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子どもを産んだら、何かが終わってしまうような気がしていた。作家・小野美由紀が綴る仕事と子育て

2022年09月02日 12:11  CINRA.NET

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Text by 佐伯享介
Text by 小野美由紀

「仕事と子育ての両立」は、働く親たちにとって重要なテーマ。
「働きながら、どうやって育児に向き合う?」
「子育てをしながら、どうやって仕事の時間を確保する?」
性別を問わず、子育てをしているビジネスパーソンには、そういった課題がつねについてまわります。

しかし本来、「仕事」と「子育て」は対立する行為ではないはず。ふたつの大切なことが、相互によい影響を与え合う。そんなサイクルをつくるために、私たちはどのようなマインドで毎日の出来事に向き合うべきなのでしょうか。

noteで公開されて話題になり、20万PVを超える閲覧数を集めたSF小説『ピュア』や、著書に銭湯を舞台にした青春小説『メゾン刻の湯』、ロングセラーを続ける人生格闘記『傷口から人生。 メンヘラが就活して失敗したら生きるのが面白くなった』などで知られる作家・小野美由紀さんは、今年出産を経験した一人。

仕事が何よりも大事で、「子どもを持つつもりなんて、ぜーんぜん、なかった」という小野さんは、子どもとともに暮らすようになってから、どのように日々の仕事と向き合っているのでしょうか? 小野さんに、「仕事と子育て」をテーマにしたエッセイを綴っていただきました。

子どもを持つつもりなんて、ぜーんぜん、なかった。
仕事は楽しい。やりがいもある。フリーランスになって10年が経ち、作品が認められ、大きな仕事がどかどかと入るようになってきた。もっと成果を出して、社会に認められたい。そのためには、1秒だって仕事にかける時間を減らしたくない。

そう思いながら20代を過ごしてきた私にとって、「子を産む」という選択肢はもっとも遠いものだった。

FacebookやTwitterで、知り合いからの「子どもが生まれました」報告を見たときも「なんでいちいち報告を?」と思っていたし、子どもの写真をあげまくる人に対しては、はっきり言って「バカじゃないの」と思っていた。万が一、もし万が一、自分に子どもが産まれても、私は絶対そんなふうにはならないもんね。

正確には、子どもを産むのが怖かった。
自分が育てられる気がしないし、子を産んだら「何かが終わってしまう」ような気がして、その選択を遠ざけていた。

ところが、ひょんなことから結婚し(結婚するという選択肢自体、私の人生からは程遠いものだったが)つがいになった途端、むくむくと子どもを持ちたい欲が湧いてきて、3回試したらできたので、産むことにした。目ん玉が裏返るぐらいのヘビーな十月十日を経て、今年の3月、無事4,034グラムの生物学的には女性の赤ちゃんが生まれた。

小野美由紀(おの みゆき)
1985年東京生まれ。著書に銭湯を舞台にした青春小説『メゾン刻の湯』(ポプラ社)『人生に疲れたらスペイン巡礼』(光文社)『傷口から人生。 メンヘラが就活して失敗したら生きるのが面白くなった』(幻冬舎文庫)絵本『ひかりのりゅう』(絵本塾出版)など。2020年4月に刊行された”女性がセックス後に男性を食べないと妊娠できない世界になったら?”を描いた恋愛SF小説『ピュア』は、早川書房のnoteに全文掲載されるや否やSNSで話題を呼び20万PV超を獲得した。ウェブメディア・紙媒体の両方で精力的に執筆を続けながら、SFプロトタイパーとしてWIREDの主催する「Sci-Fiプロトタイピング研究所」の事業にも参加している。オンラインサロン「書く私を育てるクリエイティブ・ライティングスクール」を主催。

妊娠初期の頃、「子どもが無事に産まれるかどうか」に並んでもっとも心配していたのは「仕事、どうしよう」だった。

妊娠はフリーランスで仕事をする人間にとっては大きな痛手である。育休も産休もない。もちろん、休めばその間の収入はゼロ。保育園に子どもを入れる「保活」にも不利と聞く(知り合いのフリーランスの物書きの女性は100万円分のベビーシッターの領収書を区役所に叩きつけてやっと入所できたらしい)。

考えれば考えるほど、キャリアが“詰む”未来しか見えない。
仕事の依頼が来なくなったら、どうしよう。「ママ枠」に入れられて、ギャラを下げられたら?(男性のフリーランスには決して起こらない事なのに!)「終わった人」として見られたら……。
それぐらい、私にとって何かが「できない」ことは恐怖だった。何かができなくなることは、人として終わることと同義くらいに思っていた。

ところが、である。
妊娠が進むにつれて、想像とは遥かに違った世界が見えてきた。

まず、この腹が限界まで膨れる十月十日というのが「できない」のオンパレードなのである。コマ撮りの速度でミシミシと開いてゆく骨盤、子宮に押し上げられてせり上がる胃、なんの罰ゲームかと思うほど過酷なつわり。滝のような眠気。獰猛な食欲、腰痛頭痛恥骨痛、逆流性食道炎にこむらがえり。

生物の生存戦略としていろいろ間違っているんじゃないかと思うほど、つねにどこかしらに警報が鳴り響き、弱体化してゆく体と頭。眠気が凄すぎて何一つまともに思考ができない。文字一つ書くのにも莫大な労力がかかる。「残り10%しかない充電のスマホ」のような頭と体で、これまでと変わらない量の仕事をこなさなければならない。これが当然とされている現代社会の労働のかたちっていったいどうなってるの、と社会のすべてに対して疑問を投げかけたくなる設計ミス感。フリーランスであれば仕事の量を減らせるが、会社勤めでほかの非妊娠者と同じ定量の仕事をこなさなければいけない人は、この無理ゲーをどうやってクリアしているのだろう、と世の理不尽に首を傾げすぎて首が捩じ切れるほどである。

しかも、つわりの一番激しい時期、一番休みたい時期には産休が使えず(妊娠休というシステムが広まればいいと思う)、流産のリスクがあるため人にも簡単に打ち明けられず休みにくいというジレンマもある。健康な男性を前提とした現代の労働システムと、出産という自然現象との折り合いの悪さに眩暈がする。その二つのあいだでゴリゴリにすりつぶされて摩耗してゆく女性たちの疲弊と悲哀は、いったいどこまで社会を――国を作る人々たちに受け止められているのだろう?

独身時代、私はこれらのことに対して無頓着すぎた。私が何も知らずにのほほん、と過ごしてきた横で、妊娠しながら、子を育てながら、弱音ひとつ吐かず当たり前のように仕事をこなしてきた、同僚やクライアントや仕事仲間がたくさんいたのだ。そう思うとすべての働く出産経験者たちに畏敬の念すら覚える。

話を戻すと、私にとって妊娠は病気でも老化でもない第3の「ハンディキャップ」だった。
病気でもない。怪我でもない。しかしこの状況を「健常者」と呼ぶにはかなりの無理がある。そうした「准弱者」としての怒涛の10か月を生き抜くために私がとった戦略は、自分の「できない」を徹底して認めることだった。

スケジュール管理ができない。
予定を立てた通りに進行できない。
請求書一つ出すだけで息切れがする。
買い物も、家事も、当たり前にやっていたことも、みーんな、できない。

以前の私は「健常者-強者」という恵まれた立場で働いていた。生きることは上を目指すことで、「できない」と無縁だったし、なんなら「できない」と言ってはいけない、「できない」自分は負けだと思っていた。
それが一気に崩れた。とにかく、何もかもが思う通りにできない。

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でかい腹を抱えて電車に乗り、移動する。貧血やめまいで倒れそうになる。

そんなときに、ふと手を貸してくれる人、気遣いをしてくれる人がいる。ありがたくて泣きそうになる。強者だった頃の私は譲る側だった。しかし譲られる側の気持ちはわからなかった。譲られる側になってわかったことは、世の中には「規定値」から外れたマイノリティーがこんなにたくさんいるのだということだった。例えば平日の昼に乗るバスには、同じようにさまざまな事情で身体的なハンディキャップを抱えた人がたくさんいて、お互いに譲り合っている。頭ではわかっていたけど、身に染みて感じるリアリティーには到底叶わない。

妊婦、というだけで話しかけてくる人もたくさんいた。魚屋のおじさんに「おめでただね、鉄分取れよ、これ食べな」と鰹をおまけしてもらったこともある。いつもは会釈のみだったドラッグストアのおばちゃんと、顔を合わせるたびお腹の子について世間話をするようになった。同じマンションの子連れのお母さんと、エレベーターで笑みを交わすようになった。
地域との関わりというのはこういうふうに生まれるのか、と気づいた。妊娠するまでは足早に通り過ぎるだけだった街が、急に立体的になった。

これまで私が見ていた世界はY軸のみの薄っぺらいものだった。同一的な集団で固められ、同じ方を――縦の方向だけを、ただひたすら眺める集団のなかにいた。妊娠によって、急に世界が、奥行きを持って開けた。世界は同質の存在が順位を競い合っているだけの場所じゃない。XとYのはざまで、序列のつかない異質な存在同士が、肩を寄せ合い、散らばりながら面をつくっているのだ。

この認識が生まれただけで、生きる意味そのものがそっくりひっくり返ってしまう気がした。
以前は、働けなくなったら、できなくなったら終わり、と思っていた。ところがどっこい、働けなくなっても、ほかの人と同じようにできなくても、世界は続くんである。
それまで感じることのなかった豊かな時間が、「できない」とともに生活に侵入し始めた。

例えば大雪の日、大きなお腹を抱えて、周りの人々が足速に進んでゆくなか、転ばないようにゆっくりゆっくりと地面を踏みしめながら歩く。以前であれば、できる限り早く家に帰ることを考えただろう。でもいまは、早く歩くことができない。できないから、代わりにお腹の子と一緒に、同じ冷たさや雪の匂いを感じながら、瞬きで雪を振り払いながら、降る雪の一粒一粒がわかる速さで歩く。この瞬間は二度と訪れないのだ、と実感しながら。

こんな忘れられない一瞬が、ふとしたときに何度もやってくる。なんてこともないのに、一生とどめておきたいような光景が日常のなかに降り注ぐ。他者の介在した時間は記憶の中に凍結するのだ。お腹の子どもがいなければ、こんなふうにはきっと思わなかった。まっすぐ前だけを向き、自分のゆく手以外に関心を払う事もなかった。

「准弱者」である自分を許そう。

そうやって、「できない」自分を認めると、働くのも生きるのも楽になった。他人に図太く助けを求めることにも、少しずつ慣れていった。ゆっくりゆっくり、じわじわと氷解するように「できる自分」を辞めていった。
無理のないスケジュールを組み、不調でコンディションが揺れ動くのを受け入れ、周囲への理解を仰いだ。幸い、クライアントも私の意を汲み、寛大に待っていてくれた。社会が思ったよりも寛容なことに、自分で言い出しておきながら驚いた。コロナでほとんどのことがオンラインで済むのも、数少ない幸運なことの一つだった。

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そして現在、産後3か月で仕事に復帰した私は、非常に楽しく育児と仕事の両輪を回せている。

なんせ、「できない」がデフォルトなのだ。育児も仕事も「できなくて当たり前」。そう決め込むと、プレッシャーが一気に無くなり、自分を責めることがなくなった。以前は「できる」が当たり前で、できない自分を責めていた。いまは子育て中なのだから、したいことの10分の1でもできたら、まあいいか、という気でいる。
不思議なものだが、「できて当たり前、できなくてはいけない」と思いながら働いていたときと、「できたらラッキー、できなくて当たり前」と思って働いている現在では、後者の方がなんと、パフォーマンスがよいのである。

思い通りにならない子ども、思い通りにならない仕事。それを受け入れると、途端にどちらも楽しくなってきた。いまでは「仕事が育児の癒し」だし「育児が仕事の癒し」だ。もちろん、どちらも上手くいかずに頭を抱えることだってある。というか、それが日常だ。でも、それでいい。どちらもやっている自分は「偉い」のである。そう思うと、これまでウジウジと悩んでいたこと――業界での評価だの、順位だの、付き合いだの、SNSでの悪口だの、くだらない人間関係だのが、ぜーんぶ、どうでも良くなった。

とはいえ、なるべく早く仕事に復帰するために、私も夫もできるだけの手は尽くした。産前産後ケア事業など、行政で利用できるものは利用し倒した。保育園に関しても「生後3か月で仕事に復帰できなければ終わる」と、区の窓口の人に泣きついた。フリーランスに早生まれ、と保活においては致命的なハンデを背負っている……と思い込み、半ばあきらめかけていたが、ところがどっこい、娘は保活を始めて1か月で第一志望の保育園に入れた。

産んで初めて知ったことだが、2016年に話題となった「保育園落ちた日本死ね!!!」のブログのおかげで、私が暮らす自治体でもデモが起き、焦った区長が保育園の数を激増、6年の間になんと90園も増えたおかげで待機児童はゼロ。コロナもあってか、やすやすと預け先が見つかったのである。驚いた。声を上げれば、社会が変わることもある。そのことを、人生で初めて肌に近いところで感じた経験だった。

生後3か月から登園しているが、いまのところ、預けて後悔したことは一つもない。プロフェッショナルの先生方が日々工夫を凝らして保育してくださっており、娘も楽しそうに保育園に行っている。

多くのお母さんが頭を悩ませる寝かしつけに関しては、夫に任せた。夫は出産前から産後に夫婦の営みがなくなることを極度に恐れていたので、これを利用しない手はないと思い、「我々の夜の営みが復活するかどうかはお前が寝かしつけをマスターするかどうかにかかっている」と脅したところ、光の速さで寝かしつけに関する本を買い込み、真剣に読んでいた。

夫と私のコンビプレイのおかげで、娘は生後6か月の現在、夜7時から朝の5時まで寝続ける大変手のかからない子である。夜中に思う存分Netflixを見たり、夫とお茶を飲んだりする時間があるから、夫婦2人のやぶれかぶれの育児でもなんとかメンタルをやられずにやってゆけている。

育児に必要なのは母性愛ではなく人手と技術だ。

つくづくそう思う。国の支援や保育所、育児を手伝ってくれる人や先輩ママの知恵がなければ、私たちの育児は成り立たない。

聞くところによると、ワンオペ育児というのは人類が有史以来初めて直面する異常事態なのだそうだ。そもそもが「設計ミス」のこの事態を乗り切るために、右往左往している私たち、まじ偉い。そう自惚れながら、できていないところには目を瞑り、公的な助成に頼りきり、利用できるものは図々しく利用して、初めて成り立つ。今のところそれができているのは、妊娠中に「社会って意外と優しいんだな」と気づかせてくれた名も知らない人々の力によるところが大きい。

もちろん、理不尽な経験をすることもある。先日ベビーカーを畳まずにバスに乗車していたところ、乗り合わせていた男性が「畳めや! ブタ!」と罵りながらベビーカーを蹴ってきたのである。国交省のルールによれば「バスの中でベビーカーは畳まなくてもいい」ことになっているため、畳んでいなかったのだが、このルール自体、バスの中にはどこにも掲示されていなかった。ルールが周知されていたら、こんな理不尽な思いをしなくても良かったのではないか、とSNSに書いたところ、大いに反響を呼び、テレビに取り上げられた。その出来事があってしばらくはバスに乗るのを躊躇っていたのだが、先日思い切って乗ってみたところ、バスの中に「ベビーカーは畳まなくて良い」という旨のポスターが貼ってあった。偶然かもしれないが、話題になったことがきっかけかもしれなかった。

社会も技術も、亀の歩みかもしれないが、日々進化してゆく。私たち親になったばかりの人間も、子どもの成長とともに、一日一ミリの速度で成長する。ゆっくりだが、確実だ。
現在、私のSNSは子どもの写真で埋め尽くされている。SNS上の私は、我が子のことしか考えていない、「陳腐な子連れの女」になった。仕事ができる「特別な自分」ではないが、それで良いのだ。陳腐な人間になることで、これまで仕事で穴埋めしていた孤独が癒された。
子どものいないときには見逃していた変化や、人とのつながりが、日常のなかに認められる。それが嬉しい。社会の持つ弾力性と、周囲に支えられながら、貪欲に育児と仕事の楽しさを享受してゆきたい。

これから子どもを産む人たちには私よりさらに図々しく、社会に求めてほしいと思う。求めよ、さらば与えられん。すでに子どもを持った側の人間としては、求める人に「与えられる」社会を、これから作ってゆきたい。

小野美由紀さんの仕事場の様子