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『ONE PIECE FILM RED』「夢」に立つウタの、ルフィと対照的な人生の運命―【藤津亮太のアニメの門V 第86回】

2022年09月06日 18:51  アニメ!アニメ!

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※この原稿は『ONE PIECE FILM RED』の重要な部分に触れています。

『ONE PIECE FILM RED』は、結局どういう映画なのか。映画『ONE PIECE』の歩みを追いながら考えた。

TVアニメをベースにした映画にはひとつの大きな枷がある。それは「完結編」でもない限り、主人公の内包するドラマに手を付けるわけにいかない、ということだ。だから映画を連作するとなると、そのたびごとに――主にゲストキャラクターを中心にして――ドラマを新たに構築する必要が出てくる。これは『ドラえもん』が初映画『ドラえもん のび太の恐竜』(1980)で、TVシリーズよりもスケールアップした世界観・物語を繰り広げた時から始まったことだ。
 
とはいえ、映画ごとに「読み切りのドラマ」を用意しやすい作品とそうでない作品がある。それは作品の基本設定とメインキャラクターの配置によるところが大きい。

例えば「事件とその解決」を扱う『名探偵コナン』は映画用のドラマを構築しやすい。
『クレヨンしんちゃん』は、第1作『クレヨンしんちゃん アクション仮面vsハイグレ魔王』(1993)で、TVシリーズの世界から大きく離れ「パラレルワールド」を題材にとったことで自由度があがり、映画用に、ファンタジーからSFまで多彩な「読み切りのドラマ」を用意できることが可能になった。

また『しんちゃん』であれば、“ファミリーもの”といいつつも、それぞれのキャラクターが広く愛されているので、4人家族の中で「父子」「母子」「兄妹」「夫婦」と、さまざまな組み合わせでそれぞれのドラマを構築できる。しんのすけの同級生たち、かすかべ防衛隊を加えれば、さらに物語のバリエーションは広げられる。

もちろんこれだけで映画が“簡単に”できるわけではない。しかし映画『コナン』の快進撃や、映画『しんちゃん』の興行収入がV字回復した様子を見ると、その背景にこれらのポテンシャルがうまく作用していると考えることができる。一方、映画『ドラえもん』は人間関係が固定的だし、映画『ポケットモンスター』は設定的にもキャラクター的にも自由度が低い。これらが長期シリーズとして成立しているのは、様々な工夫の結果であることが想像がつく。

そして、メインキャラクター間の関係が固定的で、舞台を異世界に変えることもできない映画『ONE PIECE』シリーズもまた、様々な苦労の結果、現在まで継続してきたであろうことは、その歩みを見るとよくわかる。


■映画『ONE PIECE』の変遷

映画『ONE PIECE』シリーズは、2000年にスタート。その歩みは大きく4つの時期に分けることができる。まず最初が「東映アニメフェア期」で、『ONE PIECE』『ねじまき島の冒険』『珍獣島のチョッパー王国』がそれにあたる。この時期は「アニメフェア」の1本として制作されており、上映時間も60分以内。作品の雰囲気もTVシリーズの延長線上といった印象だ。

次が映画として一本立ちして興行を行うようになった「THE MOVIE期」。この時期は『ONE PIECE THE MOVIE』と呼称され、『デッドエンドの冒険』『呪われた聖剣』『オマツリ男爵と秘密の島』『カラクリ城のメカ巨兵』の4作品がこれに相当する。この時期は先述の「『ONE PIECE』で長編を作る難しさ」がじわじわと明らかになっていく時期といえる。だからこそ「アニメフェア期」も「THE MOVIE期」も、1本目(『ONE PIECE』『デッドエンドの冒険』)が、世間が思う『ONE PIECE』をストレートに作っていておもしろいが、それ以降は「どう切り口を変えていけばいいか」という試行錯誤がみてとれる。
 
この時期、興行成績がじわじわと下がり『デッドエンドの冒険』が興行収入20億円だったのに対し、『カラクリ城のメカ巨兵』は興行収入9億円まで下がってしまう。年1回上映される「定番アニメ映画」として、興行収入10億円を割り込むのは、シリーズの存続が危ぶまれる事態である。

そしてテコ入れとして、人気のエピソードを劇場版としてリメイクする「エピソード・オブ・~」が2作作られる。アラバスタ編を扱った『エピソード オブ アラバスタ 砂漠の王女と海賊たち』と、ドラム島編を題材にした『エピソード オブ チョッパー プラス 冬に咲く、奇跡の桜』の2作である。
この2作は人気のエピソードながら、長い原作を90~110分程度に収めざるを得ず、エピソードの消化の面でも感情の誘導という面でも難易度は高かった。両作とも興行収入10億を越えていない。

こうして映画『ONE PIECE』10周年となる2009年、この年に公開となる第10作目で本格的に仕切り直しが行われた。ここで原作者・尾田栄一郎が本格的にコミットし、尾田は映画のためにストーリーを描き下ろした。これはつまり、TVアニメの視聴者を前提とするのではなく、超ベストセラーである原作漫画の読者を、ダイレクトに映画に動員しようという、“客導線”の再設定ということである。

こうして公開された『STRONG WORLD』はこの時点でシリーズ最大のヒットとなる興行収入48億円を記録した。本作から全体タイトルが『ONE PIECE FILM』となるので、ここから現在公開中の『RED』までを「FILM期」と考える。この時期は尾田が積極的にコミットするようになり、公開ペースもそれまでの毎年公開から3年に1回というペースに変わり、興行成績も大幅にアップした。『RED』が先日、シリーズ最高額となる興収120億円を突破したのは記憶に新しいところだ。

なおこの時期に公開されたが、「FILM」を冠していない映画として、映画化20周年目に公開されたキャラクター総出演の『STAMPEDE』(2019)とフル3DCGによる『3D 麦わらチェイス』(2011)が存在している。ポイントは「FILM期」になっても『ONE PIECE』という作品が、映画が作りづらい設定の作品であるということは変わらないという点だ。では「FILM期」の作品はその困難をどのようにクリアしたのか。

それは「正面突破」だった。最初の『ONE PIECE』や『デッドエンドの冒険』などに見られた「『ONE PIECE』だったらこういう物語を見たい」というアプローチを、より徹底して、濃く、深く、熱く描くようになったのである。
まず敵役がこれまで以上に強く設定され、ルフィたちのピンチも徹底的に絶体絶命に描かれるようになった。それに併せてアクションシーンのビジュアルも凝ったものになり、見ごたえが増した。敵役の圧倒的強さと、それに立ち向かっていくルフィという図は、ルフィの最大の動機である「海賊王になる」という要素を際立て、観客に本作の魅力を再認識させることになった。

また、キャラクターの感情表現を含めた演出が若干大人っぽくなり、それまでの「小学生にも伝わるように」といったムードが減った。これは意図的に「TVシリーズの視聴者」に縛られないところまで客層を広げた結果と言える。実際、「FILM期」になって、それほどマニアには見えない20代の男女を劇場でよく見かけるようになった。
そして敵役を中心としたゲストキャラクターの人生が、これまで以上に立体的に描かれるようになった。これによりドラマ面に奥行きが生まれ、こちらも作品が“大人がみても恥ずかしくない”雰囲気を帯びる一因となった。



■ルフィとウタは“対照的”に存在する

こうして考えると、異色作ともいわれる『RED』も、基本の構図の作り方はこれまでの「FILM期」の作品――特に『Z』と『GOLD』――と大きくは異なっていない。例えば、『Z』の敵役ゼットも、『GOLD』の敵役テゾーロも、それぞれの人生の中から己の行動を決定し、その結果、ルフィたちと戦うことになった。そして2人とも非常に強かった。『RED』のウタも、自らの人生を踏まえて決意し、行動を定め、結果、ルフィたちと対立することになった。

では『RED』が「FILM期」の定石をなぞっているだけかといえば、当然ながらそんなことはない。『STRONG WORLD』と『GOLD』は、上下方向の動きによって支えられた作品だった。『STRONG WORLD』の敵役・金獅子のシキは重力コントロールができるフワフワの実の能力者であり、空飛ぶ島メルヴィユから「東の海」などを支配しようと目論んでいた。また特に『GOLD』は、巨大黄金船「グラン・テゾーロ」内での上下動が、そのままテゾーロの支配構造を示す映画になっていた。

一方『Z』は上下移動の映画ではなく、クライマックスのルフィとゼットの殴り合いに象徴されるように、同一平面上で様々にベクトルがぶつかり合う作品だった。これに対し『RED』は「上下動」でも「同一平面」のどちらでもない。『RED』においてむしろ重要なのは「同一平面上に見えながら同一平面上ではない」という点だ。だからベクトルがぶつかり合いそうでなかなかぶつからない。なぜなら本作は「重ね合わされた2つのレイヤー」による映画だからだ。

この2つのレイヤーはまず映像としては、ウタがウタウタの実の能力によって、ルフィたちや観客を虜にした「夢」の世界と、「現実」の世界という2つの形として劇中で描かれる。そしてその延2つのレイヤーは、あくまでも「現実」に立脚するルフィと、「夢」に立っているウタのすれ違いという形でドラマに投影されていく。
もともとルフィとウタは対照的なキャラクターだ。シャンクスの精神的息子のルフィと、シャンクスに娘として育てられたウタだが、ルフィは「海賊王」を目指し、ウタは「海賊嫌い」。ルフィがシャンクスを慕っているのに対し、ウタは自分がシャンクスに捨てられたと信じている。

また、ルフィには仲間がいるが、ウタには仲間はいない。そのかわりルフィにはいない、メディア(映像電伝虫)の向こうに大勢のファンがいる。ルフィが「手で触れられるリアルな世界」に生きているのに対し、ウタは「夢」や「メディアの向こうにいる他人」を自分の世界としているのである。
よく似ている場所に立っているのに、それぞれのあり方は重なり合わない。ここに2つのレイヤーが重なりつつも、決して同一化しない様子を見ることができる。

そういうふうに考えると、「幼い頃からの勝負の結果をルフィとウタが正反対に覚えている」というたわいないエピソードも、2人の生きるレイヤーが違っていることの表現のように見えてくる。また、ルフィがクライマックスのバトルで、ウタそのものを殴らなかった、(心情的な理由ではなく)映画的な意味合いとして解釈できるようになる。お互いが生きるレイヤーが異なっているのであれば、ゼットの時のように、互いの生き方のベクトルをぶつけ合うように殴り合うことはできない。
エレジア島で孤独に育ったウタには「現実」がわからないのだ。だから「夢」の中に入ってしまえば幸せだというふうに考えてしまった。しかもそれは彼女が背負った「現実」の重さや辛さを、そのままメディアの向こうにいるファンの「不幸」に投影した結果でもあった。

ウタの運命が決してしまった今、「もしも」を考えることにはなんの意味もない。でも、島で孤独に勉強しているウタの姿を思い出すと、この時期になんとか集団生活をする機会が得られなかったのだろうか、と思ってしまう。もしそうであれば「現実」の意味も、きっと学べたはずだし、人生において「現実」と「夢」のレイヤーが、相互補完的に働いていることが理解できたのではないか。だが、彼女にはそういう人生は訪れなかった。

『RED』で観客は、そんなウタの人生に立ち会うことになる。劇中に登場する7つの楽曲は、“ほぼミュージカル”といってもいいほど、彼女の人生の決断と逡巡を直接的に語っている。そして映画は彼女を「不幸であった」と涙を絞るように語ることもなく、かといって「自分勝手に世界を勘違いした少女の末路」と皮肉な視線で描くこともしない。ただ「こんな女の子がいました。彼女の歌は、彼女がいなくなっても多くの人に愛されています」とまるでおとぎ話のように静かに締めくくるのだ。

ウタは不幸だったのだろうか。クライマックスのバトルから、物語の終りに至るまでの展開を見ると、この映画は「幸福かどうか」で人生を計っていないことがわかる。ここで尊重されているのは「自分の人生は自分で選ぶもの」ということである。ウタはすべてを知って、自分の計画を発動し、それが綻び、失敗とわかった時には、薬を飲んで自分が助かるよりも、夢から人々を開放することを選んだ。それはすべて自分の決断で、そこには一点の曇りもない。「不幸かどうかは見る人が判断すればよいこと」だが、彼女が彼女の人生を生きた、ということは紛れもない事実として描き出される。そしてそれはそれとして、彼女の歌を楽しむ人たちに彼女の人生はまったく関係のないものだ。

この徹底した「その人の人生はその人(だけ)のものである」という思想。そこに向かって本作が進んだ以上、最後にルフィのお馴染み「俺は海賊王になる」という台詞が置かれた意味もまた見えてくる。
おそらく当初は、“異色作”といわれるであろう『RED』の終幕に際し、「これで本作は終わり、いつもの『ONE PIECE』の世界に戻りますよ」という宣言としてこの台詞が置かれていたのではないだろうか。しかし「その人の人生はその人(だけ)のものである」という思想を重ねてみると、ウタはウタで自分の人生を生き抜き、それと同じようにルフィもまた自分の人生――「海賊王になる」――を生きようとしているのだ、という意味合いが生まれてくる。

とても近いところにありながら、重なることはなかったウタとルフィの人生。重なることのなかった相手の人生など、背負うことはできない。できるのはせいぜいが「お前はそっちの道を選んだんだな。俺はこっちの道をゆくよ」と、自分の道を飽かず歩み続けていくことしかできないのだ。
そしてこの「自分が選んだ道しか歩けない」という主題は、2000年の第1作『ONE PIECE』で、海賊になることを誘われながらおでん屋になった岩蔵じいさんの生き様をも思い出させるのだった。