Text by 生田綾
Text by 荘司結有
「あの地域は『部落』だから」、「『部落』出身の人とは結婚させない」……。いまの日本社会に依然としてはびこる「部落差別」。
かつて、日本には「穢多・非人」などと呼ばれる賤民(せんみん)がいた。明治時代に身分制度が廃止された後も、彼らが住んでいた地域は「部落」と呼ばれるようになり、経済的・社会的に差別を受け続けてきた。
法律や制度に「部落」や「部落民」は存在しないのに、なぜ人々の心には根強い差別意識が潜んでいるのか――。現在各地で公開中のドキュメンタリー映画『私のはなし 部落のはなし』は、その歴史を紐解きながら、20~80代の被差別部落出身者から差別意識を持つ人まで、さまざまな人の「ことば」を拾い集めて、過去から脈々と続く部落問題を描き出した。
監督は1986年生まれの満若勇咲(みつわか ゆうさく)。満若は、学生時代に制作した作品をめぐって部落解放同盟から「差別と偏見を助長させる」と抗議を受け、劇場公開を断念したという過去を持つ。再度このテーマを題材にしたのはなぜか。上映時間約3時間半という大作を作り上げるにあたり、どのように部落問題と向き合ってきたのか。インタビューで聞いた。
満若勇咲(みつわか ゆうさく)
1986年京都府生まれ。2005年大阪芸術大学入学。映画監督の原一男が指導する記録映像コースでドキュメンタリー制作を学ぶ。在学中にドキュメンタリー映画『にくのひと』、『父、好美の人生』(監督・撮影)を制作。『にくのひと』の劇場公開が決まるも、その後封印。映像制作・技術会社ハイクロスシネマトグラフィに参加後、TVドキュメンタリーの撮影を担当する。2019年からフリーランスとして活動。主な撮影番組に『ジェイクとシャリース~僕は歌姫だった~』(2020年 / アメリカ国際フィルム・ビデオ祭 ゴールド・カメラ賞)、ETV特集『僕らが自分らしくいられる理由-54色の色鉛筆-』(2021年)など。ドキュメンタリー批評雑誌「f/22」の編集長を務めている。
―満若監督は京都の出身だそうですね。作品内には京都市の被差別部落である崇仁地区が登場しますが、幼少期に部落問題を肌で感じることはありましたか?
満若:一口に京都と言ってもいろいろな地域がありまして、ぼくが育ったのは京都市内ではありません。実は同和教育を受けた記憶があまりなくて、大学時代に『にくのひと』をつくるまでは部落の話はほとんど聞いたことはなかったですね。後々、ぼくが育った町にも被差別部落があることを知るのですが、子どもの頃は友達もいて普通に遊びに行っていた場所でもあったので、取り立てて「境界」を意識することはありませんでした。
―大阪芸大生だった2007年に、兵庫県の屠場を舞台にしたドキュメンタリー映画『にくのひと』を制作しました。屠場やそこで働く人々を通して部落差別を描いた作品でしたが、もともとは「牛が肉になる過程」に興味があったそうですね。
満若:高校生から牛丼屋でアルバイトをしていて、毎日スライスされた肉がパック詰めされてお店に届くんです。それを調理するなかで、ふと「牛からスライスされた肉になるまでの過程って見たことないなあ」と興味が湧いたんです。
ちょうど3回生に上がるタイミングで劇映画からドキュメンタリー専攻に転向したので、この過程を撮ったら面白いだろうと。屠畜のお仕事を調べていくと、当然部落問題に突き当たるわけで、そこを避けては通れないだろうと思いました。
『私のはなし 部落のはなし』作中で読み上げられた1922年の「水平社宣言」。部落解放運動の出発点で、日本初の人権宣言といわれる。「ケモノの皮剥ぐ報酬として、生々しき人間の皮を剥取られ、ケモノの心臓を裂く代価として、暖い人間の心臓を引裂かれ、」などの言葉が続く / ©『私のはなし 部落のはなし』製作委員会
―『にくのひと』は各地の上映会で高く評価されたものの、部落解放同盟兵庫県連から「内容に問題がある」と上映中止を求められ、結果として劇場公開にはいたりませんでした。当時は、どういう思いだったのでしょうか?
満若:あの時のことを正確に言うと、あの映画は抗議を受けたから封印したわけではないんです。直接の原因は、ぼくが兵庫県連と揉めたことで地元の人間関係をかき乱してしまい、出演者との関係が壊れてしまったことでした。
当時はぼくも若かったのでショッキングな出来事でしたし、「もう部落問題はいいかな」と思ってしまったんです。「当事者じゃないのに責任が取れるのか」という批判も受けたことで「じゃあ当事者だけで部落問題を考えればいいじゃん」と投げやりな気持ちになった面もありました。
でも、撮影に協力してくれたノンフィクションライターの角岡(伸彦)さんや映画に登場した中尾(政国)さん(※)との交流は続いていましたし、取材者として部落問題に関わるのはもういいかなと思いつつも、だからといって部落の人たちが「怖い」という思いはまったくありませんでした。
もともと、大学卒業後は10年くらい下積みをしようという人生設計があったので、気持ちを切り替えて、テレビの世界で頑張ろうと思っていました。
―『にくのひと』の一件から約10年を経て、なぜもう一度、部落問題にカメラを向けようと思ったのでしょうか?
満若:30歳からの人生設計を考えたときに、やっぱり映画を撮りたいという思いが芽生えてきて。でも、監督として再起するには、部落問題にもう一度向き合わないとそれ以外のテーマに進めないだろうと。そう思った背景には、お世話になった中尾さんが2016年に亡くなったこともありました。生前、中尾さんには「監督として成功するのが恩返しなんやで」と言われ、だとしたら監督としてこの問題に向き合わなければいけないという気持ちもありました。
もう一つは、10年という下積み期間を経るなかで、当時を振り返ると、ぼく自身の認識や取材者としての詰めの甘さがあったと考え始めるようになりました。
©『私のはなし 部落のはなし』製作委員会
―詰めの甘さ、ですか。
満若:まず自覚したのは、ぼく自身の部落問題に対する認識の甘さですね。じつは当時、カメラを向けるなかでリアリティを持って部落問題を肌で感じる瞬間ってあまりなかったんです。でも、抗議を受けて出演者との関係が崩れていくなかで、「今後自分の子や孫が差別されるかもしれない」というぼんやりとした、でも逃れることのできない不安に苦しんでいることを身をもって知りました。そうした不安を抱えて生きざるを得ないしんどさについて、自分の想像力が及んでいなかったのだと思います。
あとは、取材者としての詰めの甘さもありました。普通のドキュメンタリーであれば撮影させていただいた方たちの許可さえあれば基本的に問題ないと思いますが、部落差別という地域を含んだ問題を扱っている以上、地域との関係性を築く必要があった。地域の論理や人間関係を把握せずに取材してしまったのは、つくり手として自分が未熟だったんです。だからこそ、監督として次に進むには部落問題を避けて通ることはできないと思ったんです。
―前作では「地名」を明らかにしていることも抗議の理由の一つでした。今回の映画に登場する被差別部落出身の方たちは地域や顔を出していますが、どのように関係性を築いていったのですか?
満若:映画に出てくる3つの地域の人々とは人づてで知り合ったんです。京都市の崇仁と大阪府箕面市の北芝に関しては、もともと取材を受け入れる土壌があったので、それほどハードルは高くありませんでした。
ただ、被差別部落出身だと明かすことによって差別される可能性がないわけではありません。この映画に出ている皆さんは「それでも部落問題を知ってほしい」という強い覚悟を持っていて、ぼくから出演を口説くことはほぼありませんでした。映画は残るものなので、生半可な気持ちで取材を受け入れてしまうと、お互い不幸になってしまうと思うんです。この映画をつくることができたのは、登場した皆さんが覚悟を持っていらっしゃった結果だと思います。
大阪府箕面市の若者たちが語り合うシーン。 / (C)『私のはなし 部落のはなし』製作委員会
満若:もちろん、地名を出すことを初めから了解してもらったわけではありません。三重県伊賀市の被差別部落については、撮影当初はどうするか決めていませんでした。撮影を進めていくうちに、映画で地名を出すという判断をしてくださいました。こうしたそれぞれの地域に対する配慮が大切なのだと思います。
―被差別部落に住む当事者の語りはもちろんのこと、近現代史を専攻されている静岡大の黒川みどり教授の歴史解説も興味深く拝見しました。新平民、特殊部落、同和……と時代で移り変わる部落の「呼称」を縦軸に置いたのはなぜでしょうか?
満若:近代以降の部落史について、一つの入り口をつくろうと考えたときに、黒川先生の「部落差別は、被差別部落の外の視線(まなざし)によってつくられてきた」という言葉に出会いました。つまり、外部からの意識で作られた「部落」という「入れもの」があり、折々の呼称の変化によって新たな差別が再生産されてきた。この140年間でさまざまな呼称が外部からつけられてきたという歴史の在り方も興味深く感じたんです。
あと、語りや言葉から部落問題にアプローチするという「ことばの映画」にしたかったのもあり、歴史に関しても「言葉」を中心に紐解こうと考えました。
作中に挟まれる黒川教授の歴史解説。黒板を使って部落問題がわかりやすく紐解かれる / ©『私のはなし 部落のはなし』製作委員会
―映画では、子どもが結婚する際に相手の出自を調べると話す60代の女性など、「差別をする側」の言葉も聞いています。裁判で係争中の『全国部落調査』復刻版出版事件(※)被告の鳥取ループ・示現舎代表の宮部龍彦さんにもインタビューし、差別を助長すると批判されている「部落探訪」にも同行しています。主観を入れずに、淡々とカメラを向けているのが印象的でした。
満若:もちろん、裁判で係争している当事者からすると気分のよいものではないというのは分かっています。そのうえで、あの事件を描くには彼が何者で、どういう思想を持っているのかは描く必要があると思いました。例えばこれが事件の実態が広く知られている問題だったら、わざわざ描く必要もないと思うのですが、多くの人たちは知らないですし。それに部落問題を映し出している以上、彼が何をしたのかを記録として残しておくことは大切だと考えました。
もちろん撮影しているから同意している、なんてことはありません。差別はなくなったほうがいいと思うからこのドキュメンタリーを撮りました。でも、多くの人に部落問題を考えてもらう契機になるような作品にするには、「差別するやつが悪い」で終わらずにもう一歩踏み込んで考える必要があると思うんです。
『にくのひと』で取材に応じてくれた中尾さんは、「みんな心の中に差別心を持っている」と話していました。中尾さんが言うように、多くの人々が差別心を抱き続けているからこそ、長年問題は解決できていない。単にカメラの前に現れた「差別する人」をスケープゴートにして溜飲を下げても、差別意識は克服できません。差別する側とされる側が共存する世界観を描くことで、見終えた後に「自分の立場はどうなんだろう」と考えられる作品にしたいという思いがありました。
最近思い出したのですが、小さい頃は『ゲド戦記』、特に『影との戦い』が好きだったんです。ファンタジーだけれど自分のなかの内なる敵と戦うのであって、明確な敵はいないじゃないですか。排除すべき悪との戦いではなく、内なる敵とどう向き合っていくかを考えるというのが、ぼくの軸になっていたのかもしれませんね。
©『私のはなし 部落のはなし』製作委員会
―部落差別は知らなくてはいけない問題ではあるものの、その一方で「寝た子を起こすな」という言葉(※)もあります。当事者のなかでも意見は分かれると思いますし、映画で取り上げること自体にも覚悟が必要だったと思います。
満若:まず「寝た子を起こすな」と当事者が言うのと、周りが言うのではまったく意味が違うと思うんです。当事者のその思いは一定程度尊重しないといけない。映画のなかに登場する地域については住民の確認を取りましたが、当事者の「これ以上はそっとしておいてほしい」という気持ちについては、配慮が必要だと思います。
ただ、周りが言う「寝た子を起こすな」は、要するに「言われなければ差別なんて知らなかった」「知らなかったらそもそも差別なんてしない」ということですよね。この考えについては、明確に誤っていると思っています。部落問題は人権や社会問題として考えがちですが、基本的には日本の歴史の問題なのでなかったことにはできません。
取材を進めていくうちに、折々の歴史と密接に関わり合いながら、差別が再生産されてきた背景を知りました。それを「あえて言わなくてもいい」というのは、過去に戦争があったことを伝えなくていいのかというレベルの話ですよね。一般的な教養として、皆が知っておかなければならないと思います。
©『私のはなし 部落のはなし』製作委員会
―そのうえで「知らなければ差別することもない」という思考については、どう考えていますか?
満若:部落問題について、どういう未来を目指せばいいか考えたとき、少なくとも前提として、「部落にルーツがある」という当事者の人たちを、非当事者の人たちが受け止めるベースは必要だと思います。でも、現時点ではその土壌がないから、当事者はカミングアウトに躊躇したり、安心して生きていけないわけです。
それを受け止めるには、やはり一般的な教養として部落問題を知っておく必要があるし、そのうえでどうやって差別をなくすかを考えていかなければなりません。部落問題について正しく知らないとどう受け止めていいのかもわかりませんよね。なので「知らなければ差別しない」ではなく、まず知ったうえで差別とどう向き合っていくかという順番だと思います。
―前作での苦い経験は今回の作品に昇華されたかと思います。これからも部落差別をライフワークとして描いていきたいとの思いはありますか?
満若:今回は3時間半の長い映画になりましたが、部落問題という壮大なテーマに対して、描けたのはほんの一部分かなという思いもあります。日本でドキュメンタリーをつくる以上、部落問題は取り上げる価値のあるテーマですし、今後も継続して向き合っていきたいと思っています。