Text by Casper(Shut Up Kiss Me Records)
Text by 井戸沼紀美
写真家・アレック・ソスによる国内初の美術館での個展『Gathered Leaves』が話題を呼んでいる。パリ、ロンドン、拠点であるミネアポリスなど、世界各地で50以上の個展を開催してきたほか、国際的写真家集団「マグナム・フォト」の正会員を務めるなど、そのプロフィールを見れば、ソスが今日の重要作家であることは明らかだ。しかし具体的にはソスの作品群の何が、世界中の人々の心をとらえているのだろう。
今回の記事ではそのヒントを探るため、一編のエッセイを掲載する。『ポケモン GO』、フランク・オーシャン、酔い止め薬、シャンタル・アケルマン……数年前にアレック・ソスと出会い、作品群に魅了されてきたある個人による眼差しは、あなたにも作家の魅力を伝える一助となるかもしれない。
神奈川県立近代美術館 葉山で10月10日(月・祝)まで開催中の『アレック・ソス Gathered Leaves』展。タイトルはウォルト・ホイットマンの詩集『草の葉(Leaves of Grass)』(初版1855年)の一節から採られている
アレック・ソスの写真を見ると、ある8月を思い出す。空港からUberに乗り、ホテルに着いて、ブラインドを上げる。窓は開かないが、外を見ると遠く向かいのビルに無数の工事灯が浮かび上がっていて、未だになぜだかわからないが、そのとき、いま、自分がこの街に「撮られた」のだとわかった。東京からここまで12時間1万kmの距離が、街によってはじめて自分に焼き付けられ、ホテルの窓越しに見える向こうのビルからやってきた光は、あらかじめ束ねられていた、私の移動から生まれたはずの感情に容赦なく入り込む。
私があちらを見ていたはずなのに、いつの間にか自分を見ているかのように思えてくる感覚。ソスの写真を見るたびやってくるそれを、はじめて実感したのがその瞬間、その8月だった。テレビは大統領選の話題で持ち切りで、セントラルパークではカビゴンが出たらしい。ニューヨークからオレゴンへ向かいフェスに行ったら、Shayla Lawsonというアーティストが詩を朗読していた。タイトルは“I Think I'm Ready to See Frank Ocean”。その2週間後にフランク・オーシャンが『Blonde』をリリースした、私の好きだった2016年の8月。
乗り物酔いは、「動揺病」とも呼ばれ、車やバス、電車、船など乗り物の揺れ、不規則な加速・減速の反復が受ける内耳(三半規管や耳石器)からの情報と目からの情報、体からの情報を受けた脳が混乱することによって起こる自律神経系の病的反応で、めまいや吐き気・嘔吐などの症状があらわれます。 - 「乗り物酔いの原因とは?」アネロンウェブサイトより(2022年8月参照)いつも飲む酔い止め薬の公式ホームページにはこう書いてある。不規則な加速・減速の反復。電車に酔っているからだろうか。シャッターの速度で光を制御する写真、そしてアクセルとブレーキを踏み込むロードトリップの性質を、これ以上的確にとらえた言葉はほかにないような気がしてくる。
アレック・ソスは自身のプロジェクトとして国内外への旅を重ね、自然や人々をとらえている 『2008_08zl0047』〈Broken Manual〉より 2008年 ©Alec Soth, courtesy LOOCK Galerie, Berlin
こうしてただうなだれているだけでも、旅や写真の数々のイメージが自分を刺してきて、ますます酔ってしまう。気を紛らわすため右手の車窓から外の景色を見てみると、ガラスに自分の顔が反射して見える。落ち着かない。こうして日常とは違う場所に移動してみても、あるいは移動しているからこそ、まず向き合うべき存在は自分であると言われている気がする。逗子駅からはバスではなく、レンタサイクルで美術館へと向かう。
そしてこれらのものたちがぼくの内部へ流れ込み、ぼくも外なる彼らへと流れ出る、
そして些細なことながら、ぼくも多かれ少なかれこれらのものたちの一つとなる、
そしてこれらのものを一つ残らず織糸にしてぼくはぼく自身の詩を織り上げていく。 - ホイットマン『ぼく自身の歌』、酒本雅之訳『草の葉 上』(1998年)岩波書店 、141pずっとソスの写真集を見返していたから、今回『Gathered Leaves』で展示されている写真のほとんどはすでに知っている。けど、想像を超えていた。チャールズ・リンドバーグの少年期のベッドから、白鳥のかたちに折られたタオルが成すハートから、折りたたまれたラブレターから、こんがらがった電話のケーブルから、60パウンドもの写真から、私のものではないはずの記憶の粒子がやってきて、自分が感光する。
『Gathered Leaves』展はアメリカを題材とする5つのシリーズ〈Sleeping by the Mississippi〉、〈NIAGARA〉、〈Broken Manual〉、〈Songbook〉、最新作〈A Pound of Pictures〉で構成されている。『チャールズ、ミネソタ州ヴァーサ』〈Sleeping by the Mississippi〉より 2002年 ©Alec Soth, courtesy LOOCK Galerie, Berlin
写真集を見るとき、たいていそれは写真を「見下ろす」行為である。しかし、こうして壁にかけられたプリントを前にして目線を合わせると、撮影者、被写体、鑑賞者の三者が同じ水位になって、それぞれの水がそれぞれに流れ込むのがよりはっきりとわかる。いま、私があなたを見ようとすると、あなたはあなたを見ていて、それをカメラで写すその人もまた、自分自身を見ているのだろう、だから、私も私を見ることにする、という感覚。
アレック・ソス『メリッサ』〈NIAGARA〉より 2005年 ©Alec Soth, courtesy LOOCK Galerie, Berlin
あらためて、(特にロードトリップ的イメージと結び付けられがちな)初期からいまに至るまで、ソスの写真は外の世界に開かれていると同時に、ずっと内を見つめていたとわかる。外に行くために移動するのではなく、内を探すために外へと行っているのだと。
アケルマンは徹底的に自分と向き合うこと、見るという行為に対する冷徹な考察を組み合わせてきました。彼女が作った映画はどれも、勇敢な行動の結実なのです。 - アレック・ソス、『IMA 2019 Winter Vol.30』(2019年)アマナ 、106pソスがインスピレーション源として名を挙げた映画監督、シャンタル・アケルマン。彼女の遺作『No Home Movie』(2015年)は、病でゆっくりと死に近づく彼女の母・ナタリアの姿を追ったドキュメンタリーだ。ホロコーストの生存者であるナタリアは、その経験を一言も語ろうとしなかった。
Skype越しの母ナタリアに彼女は言う。「世界に距離なんてないことを示したいの。あなたはブリュッセルにいて、私はオクラホマにいる。だけど、そこに距離はない」。
ここでより印象的なのは母の姿よりもむしろ、母に近づこうとも近づききれないシャンタル・アケルマン自身の姿である。彼女が母の姿を見ようとすればするほど、Skypeの向こうの母の姿はディスプレイ上のピクセルに還元され、見えなくなり、シャンタルはやがて自分と向き合うしかなくなっていく。
きっと画面の向こうの母ナタリアも、そして観客も同じ不能を自分に見る。しかしその距離を移動し越えなければ、互いの姿は本当に見えないのだろうか。私があなたを見ようとして自分自身を見ているとき、実際に姿を見たかどうかは関係なく、すでに私はあなたを見ているのではないか?
暗闇の中で踊る この音が途切れるまで
私たちは踊る もうすぐ終わってしまうだろう
ワルツを踊る なぜここにいるのかわからぬまま
時は過ぎ やがて私たちはいなくなる - Howard Dietz and Arthur Schwartz“Dancing in the Dark” (1931年)より筆者訳今回も展示されているプロジェクト『Songbook』(2015年)の写真集の背表紙には、ハワード・ディーツとアーサー・シュワルツによるスタンダード・ナンバー“Dancing in the Dark”の楽譜がプリントされている。映画『バンド・ワゴン』(ヴィンセント・ミネリ監督、1953年)で、フレッド・アステアとシド・チャリシーが夜セントラルパークで踊る、あの曲。言葉も交わさず、互いのことを見ないのに、やがてふたりは魔法的としかいいようがないタイミングで踊りはじめる。
それが定められた振り付けだったとして、その交わらぬふたりの視線に、それまでの記憶からくる感情がなかったと誰が言えよう。その踊りがはじまるタイミングに、私はアレック・ソスの写真に写る「合図」を見る。記憶の断片たちが、感光しはじめる瞬間の合図。
アレック・ソス『ビル、オハイオ州サンダスキー』〈Songbook〉より 2012年 ©Alec Soth, courtesy LOOCK Galerie, Berlin
そういえば、とふと思い立って、『ポケモン GO』のアプリを入れる。当時すぐ飽きてしまい、もうずっとログインしていないアカウントは無事に生きていて、画面には「わたし」がいた。ボックスを見てみると、あの8月に捕まえたピクシーもいる。ピクシーは耳が良く、月夜に空を見上げ、遠く月にいる仲間の声を聴くらしい。GPSの電波に混乱しているのだろうか、私はいま一歩も動いていないのに、画面上の「わたし」は不規則に動いたり止まったりを繰り返している。
私が会わなかった6年の間に、画面上の「わたし」もピクシーも、また別の風景を見てきたのだろう。そして私の記憶もまた、ほかの誰かに見られることもなく消えていくが、それでも私や、あなただけが見てきたすべてのことは無駄ではなかったと言おう。ホテルの窓から見た光が、ソスの写真に写る記憶が私の記憶に流れ込んだように、私の記憶もきっと、誰かに流れ込むのだから。
アレック・ソス『テキサス州ラウンドロック』〈Songbook〉より 2012年 ローク・ガレリー蔵 ©Alec Soth, courtesy LOOCK Galerie, Berlin