそうな場所で」というユーミンさんの発案を受け、イギリスの名門ホテル・ブラウンズホテルでのロケを敢行し、
ミステリアスなジャケットを作り上げた。
水とあじあのをモチーフに作られたアルバム『水の中のASIAへ』(81年)のツアーの際は、実際にステージ全面に水を張り、コンセプトを表現した。とにかくアイデアは全て形にしていかれた。
ステージを作る過程を伊集院さんは『打ち上げ花火』に例えられる。ぱっと上がって花開き、その日、その場所、その一瞬のうちにあっけなく消えてしまうものに、惜しみなく、金と労力を注ぎ込む。その儚さ、美しさを堪能し、客にも堪能させること。それが伊集院静さんのステージであった。
その後、小説家に専念されるまで松田聖子さん、薬師丸ひろ子さん、和田アキ子さん、
数多くのステージやファッションショーを手掛けられた。
これは、今でこそ当たり前のことであるが業界にとっては革新的なゼロイチ(クリエイティブ)だったのだ。
放送作家をしていても肌で感じるのだが、まだ誰も足を踏み入れていない土地に旗を立てる、“ゼロをイチ”にする作業が一番難しい。
それを当時の伊集院さんは軸になるコンセプトから建築し、業界の概念をヒックリ返された。そう、ゼロイチされたのだ。さらには、今で言うバズらせることまでやってのけていたということになる。恐ろしい。
私は今テレビの世界を主戦場に生きているが、1953年から100年も経っていないテレビ史の中でもうほとんどの地に、テレビマンの先人たちは旗を立ていかれた。
しかし、今のテレビ制作を見ていると…先人たちの偉大な功績に甘えすぎな気もしている。(自分も含めて……)
平成の人気番組を復活させたり、過去の偉大な企画をリニューアルさせたり、
似たような企画やキャスティング(座組み)を周回させたり……。
そう思うと、昭和平成のバラエティは凄かった。
まだ、世の中が認識していなかった当時のナインティナインさんをフジテレビの片岡飛鳥さんは自分の目利きで発掘しレギュラー番組のMCに抜擢した。
増えすぎた芸人が自分の人生と見つめ直す為、そのきっかけとして島田紳助さんはM-1グランプリを開催した。
国民的スターSMAPはアイドルなのに、テレビの前で芸人さん顔負けのコントを披露し笑いを量産した。
他にも、バラエティを彩ったゼロイチを挙げればキリがないが間違いなくそのゼロイチが子どもの頃の視聴者だった私をザワつかせたことに違いはない。
だからと言って、まだテレビ界にも旗を立てる土地(ブルーオーシャン)は残っていると信じている。
時間に忙殺されると企画会議は減っていってしまうが、時間を無理に縫ってでも企画書を書き続ける理由は、ブルーオーシャンの景色が見たいから。それに尽きる。
伊集院静さんのステージ演出から、そんなことを見つめ直した。