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「若い人に展示を見てほしい」。ヘイトクライムの被害にあった京都・ウトロ地区、平和祈念館が未来につなぐ願い

2022年09月05日 11:00  CINRA.NET

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Text by 生田綾
Text by 韓光勲

去年8月、在日コリアンが多く暮らす京都府宇治市のウトロ地区で、空き家などに火が放たれる事件があった。犯行の動機の一つに「韓国人への悪感情」があったとして、「ヘイトクライム」と呼ばれている事件だ。

8月30日、京都地裁は被告に懲役4年の実刑判決を言い渡した。多くの人に衝撃を走らせた事件から1年。被害にあったウトロ地区では、4月に平和祈念館がオープンし、この地区の歴史を伝える新たな出会いの拠点となっている。初公判と判決を傍聴したライターの韓光勲が、事件の内容と、「ウトロ平和祈念館」のスタッフが未来に込めた思いをレポートする。

放火現場は現在も被害の爪痕が残ったままになっている。

事件は、在日コリアンが多く暮らす京都府宇治市のウトロ地区であった。去年8月30日、ウトロ地区の空き家に火が放たれ、住宅など7棟が全半焼。この事件で、ウトロ地区の歴史を伝える資料も消失した。建造物損壊や非現住建造物等放火などの罪に問われたのは奈良県桜井市の無職、有本匠吾被告(23)だ。裁判では、その前月にも名古屋市にある在日本大韓民国民団や韓国学校の建物に放火した罪に問われていた。

初公判は5月16日。傍聴券は約5倍の倍率だったが、筆者は運良く抽選に当たり、裁判を傍聴した。

被告は「どこにでもいそうな普通の若者」にみえた。裁判官との受け答えは流暢で、むしろ雄弁な印象を受けた。

検察官が読み上げた調書によると、被告は専門学校を出て仕事をしていたが、職場環境に馴染めず退職。2021年8月に医療事務員の仕事を見つけたが、9月に検挙されてまた無職になったという。検察は冒頭陳述で、「無職の劣等感と、憂さ晴らしをしたい気持ちと、社会から注目を浴びたいという気持ち。そして『韓国人への悪感情』から狙いをつけた」と指摘した。

さらに検察側は、名古屋の韓国民団と韓国学校への放火事件がニュースとして大きく取り上げられず、社会から注目されるため、ウトロ地区を狙おうと決意したとも指摘。ウトロ地区の事件が広く報じられると、被告は友人にネットニュースを送り、SNSでシェアしたという。

有本被告は起訴内容を認め、その後6月に開かれた第二回公判では、「ウトロ平和祈念館の開館を阻止することが目的だった」「展示品を使えなくすることが開館阻止につながる」「韓国人への敵対感情があった」と動機を語ったという(*1)。

また、朝日新聞デジタル(*2)によると、被告は最終意見陳述で「私のように差別、偏見、ヘイトクライムの感情を抱く人は多いことを認めなければいけない」と主張。さらなるヘイトクライムを予期するような内容で、関係者に衝撃を与えた。

検察側は懲役4年を求刑。一方弁護側は、「社会から孤立しがちで自暴自棄に陥っていた」として減刑を求めていた。

8月30日、京都地裁には傍聴券を求める人が長蛇の列をつくった。

8月30日に言い渡された判決は、懲役4年の実刑判決だった。

京都地裁の増田啓祐裁判長は判決で、「被告人はかねて在日韓国・朝鮮人が不当に利益を得ているなどとして嫌悪感や敵対感情を抱いていた。離職を余儀なくされて自暴自棄になるなか、鬱憤を晴らすとともに、在日韓国・朝鮮人や日本人を不安にさせてこの問題に注目を集め、自分が思うような排外的な世論を喚起したいと考えた」と指摘。

「(犯行の動機は)独善的かつ身勝手なものだ」「民主主義社会において到底許容されるものではない」と非難した。

有本被告は裁判長の言葉をじっと聞いていた。最後に裁判長が「もう一度よく反省してもらいたい」と言うと、一度うなずいた。刑務官に連れられ、傍聴席には一瞥もせず、法廷を後にした。

判決後、全4回の裁判を傍聴したノンフィクションライター、安田浩一さんに話を聞いた。長年ヘイトスピーチやヘイトクライムについて取材する安田さんは、有本被告について、「彼は饒舌に語っているようで、じつは何も語っていない。オリジナルな言葉は一つもなく、これまでネットやSNSを通じて流布されてきたヘイトスピーチをただ繰り返しているだけ。その彼が火を放ったのだから本当に恐ろしい」と話す。

安田さんが今回の事件で想起したのは、1923年9月、関東大震災後に起きた「朝鮮人虐殺」だったという。

「今回の事件も一歩間違えばジェノサイド(民族浄化)に至る危険があった。朝鮮半島への視点、物言いは99年前と現在はあまり変わらないのではないか。『朝鮮人虐殺はなかった』と主張する人も出てきている。歴史を否定した先には排除と差別が蔓延した社会しかない」

記者会見で話す金秀煥(キム・スファン)さん

判決後には被害者側弁護団が会見。豊福誠二弁護士は、「『ヘイトクライムを許さない』と司法がメッセージを発することが重要だが、残念ながら、今回の判決では『差別』という言葉は使われなかった」と指摘。「本来は『人種差別は絶対に許さない』と司法が宣言するべきだった」と話した。

判決に前向きな言葉もあった。ウトロ平和祈念館の副館長、金秀煥(キム・スファン) さんは「差別という言葉は使われなかったが、今回の判決は一歩前進だ。ウトロ地区への支援の声は多く届いており、励まされたのも事実だ」とも語った。

そもそも、ウトロ地区はどのような場所なのだろうか。

現在、60世帯、100人が暮らすウトロ地区。ここにはかつて、アジア・太平洋戦争中、国策事業の京都飛行場を建設するために集められた朝鮮人労働者たちの宿舎(「飯場」)があった。「飯場」が開設されたのは1943年ごろ。戦後、さまざまな理由で現地に残った労働者と家族らが暮らしたが、住民らは劣悪な環境での暮らしを余儀なくされた。1986年に「ウトロに水道施設を要望する市民の会」が発足し、1988年、ようやく上下水道の整備が進められた(*4、5)。

ウトロ平和祈念館の前に再現された「飯場」。

1989年には、地区の土地を買収した不動産会社が住民に明け渡しを求めて提訴。2000年に住民の立ち退きを命じる判決が最高裁で確定したが、住民や支援者らはウトロ地区に住み続けるため、粘り強い運動を展開(*6)。支援の輪は国内外で広がった。

韓国のNGOの働きかけによって韓国政府が予算化したこともあり、財団が土地の一部を買収した。その後日本政府、京都府、宇治市による住環境整備が進められ、2018年1月、完成した市営住宅1棟に住民40世帯が入居した。現在、2棟目の市営住宅が工事中だ。

被告は裁判の中で「住民らが土地を不法占拠している」と主張した。しかし、その主張は誤っている。ウトロ地区の地権者は、住民の転居が完了するまで住むことを了解していたからである。検察側も「不法占拠には当たらない」とする調書を読み上げた。

被告の主張は根拠に乏しく、ネット上の誤った情報(フェイクニュース)をもとにしていた。フェイクニュースが生んだヘイトクライムだった。

ウトロ平和祈念館

今年4月30日、「ウトロ平和祈念館」がオープンした。

8月末、祈念館を訪れた筆者を館長の田川明子さんが案内してくれた。1階は交流フロアで、2階が在日コリアンとウトロの歴史を伝える常設展示だ。庭には1943年に建てられた朝鮮人労働者向けの「飯場」が移築されている。

「戦前の飯場には1,300人の朝鮮人が住んでいました。ここで働けば『徴用』もされないし、住む場所もあれば給料も出るので、多くの朝鮮人がやってきました。でも、戦争が終わると仕事がなくなり、放ったらかしにされた。くず鉄拾いをした戦後の方が大変だったと語る人が多いんです」

館長の田川明子さん

77歳の田川さんは、1980年代からウトロ地区の住民を支援してきた。当初は、友人から「ウトロには関わらないほうがいい」と言われたという。それでも、「ここ(ウトロ)で生きることが闘いや」と語る住民の熱に押された。現在は館長として、ウトロの歴史を来館者たちに語りかけている。かつて「関わらないほうがいい」と言った友人は祈念館の開館を見て、「よく頑張ったね」とねぎらってくれた。

ウトロ平和祈念館から徒歩3分ほどのところにある、放火事件のあった現場も訪れた。燃えた柱、朽ち果てた木造の家屋。現場跡には夏草が生い茂り、多くのトンボが飛び交っていた。

放火事件で、祈念館で展示予定だった立て看板が焼けた。ウトロ地区の歴史を伝える貴重な資料として展示されるはずだった。

住民たちの無念は計り知れない。だが田川さんは、ある在日コリアン女性(80代)の語った話を教えてくれた。

「そのおばあちゃんが冗談交じりに言うのよ。『事件の犯人はパソコンでウトロのことを調べたらしいけど、そんな暇あったらウトロに来たらよかったんや。お腹いっぱい食べさせたるのに。ビールもつけてな』って」

その女性はいま、燃えた跡地で家庭菜園を始めている。唐辛子、かぼちゃ、エゴマが植えられた。「このユーモアがあったから、ウトロの人たちは苦しいなかでも頑張ってこれたんだと思う」。ウトロ地区の住民のたくましさをよく表すエピソードだ。

放火跡地に植えられた唐辛子

放火現場を撮影するため、近くに住む鄭佑炅(チョン・ウギョン)さん宅にお邪魔した。2階のベランダから撮影させてもらうと、放火現場の様子がよく分かる。鄭さんの家に火が燃え移ることはなかったが、2階の網戸と柱の一部は熱で溶け落ちた。

「犯人には歴史を勉強してもらって反省してほしいと思っていたけど、裁判で語る内容を聞いたらそれも難しいのかもしらん。政府が法律をつくって、人種差別を禁止してほしい」。鄭さんはそう話す。

だが、鄭さんには希望も見えている。

「祈念館ができて、いっぱい人来てくれるやろ。来た人の感想文を読んで、涙が出たわ。『ウトロのことを想ってくれている人もいるんや』ってわかった。祈念館ができたのも住民の力だけじゃない。『ウトロを守る会』の人ら、韓国の人らが支えてくれた」

鄭さんが話すように、祈念館は、すでに新たな出会いの拠点になっている。

ウトロ地区の歴史を伝える展示

開館日は週4日。受付やカフェの運営など、活動を支えるのは主に日本人で構成される150人のボランティアたちだ。毎朝6時に芝生の水やりをしてくれる人もいる。

週に1度ボランティアとして関わる伊賀たか子さんは、7歳までウトロに住んでいたという。友人に誘われて「ウトロに向き合う時がきた」と思い、ボランティアに参加した。「来る人にはウトロの闘いの歴史と音楽の力を知ってほしい」と話す。

「ウトロでは『農楽隊』がつくられて、女性たちが韓国の伝統楽器を打ち鳴らしてきた。音楽はウトロの人たちを励まして、悲しみもすべて飲み込んで感情を発露させてきたんです」

今年4月30日のオープンから、9月までに約5,000人が来館した。日本全国から訪れ、20~30歳代の来館者も多いという。学生や家族連れが多いことも特徴だ。感想文には「歴史を知れてよかった」「忘れてはいけない歴史を残してくれた」との言葉がある。

来館者が寄せた感想文が貼られている

館長の田川さんは語る。

「若い人に展示を見てほしい。だって、ヘイトをなくしたいもん。放火で在日コリアンの子どもたちに『日本にいたらあかんの?』と思わせた。展示を通して、在日コリアンの子どもたちには『ここにいてもいいんだよ』と伝えたい。日本の人たちには『人間みんな同じ。あたしもあなたも生きているだけで大事な存在なんだ』と知ってほしい。一人でも多くの人にそうやって伝えるのが、これからの私の仕事なんです」

放火事件はウトロ地区の住民、支援者らに大きな傷を残した。しかし、ウトロ平和祈念館がオープンし、新たな出会いが生まれていることは住民たちの希望になっている。「ヘイトをなくしたい」。そう語る田川さんの目はまっすぐ前を見つめていた。