トップへ

水木しげるが人生を通じて描き続けた妖怪たちは、現代に何を伝える? 妖怪研究者・小松和彦に聞く

2022年09月29日 17:00  CINRA.NET

CINRA.NET

写真
Text by 島貫泰介
Text by 川浦慧

『妖怪ウォッチ』『鬼滅の刃』『呪術廻戦』など、この約10年で妖怪や怪異を題材とする物語が国民的ヒットとも言える人気を集めてきた。そういった不思議なもの、日常の裏にあるものへの人々の関心は、自ずと現代の妖怪表象のオリジネイターである漫画家・水木しげるの創造へとつながっていくだろう。

水木が生まれ今年で100年が経つ。彼が生まれ育ち、漫画家・妖怪画家として活躍してきた、日常の隣に不思議なもの・不可解なものの気配があった時代と、ネットやSNSを介して何もかも「知ったような」気分を得られる現代では、社会の状況が大きく異なる。しかしそれでもなお「妖怪的」なるものに人は魅せられている。ならば、あらためて日本人の妖怪観を決定づけた水木について考えることには意味があるはずだ。

東京で開催され、現在は滋賀県にある佐川美術館で開催中の『水木しげるの妖怪百鬼夜行 ~お化けたちはこうして生まれた~』も、今日の時代精神を反映した展覧会だといえるだろう。妖怪学研究を行ない、水木とも長く親交をもった小松和彦に、水木しげるとは何か? 現代において妖怪とは何かを聞いた。

小松和彦(こまつ かずひこ)
1947年、東京都生まれ。国際日本文化研究センター所長。埼玉大学教養学部教養学科卒業、東京都立大学大学院社会科学研究科(社会人類学)博士課程修了。専攻は文化人類学・民俗学。著書に『いざなぎ流の研究─歴史のなかのいざなぎ流太夫』(角川学芸出版)、『神隠しと日本人』『妖怪文化入門』『呪いと日本人』『異界と日本人』『鬼と日本人』(角川ソフィア文庫)、『百鬼夜行絵巻の謎』(集英社新書)、編著に『妖怪学の基礎知識』(角川選書)など、多数。2013年、紫綬褒章受章。2016年、文化功労者。

ー小松先生は『水木しげるの妖怪百鬼夜行 ~お化けたちはこうして生まれた~』展の監修をなさっています。妖怪や水木先生にかかわる展覧会はこれまでも多くありましたが、今回はどのような特徴の内容でしょうか?

小松:水木さんが7年前に亡くなられたとき、追悼のための展覧会がたくさん開催されました。その雰囲気の名残りがまだあるタイミングで今年の生誕100周年を迎えることになり、水木プロの側から「妖怪にしぼった展覧会をしたい」という話をいただいたのがきっかけです。

よく指摘されてきたことですが、水木さんが描く妖怪には元ネタが多くあり、今日から見ると「パクリでは?」と思われるようなものも多くあります。そこで展覧会では、彼の絵がどのような流れでできあがっていったのか、何を重視していたのかを考える展覧会にしようと話し合いました。そして、もちろん水木さんの原画も数多く紹介して、ある種「水木しげるの書斎」を覗き見している気持ちになれるようなものを目指して始まりました。

ー小松先生が監修した「怪異・妖怪伝承データベース」という充実したプラットフォームが立ち上がるなど、現在では妖怪にかかわる学問、妖怪学研究が進んでいます。そういった研究領域と、水木さんが創造してきた漫画表現はどのような関わりをもってきましたか?

小松:水木さんの漫画の仕事と妖怪の研究は両輪のように進んできたと思います。漫画の人気が出れば、妖怪研究も人気が出て……という風に。

1992年に最初の『カラー版 妖怪画談』(岩波書店)が発刊して大評判となり、それをもとにして水木さんの展覧会が始まりました。そのあたりから水木さん自身が、自分の妖怪画の元ネタとして柳田國男の『妖怪談義』(1956年初版、修道社)や、鳥山石燕ら江戸時代の絵師の描いたものを工夫して自分なりの絵にしてきたと語るようになっていました。

そうなると、水木さんの展覧会の一角に、彼が影響を受けた歴史史料を展示するコーナーをつくったり、逆に妖怪についての展覧会で日本の妖怪文化の現在という扱いで水木さんの活動が紹介されたりする。そうやって、漫画家の水木さんとぼくら研究者の交流が続いていったんです。

小松が監修を務める「怪異・妖怪伝承データベース」(サイトはこちら)

ー妖怪に限りませんが、怪異を描く漫画家は水木先生のほかにも多くいらっしゃいますよね。小松先生はそういった方との交流や、展覧会で関わるような機会はあったのでしょうか?

小松:なかなか難しいんですよね。展覧会をやったとしても、あくまでも「誰々という漫画家の展覧会」として個別的になってしまうから。水木さんの描く漫画は、彼自身の世界でもあるけれど、同時に大衆文化や日本文化との接点をたくさん持っていて、作品自体が作家個人で終わらずに、その外の社会にも広がっていける力がありました。もしも『ゲゲゲの鬼太郎』だけであれば、ぼくもここまで長くつきあうことはなかったと思います。ライフワークとなった妖怪画や『河童の三平』など、水木さんがつねに妖怪とともにあったからこそ、ですね。

ー水木先生との最初の出会いは?

小松:雑誌『ユリイカ』で1984年に特集した「妖怪学入門」での対談です。ぼくは30代と若くて、水木さんは忙しさのピークを抜けていちばん調子が悪いタイミングだったと思います。家族にも「もう妖怪なんかいないよ」と言ったり、自伝的な作品を多く描いて、生前墓もつくって、あとは静かに余生を過ごそうか……という感じのときでしたね。

ーもう妖怪について広めたり深めたりはしないと。

小松:でも、ぼくはいまこそ妖怪が流行する時代なんじゃないかとお話ししたんです。ファンタジーを扱う漫画や物語がどんどん出てきて、妖怪にも注目が集まるようになりますよ、と。水木さんは「そうかなあ」なんておっしゃっていましたけど、その後に妖怪画をたくさん描くようになり、その8年後に『妖怪画談』をヒットさせて、すっかり元気を取り戻してましたね(笑)。

ー水木さんの妖怪が再注目された理由はなんだったと思いますか?

小松:水木さんの絵がかきたてるノスタルジーではないでしょうか。妖怪というのは前近代のものです。未来の妖怪ってあまり考えられないので、農山村のなかで語られてきた妖怪を彼は描きたかった。たまに口裂け女みたいなものも描きますが、それも高度経済成長期以前の昭和の都市の風景のなかにいる妖怪でしょう。

我々の世代だと、水木さんが描いているノスタルジーの世界の感触を覚えています。そういう世代が親子で水木さんの描いたものを見ていると、かつての日本の風景があり、その生活のなかでは「お化けが出るから暗くなる前に帰ってきなさい」といった話をリアリティーを持って、親が子どもに伝えることができるんです。

ー共同している体験があり、水木さんの絵がその感覚を蘇らせるんですね。

小松:そこが水木さんの妖怪画のもっとも特徴的なところだと思います。親しみがあり、柔らかさもある。江戸時代の絵を写しても、水木さんのものは柔らく感じられる。おそらく線描ではなく点描で描く技法の力もあるでしょう。

また妖怪だけでなく、緻密な背景、妖怪に遭遇した女の子やお百姓さんも描かれているのも大きなポイントです。不思議な体験を覗き見しているような物語性があり、読者はそこに自分を重ねてみることができる。

べとべとさん / ©️水木プロ

ーべとべとさんに追われて気持ちがいっぱいいっぱいになっている青年とか、本当に巧みですよね。対談をきっかけに親交をもつようになって、水木先生とはどんな妖怪談義をしてきましたか?

小松:細かいことは覚えていないけれど、元気になってからは「小松さんは妖怪を信じてないけど、私は信じてますよ」とか言われました(笑)。それはともかく、同じ妖怪愛好家として励ましあってきました。当時は「妖怪を題材に研究するなんて学問ではない」と言われる時代でしたが、その約10年後にぼくが『妖怪学新考 妖怪からみる日本人の心』(1994年、小学館)を出して、ほぼ同時期に京極夏彦さんが『姑獲鳥の夏』(1994、講談社)を発表して、そして水木さんは妖怪画を描き続けていた。そうして、1990年代には妖怪が注目を集めるようになっていったんです。

ーそれぞれが並行的に進んでいって。

小松:ぼくの持論として、研究は一人でやってはいけないんですよ。例えば「小松妖怪学」みたいなかたちでそれなりに評価されたとしても、それは個人の仕事でしかなくて、継承されず発展もしていきません。ぼくの師匠は山口昌男ですが、教え子である我々も山口と同じように本を読んだり同じような経験を積むことはできませんからね。自分だけ評価されても、それでは「学」にならないんです。

共通のプラットフォームみたいなものつくって、いろんな人がそれぞれに研究をし、自分に欠けているものを補い合う。それが学際的ということですし、日本文化のなかに地下水脈のようにある妖怪を発掘して、豊かな世界を見えるようにしたかったんです。

ーそこで水木先生が果たした役割も大きかったのでしょうね。ビジュアルとして視覚化された妖怪たちは、ぼくもそうですが、いろんな人に不思議なものに対する好奇心や興味を植えつけてきましたから。

小松:そのとおりですし、研究者としても大変ありがたかったですね。というのもぼくが研究を始めたときは妖怪の絵がなかったんです。いや、正確にはあったんだけど見ることができなかった。

ーどういうことでしょう?

小松:博物館の所蔵品には妖怪が描かれた史料は多くあるのですが、大学院生ぐらいではなかなか見せてもらえないんですよ。所蔵品を見るには学芸員の付き添いがいりますし、しかも絵巻物は見るための手間がかかるからです。

ーたしかに。開いたら、またきちんと巻き取らないといけないですからね。

小松:その作業が学芸員の業務を阻害してしまうと言われ(苦笑)。なので、以前撮った写真を収録した本を参照してくださいと言われたりするのですが、大抵の場合、白黒写真しか載ってないんです! カラーで見たいのに! かつての国文学研究でも、大切なのは文字情報で、絵に関しては「こういう感じの挿絵がどこそこに描かれている」ぐらいの記述しかなくて、大変でした。

そういう厳しい時代を経て、やがて映画やテレビが普及してビジュアルが重視される時代になっていきました。そうすると、多くの人たちが情報量のあるカラーの図版や映像を見たいと声をあげるようになる。そのときに、テレビや雑誌で紹介される水木さんの妖怪はその好奇心を喚起させるものとして、大変強力でした。

ー水木さん自身も膨大な史料を集めていますよね。

小松:研究者顔負けなぐらい。神保町の古書店に通うのはもちろん、江戸時代の本を譲ってほしいという新聞広告も出していましたね。漫画家はお金をもっていたけれど、我々は貧しくて買えない(笑)。

だから水木さんが描いた妖怪を見て、こういうものなんだと知る機会もずいぶんありました。それ故の失敗も数多くあるんですけどね。

ー失敗というと。

小松:水木さんが江戸時代の絵や民芸品を源にして妖怪を創造していたのは有名ですが、そのことを自分からは明らかにしないんですよ。歌川国芳くらい有名なものであれば判別できるのですが、例えばぼくの失敗例だと、小豆洗い。

現在は竹原春泉斎の『絵本百物語』に元ネタがあると明らかになっているのですが、当時の解説のなかで「水木しげるのオリジナリティーが素晴らしい」というようなことを書いてしまいました。本人にも同じことを言ったのですが、おとぼけだから「わはは! ゲゲゲ!」と笑って教えてくれず(苦笑)。

そういうのはたくさんあって、多くの研究者がだいぶ判別してくれましたが、まだ調べている人がいるぐらいですよ。

竹原春泉斎による小豆洗い(『絵本百物語』より)

水木しげるによる小豆洗い / ©️水木プロ

ー水木考古学的な研究ジャンルになっているんですね。そういうトリックスター的な部分は、ドラマや自伝的な漫画でもたくさん描かれているので、憎めないところですねえ。

小松:出典を明かさないのは研究者泣かせですが、水木さんによって姿を与えられたことで広く知られるようになった妖怪や風景がたくさんありますからね。パンデミックで知られるようになったアマビエは、もともとアマビコとして研究されてきた妖怪でもあるけれど、水木さんの絵の説得力がなければ、今回ここまで知られることはなかったように思います。

もちろん、水木さんの絵が素晴らしすぎて、まるで昔から存在したように思われている妖怪もいますが。例えば座敷童は知名度がありますが、江戸時代の随筆にそのような記述はなく、柳田國男の『遠野物語』ぐらいしか史料がないんです。

ー私は1980年生まれで、おそらくちょうど水木先生が落ち込んでいた時期の『ゲゲゲの鬼太郎』のアニメ第3シリーズ(1985~88放送)で妖怪と出会った世代です。そのときに描かれていた水木妖怪が、自分の妖怪観のスタンダードになっていて、そのトリックスター的なところも含めて水木先生の影響力の強さを感じてきました。

小松:水木さんが妖怪として描きたくなるもの、そして描いたものの強さですよね。「妖怪感度」と彼は言っていましたが、そこにハマるものは江戸時代の史料だけでなく、自身の経験もあったし、かわいらしい民芸品、神隠しについての新聞記事、風景を撮った写真と膨大にありました。それらはスクラップブックに収集されて、水木さんが妖怪にしたいものと出会ったときに組み合わさって創造されるんです。

ーそれをふまえると、水木しげるとはブリコラージュ(さまざまな物を素材として寄せ集め、作品物として結合する手法)のアーティストだったのだなと思いました。

小松:まさにそうです。しかもそれがうまくつくられているから、読者に恐怖心を与えて、かつ自分を同化させるような仕掛けになっている。

ー小松さんにとって、水木しげるという漫画家・アーティストの今日的な意義とは何でしょうか?

小松:ぼくも水木さんも『ゲゲゲの鬼太郎』の登場人物では、ねずみ男が好きなんです。それは、彼が俗っぽい人間世界につながっていたり、妖怪の世界で鬼太郎を騙したりもするトリックスターで、なんとも人間的だからです。水木さんは戦争を生き残り、貧しい生活を経験しているので、そういう場所から人生なり人間なりに眼差しを向けているんです。

『ゲゲゲの鬼太郎』はあまりにも大ヒットしてしまって、勧善懲悪的な正義の味方になりすぎてしまったけれど、本来水木さんがずっと描きたかったのは『墓場の鬼太郎』のような、人間に対しても悪さをする、生きるためにはいろんな悪事を重ねる存在、人々でした。つまり「生きるってなにか?」「幸せってなにか?」をつねに考えていたんです。

水木さんはよく「怠け者になりなさい」「そんなに働いてどうする」といったことを語っていましたが、それは現在を生きる我々への一種の警鐘であって、初期の『悪魔くん』や『河童の三平』にはそれが濃く現れています。

ーだとすると、水木先生の仕事でも評価の高い『総員玉砕せよ!』(1973年、講談社)などに描かれた極限状態のなかでの「人はどう生きていくか」という主題と、初期の妖怪漫画を描いたモチベーションには近いものがある気がします。

小松:非常に近いと思います。ただ、商業作家として生きていかなければならない現実があり、その矛盾についてずっと考えてきたと思いますね。水木さんは40歳を過ぎてから人気作家になって、たくさんお金が入ってきて注目を浴びたかもしれないけれど「こんなはずじゃなかった」という気持ちも持っていたと思います。

水木さんの描くもの、その筆致はどうしても前近代的なイメージを与えますが、彼自身はきわめて近代的な人間だったんです。『悪魔くん』や『河童の三平』には水木さんの人生哲学があるし、『ガロ』では一枚絵みたいな短編を多く描いてますが、それも社会的な側面を持っていました。今回の展覧会は、水木さんの創造力の源泉に光を当てたけれども、彼の社会批評的なものに特集した展覧会も面白いかもしれない。

水木しげるという漫画家と彼が描いたものを通して、ぼくたちはまだまだ多くの発見をすることができるはずです。