Text by 野中モモ
Text by 後藤美波
鬱屈した日々を送るシイノトモヨが、テレビのニュースで親友マリコの死を知り、その遺骨を奪って旅に出る──。平庫ワカによる漫画『マイ・ブロークン・マリコ』は、2019年にウェブ漫画として連載されて更新のたびに話題を集め、『この漫画がすごい!2021 オンナ編』第4位、2021年『文化庁メディア芸術祭』マンガ部門新人賞など高い評価を獲得した。
女性の置かれる過酷な状況を描くとともに、女性ふたりの濃密な関係性を描いた本作が、このたび永野芽郁主演、タナダユキ監督で実写映画化された。ライター・翻訳家の野中モモは、日頃厳しい現実を生きるなかで、フィクションでも女の子が悲しい目に遭う話はあまり見たくない、との思いがあるという。原作刊行時も恐る恐る読んだという野中が、映画『マイ・ブロークン・マリコ』をレビューする。
「亡き親友の遺骨を奪って旅に出る」という時点で、悲しい話であることはもう確定している。スカッとするハッピーなエンターテイメントを求める人には、明らかにお薦めできない類の作品である。そういえば原作の漫画がネットで話題になった際も、常日頃から「現実がこんなにつらいことばかりなのに、かわいそうな女の子が死んじゃう話なんてわざわざ見たくないよ~」と感じている自分としては、だいぶ警戒して恐る恐る読みはじめた記憶がある。そして、大評判になるのも納得のたいへん力のある作品だと思ったものだ。
平庫ワカによる漫画『マイ・ブロークン・マリコ』は、壊れた女の子が死んでしまう話であるのと同時に、しっかり生き延びてしまう女の子の話でもあった。そして、「現時点で何かを創作したり鑑賞したりしているのは所詮生きられる側の人間なのだ」ということの残酷さを抱えながら、なんとか優しく生命を肯定しようとしている、痛々しくもあたたかい余韻を残す作品であるように感じられた。
原作者・平庫ワカの描き下ろしイラストによる映画『マイ・ブロークン・マリコ』ポスター ©︎2022映画『マイ・ブロークン・マリコ』製作委員会
この、新人漫画家によるデビュー単行本(1巻完結)の映画化という珍しい事態は、本作の監督・共同脚本を手掛けたタナダユキの熱意がきっかけとなって実現されたそうだ。「原作を読み終えた瞬間、何かに突き動かされるように、後先も考えず映画化に向けて動き出しました」と、彼女は語る。
まず人気スターのキャスティングありきで原作にちょうどいい作品を探してきているのが容易に推測できるような、漫画の雑な映画化・ドラマ化が横行してきた日本にあって、このように監督の強力なモチベーションに導かれた漫画原作映画が生まれたのは喜ばしいことだ。そういうわけで映画版『マイ・ブロークン・マリコ』は、細部まで原作への敬意と愛情に満ちているのと同時に、映画と漫画というメディアの違いについても考えさせられる作品となっている。
『マイ・ブロークン・マリコ』 ©︎2022映画『マイ・ブロークン・マリコ』製作委員会
営業の仕事をしている若い女性、シイノトモヨ(永野芽郁)は、昼食にラーメンをすすっていたとき、突然に店内のテレビのニュースから親友の死を知る。自宅マンションのベランダから転落死しているところが見つかったという26歳の女性・イカガワマリコ(奈緒)は、シイノにとって幼い頃からのダチだった。シイノの脳内には、だいぶ昔からつい最近までのマリコとの思い出がフラッシュバックする。母親に捨てられ、父親(尾美としのり)に酷い虐待を受けてきたマリコ。シイノは衝動的にマリコの実家を訪れて遺骨を強奪し、かつてマリコが行ってみたいと言っていた「まりがおか岬」を目指す。
シイノを演じるのは永野芽郁。雑誌『Seventeen』の専属モデルを経て、2017年に人気少女漫画の映画化『ひるなかの流星』で映画初主演。翌2018年にNHK連続テレビ小説『半分、青い。』のヒロインに抜擢という、陽のあたる大通りで愛くるしい姿を見せてきた彼女にとって、今回のタバコを手放さず履きつぶしたマーチンで逃亡するがらっぱちな女の役は、新しい挑戦だ。
また、マリコ役は、『半分、青い。』でも永野芽郁演じるヒロインの親友役だった奈緒。そうした背景を踏まえている人にだけ感じ取れる味わいもあるだろうし、逆に親しみがない場合はふたりを「シィちゃんとマリコ」として受け入れやすいだろう。
さて、漫画を映画化するにあたって難しいなと思うのは、漫画では登場人物のモノローグとして十分に説明されている心の動きを、映像でどう見せるかである。この作品では、映画としては過剰なほどに、主人公に内語としての言葉を発声させることが選ばれている。この世界はこういうルールで動いているし、「彼女は考えていることがすぐに独り言として口から出てしまう人なのだ」ということで押し切り、ちょっと舞台劇のようでもある。それもひとつのやり方だと思う。
そして逆に、漫画にはない映画のアドバンテージといえば、人間がリアルな空間を動くことで醸し出される生々しさである(近年はCGを多用してほとんどアニメーション状態になっている場合もあるが)。町中華の店、雑然としたオフィス、中野区の安アパート、深夜バス、田舎町の酒場、ススキの生えた海辺の崖などのロケーションは饒舌だ。たとえば漫画では数コマ描きこまれていたチープな星型のライトチェーンが光る部屋、そこで離人症的に佇むキャミソールドレス姿のマリコの図は、作品世界をぐぐっとスクリーンのこちら側に引き寄せ、確かに現実に存在していそうな壊れた女の子たちのことを思わせるのだ。
『マイ・ブロークン・マリコ』 ©︎2022映画『マイ・ブロークン・マリコ』製作委員会
永野芽郁はシイノとしてボロボロになって倒れ、起き上がり、走り出し、ジャンプする。そうした動きが、血の通った人間らしい重みを感じさせるのも実写ならではだ。クローズアップされた時のしっかりした鼻筋とくっきり見える眼球もかっこいい。
また、人が発する声の響きも、漫画とは違う映画ならではの強烈な表現だ。記憶の中でリフレインするマリコの声は身体にはたらきかけて、シイノの脳内に刻まれて離れない濃い時間を伝える。少女時代のふたりを演じた子役たちも、違和感なくいい雰囲気を出している。
とはいえ、その映像ならではの生々しさを、暴力に関してはこれみよがしに押し出さないことが、作品を観やすいものにしている。原作でもそうだったが、虐待を受けているということは、それを語る言葉のほかに傷や青あざ、ドアの向こうから響く声で示され、直接には描かれない。だからこそ、手首に血がにじむ自傷のシーンがとてもショッキングで心臓に悪く、印象に残る。
『マイ・ブロークン・マリコ』 ©︎2022映画『マイ・ブロークン・マリコ』製作委員会
失われた親友を弔う女性の物語と聞くと、『プロミシング・ヤング・ウーマン』を思い出す洋画ファンも少なくないだろう。だが『マイ・ブロークン・マリコ』の場合は復讐を目指す話ではないし、終着点はだいぶ違う。
自分の場合、映画版『マイ・ブロークン・マリコ』を鑑賞し、漫画を再読した後に連想したのは、なぜか『ジョジョの奇妙な冒険』だった。思いがけない偶然に頼った作劇をアクションと漫画的な演出のうまさで納得させる力技や、東北っぽい海辺の崖の光景などが両者に通じる点として挙げられるが、それを感じたいちばんの理由は、出会いの不思議と見知らぬ人の善意の連鎖が描かれている部分だろう。
マリコは、人が理不尽に人を傷つける悪循環にはまって壊れてしまった不運な女性だ。しかし逆に、この世には、見知らぬ人のちいさな善意が他の人の行動を促して悪が滅ぼされ、誰かの命が助けられることもある。というか、生きている以上はそう信じないとやってられない。『ジョジョ』は、「ジョースター家の一族の物語」と説明されることが多いが、じつはそういった血縁によらない人と人のつながりと善き想いの継承を描き続けてきた漫画である(「強い奴の息子が強い」漫画だと誤解している人は作品を読んでその認識を改めてほしい)。シイノだって、マリコの父親の再婚相手であるタムラキョウコ(吉田羊)の行動や、道中でたまたま出会ったマキオ(窪田正孝)の親切があったからこそ、なんとか逃避行を続けることができたのだ。
『マイ・ブロークン・マリコ』 ©︎2022映画『マイ・ブロークン・マリコ』製作委員会
さらに両作品とも「重力」がキーワードとなっているところも共通する。一般的に言って、重力に縛られる度合いが強いのは、現実世界>映像>漫画の順だろう。紙の上の漫画のキャラクターたちは、あたりまえだが現実世界に生きる私たちに比べて物理法則から自由に見える。映画化された漫画を観ると、これは現実と漫画のあいだに位置するものだなあ、と思う。だが、いちどこの世に生を受けたキャラクターたちと物語には、フィクションといえど紙の上に「実在」する人々として、物理的な力とはまた別の「重力」が発生するのである。
アメリカの作家ロクサーヌ・ゲイは10年近く前に、「苦闘の物語を超えて」と題したエッセイ(『バッド・フェミニスト』収録)で、黒人をフィーチャーした映画に関して、過酷な差別を直接的に描いた物語が『アカデミー賞』などのメジャーな賞レースで高い評価を受けがちな状況を批判していた。
つらい歴史を共有する必要性はたしかにあるが、奴隷制の悲劇をとりあげ、むごたらしい暴力を(たとえそれが抵抗を描くためのものではあっても)描写する作品がたびたび高く評価されている背景には、白人中心の価値基準とサディスティックな欲望の存在があるのではないかと彼女は疑う。つまり、重厚な悲劇に比べてコメディーやロマンスが軽視されてしまうのは、どんな分野においても見られる傾向だが、特に黒人が中心となったメジャーな作品に関しては、とにかく悲劇以外の数が足りない、他にも多彩な語り方があるはずだ、という提言だ。
『マイ・ブロークン・マリコ』 ©︎2022映画『マイ・ブロークン・マリコ』製作委員会
単純な比較や順列づけは避けるべきではあるが、これは、あらゆるマイノリティーの物語について言える問題ではないだろうか。「なんてことない軽い作品」がたくさん存在することの大切さ、その豊かさは軽視されてしまいがちだ。それと同時に、女性観客は「ハッピーなラブロマンス」を求めていると思われがちだけれど、本当にそうだろうか、という問題もあるわけだが……。また「ハッピーなラブロマンス」の何が悪いのか、「何をもってハッピーとするのか、ラブとするのか」という問題も。
こうした議論を踏まえて、いま、弱い者への加害を「見世物」にすることを避けながら、現実に存在する傷ついた人々の想いと通じ合う物語をどのように描けばいいのかが模索されている。『マイ・ブロークン・マリコ』は、こうした問題意識が共有される時代にあって、壊れてしまった女の子を、そして女性たちの濃い関係を描かねばならない、撮らねばならない、という気迫を感じる作品だった。それはひとつの挑戦であり、いまだからかたちになった冒険物語でもあるのだ。