Text by 生田綾
Text by 堂本かおる
ディズニーが2023年に公開する映画『リトル・マーメイド』実写版の予告編が公開された。本作をめぐっては、黒人歌手のハリー・ベイリーが主人公アリエルに起用されたことからキャスト発表時から激しい論争が起きているが、予告編公開後も「思い出のアリエルと違う」などの意見が相次いでいる。こうした論争をどう考えたらいいだろうか。背景と、ディズニープリンセスのなかでも人気の高いアリエルを黒人俳優が演じることの意義について、ブラックカルチャーなどを専門とするニューヨーク在住のライター、堂本かおるさんが解説する。
9月9日、ディズニーが2023年5月公開予定の実写版『リトル・マーメイド』の予告編を公開するや、SNSに賛否が渦巻いた。その発端となったのは全米の母親たちが投稿した動画だ。自分の娘に予告編を「予告なし」に見せ、子どものリアクションを撮影して続々とアップしたのだ。
予告編は美しい深海のシーンから始まり、次いで海のなかを自在に泳ぐ人魚が登場する。けれど海中はほの暗く、人魚の顔も肌の色もわからない。やがてテーマソングを歌う主役の人魚、アリエルの顔がアップとなる。演じているのはR&Bシンガーのハリー・ベイリーだ。その瞬間、黒人の幼い女の子たちは満面の笑顔になり、「私みたい」とつぶやく。
年長の少女たちは「彼女、黒人!」と叫び、なかには泣き出してしまったティーンエイジャーもいる。どの子もオリジナル版『リトル・マーメイド』の大ファンであることが窺えるが、自分と同じ肌の色のアリエルが誕生するなど、想像だにしなかったのだ。
ハリー・ベイリー自身を含め、少女たちのリアクションを見た多くの人が涙を堪えられなかった。少女たちの歓喜は、じつは米国400年にわたる人種差別の裏返しだからだ。
その一方、「黒人のアリエル」への激しい反発の声も上がった。オリジナル版のファンからは「私の思い出を壊さないで」という声が上がり、「『リトル・マーメイド』はデンマークの作家アンデルセンの童話『人魚姫』を元にしており、ゆえにアリエルは白人だ」と、いわゆる原作原理主義の主張も出た。どちらの意見もアメリカのみならず日本でも噴出し、米国と同様の「炎上」状態となっている。
同様に炎上したとはいえ、黒人奴隷制の歴史を持つアメリカと、黒人の人口が少ない日本では黒人俳優が演じるアリエルに賛同であれ、反対であれ、背景理解に違いがある。
まず、アメリカの黒人は約400年前にアフリカ大陸から奴隷として拉致されてきた人々の子孫だ。奴隷解放は1863年になされたが、その後も激しい差別が続いた。黒人にも白人と同等の権利を保障する公民権法の制定は奴隷解放から約100年後の1964年だが、その時代もキング牧師をはじめ、黒人運動のリーダーや参加者は暗殺すらされている。以後も黒人差別は連綿と続いており、2020年に白人警官が黒人男性ジョージ・フロイド氏を殺害したことからBlack Lives Matter運動が再燃したのも記憶に新しい。
2020年、全米で再燃したBlack Lives Matter運動
黒人差別は直接的に人命を脅かすものだけではない。現代社会においては「制度的差別」もしくは「構造的差別」(systemic racism)の改善が叫ばれている。教育、就職、住宅などを含む社会構造に黒人が不利になる仕組みが織り込まれており、被差別側の努力だけではどうにもならない状態を指す。
映画などのエンターテインメント産業もまた、その構造的差別の問題を抱えている。映画業界は初期に白人(主にユダヤ系)によってつくりあげられており、白人製作者が白人オーディエンスを対象に白人の物語を送り出し続け、黒人はそれを鑑賞するしかなかった。
黒人が自分たちの物語をつくりたくとも映画業界は受け入れず、白人主演作に「彩り」として黒人を登場させた。その多くは使用人や犯罪者、もしくは歌と踊りはうまいが頭の回らない道化者の役だった。
ディズニーも初期の作品には黒人やアジア系などへの差別表現が含まれているものがあり、現在は視聴できないものや、オリジナル版『ダンボ』のように冒頭に「不適切な表現があります」と警告メッセージが出るものがある。
ディズニー・プリンセスも長らく白人のみのラインナップだった。1937年の『白雪姫」に始まり、『シンデレラ』(1950年)、『眠れる森の美女』(1959年)、『リトル・マーメイド』(1989年)、『美女と野獣』(1991年)と続き、初のマイノリティー・プリンセスが登場したのは1992年の『アラジン』ジャスミンだ。
その後、1995年の『ポカホンタス』(アメリカ先住民)、1998年の『ムーラン』(中国人)を経て、2009年『プリンセスと魔法のキス』にて初のアフリカ系アメリカ人プリンセス、ティアナがついに誕生した。『白雪姫』からじつに72年後のことだった。
そのティアナからさらに13年を経ての今回のアリエルに、まず黒人の母親たちが驚いた。母親世代の多くは『プリンセスと魔法のキス』公開時はすでに10~20代になっており、子どもの頃、自身を投影できる黒人のプリンセスを持ち得なかった世代だ。
母親たちは自分が渇望しても得られなかったものを自分の娘に大きなプレゼントとして手渡したく、内容を告げずに予告編を見せ、娘たちの喜びに満ちた笑顔を記録に収めたのだった。
欧州を出て北米に渡った白人は祖国の伝説や寓話をそのままキープし、豊富な「おとぎ話」を自らの物語として語り継いだ。しかし奴隷として連行したアフリカ人には本来の言葉を禁じ、英語のみを使うよう強制した(ただし奴隷たちが読み書きを学ぶことは厳禁した)。そもそも奴隷となったのは部族ごとに異なる言葉と文化を持つ人々の集合体であり、これらが合わさって米国黒人にはアフリカの伝承話があまり残らなかったのだと思われる。
結果的に欧州由来のおとぎ話とともに育たざるを得ない黒人の子どもたちは、欧州の古城に住むプリンセスに憧れる。
しかし、そこに描かれるのは透き通るように白い肌、黄金に輝く髪、紺碧の瞳を持つプリンセス。そうした特徴が美の象徴とされ、それらを持たない自分は美しくないどころか醜いのだと刷り込まれる。おとぎ話が子どもたちの自尊心を削っていくのだ。
自身の物語を持ち得なかったアメリカ黒人が原作として使えるおとぎ話はごく少なく、西洋由来のおとぎ話を転用せざるを得ない。前述したディズニー初のアフリカ系アメリカ人のプリンセス作品『プリンセスと魔法のキス』も、アメリカの白人作家による白人のお姫さまの物語『カエルになったお姫さま』を原作としており、同作はグリム童話『かえるの王さま』をベースにしている(*2、3)。
アメリカの人種差別は肌の色、髪の質、顔立ちといった外観の違いから始まる。だからこそ、アメリカでは「レプリゼンテーション・マターズ(representation matters)」(描写の重要性)が訴えられている。白人のマーメイドに憧れながらも初めて黒人マーメイドを見た瞬間の黒人の子どもたちの歓喜とプライドの表情と「私みたい!」の言葉が描写の重要性のすべてを物語っている。
子どもの健全な成長に欠かせないロールモデルとは、いまの自分より優れているが、自分も「なれるかもしれない」対象を指す。いくら憧れても自分は到底なり得ない白人マーメイドではなく、自分と同じ肌の色、同じ髪質、同じ顔立ちのマーメイドが、わずか1分半の予告編だけで、黒人の子どもたちに自尊心と将来への希望を抱かせたのだ。
対して日本での人種差別の対象の多くは、かつては東アジア系であり、つまり差別する側とされる側の外観が同じであるあったことから、肌の色の違いがもたらす社会現象が理解されづらい。また、日本は白人の人口が極めて少なく、都市部を除けば実生活で出会うことはあまりない。ゆえに日本人はメディアを通して見る白人を実存感の伴わない「憧れの対象」として受け入れてきた歴史がある。
こうした社会事情が理由の「カラー・ブラインド(color blindness)」思想も広く見受けられる。カラー・ブラインドの本来の意味は「色覚障害」だが、そこから転じて「肌の色なんて関係ない、人間はみんな同じ」といった主張を指す。一見、博愛的なアンチ差別主義に聞こえるが、マイノリティーの置かれている現状と心情を慮れないマジョリティー側の考えといえる。先に書いたようにアメリカでは黒人の子どもがロールモデルにできるプリンセスやスーパーヒーローを世に出すことを拒否しながら、「肌の色なんて関係ない」と言う。この偽善性がカラー・ブラインドなのだ。
そもそも肌の色はそれぞれの文化に直結しており、ないもの、見えないものにしてはならないし、することは不可能だ。近年のアメリカで「みんな同じ」から「お互いの違いを認めた上で差別をなくしていこう」に軌道修正がなされている理由もそこにある。
先に書いたように初期のディズニーは作品に人種差別描写を盛り込み、マイノリティーのプリンセスを出し渋った歴史がある。そんなディズニーですら、いまでは多様性を取り入れなければならない時代となり、2016年には南太平洋を舞台とした『モアナと伝説の海』を公開、モアナの声はハワイ出身のアウリイ・クラヴァーリョとした。その人気の高さからディズニーはモアナを公式プリンセス12人のリストに加えることもしている。
昨年はアジアを舞台とした『ラーヤと龍の王国』が好評を博し、今年9月に公開された実写版『ピノキオ』ではブルー・フェアリーに英国の黒人俳優シンシア・エリヴォを起用した。
さらに2024年公開予定の実写版『白雪姫』の主役には、映画『ウエスト・サイド・ストーリー』(2021年)でマリアを演じたレイチェル・ゼグラーが決定している。コロンビア系ラティーナであるゼグラーが、肌が雪のように白いことから名付けられた「白雪姫」をどう演じるのか、いまから注目されている。
今回のアリエルに対して「肌の色への差別ではなく、アニメ版のイメージを忠実に再現してほしいだけだ」との声が少なからずある。幼児期の思い出は誰にとっても大切なものだが、その声を上げている人たちは子どもの時期にアリエルからの思い出を得て、いまは大人となっている。
一方、ハリー・ベイリーの『リトル・マーメイド』に「私と同じ!」と目を輝かせたのは、肌の色の違いがいまもまだ社会の大きな障壁となっている国に住む子どもたちだ。近年、日本にも増えている黒人や黒人ミックスの子どもたちも含まれる。この子どもたちは、これまで「自分と同じ」マーメイドを持てなかった。この幼い子たちに、子どもの時期にしか築けない自尊心のコアを与えるために、オリジナル・アリエルのファンは快く譲り、一緒に新アリエルを楽しんではどうだろうか。
レプリゼンテーションが必要なのは黒人だけではない。アジア系、ヒスパニック、先住民、人種ミックス、移民、性的少数者、障害者などすべての人と子どもに必要だ。ゆえに今後も映画、アニメやゲーム、書籍から広告に至るメディアだけでなく、教師、地域リーダー、政治家などの間にもレプリゼンテーション・マターズは広く実践されていく。
その動きに対し、マイノリティーの子どもたちがやっと手に入れつつあるものを取り上げようとする政治的な動き――黒人史やLGBTQ関連の児童書の排斥など――が、じつはアメリカ国内の保守派のあいだに広まっており、大きな危機感が生じている。
人種の多様性が限られている日本にいながらにして、こうした事情を学ぶのはひとかたではないと思われる。だからこそ、SNSにあふれた子どもたちの目の輝きを、ぜひともいま一度、見てほしい。