Text by 川浦慧
Text by 高城晶平
今年、生誕100周年を迎えた水木しげる。東京シティービューで大規模な展覧会が開催されるなど、水木しげるの歩みや生み出してきた作品の数々は、いまあらためて注目を集めている。そんな水木からインスピレーションを受けとってきた高城晶平が、水木しげると奥崎謙三を、あの世とこの世を橋渡しする「欠けた王」という眼差しからとらえ直し綴る。
高城晶平(たかぎ しょうへい)
バンドceroのボーカル / ギター / フルート担当。2019年よりソロプロジェクト「Shohei Takagi Parallela Botanica」を始動。2020年にアルバム『Triptych』をリリースした。その他、ソロとしてDJ、文筆業など多岐に渡って活動している。
2015年から2016年の上半期にかけて、大阪のラジオ局に隔週で出演していたことがある。来阪のたびになんの変哲もないシティホテルに泊まっていたのだが、このホテルがどうにも落ち着かず、寝苦しい。真ん中が吹き抜けになったロの字型の建物で、夜中にカーテンを開けると、向こうの壁の暗い窓に自分のシルエットが写る。なにか特筆するようなことが起こったわけではないが、ほんの少し不気味な場所だった。
そのことを音楽家の大先輩であるKさんに話すと、その場所には以前別のホテルが建っていて、自分も泊まったことがある、と教えてくれた。その当時もホテルはやはりロの字型の造りで、Kさんはそこでありとあらゆる怪現象を経験したのだという。そしてたまらずフロントに電話をかけて従業員を呼ぶと、やってきたのは一本足のボーイだった、云々……。肝心なオチはというと、忘れてしまいました、すみません。ボーイがやって来て怪現象がパタッと止んだのだったか、夜中にチェックアウトして逃げるようにホテルを後にしたのだったか、とにかくそのような話だったと記憶している。
この強烈なエピソードは、しばらく自分の胸の中に仕舞われていたのだが、ある時、松岡正剛の著書『フラジャイル 弱さからの出発』のなかに「欠けた王」という一篇を見つけて、再び意識に浮上してくるようになった。松岡氏は、世界中のあらゆる神の多くが身体の一部を欠損するエピソードやモチーフを携えていると『フラジャイル』で指摘している。
例えば北欧神話の万物の父である、単眼のオーディン。例えば「已(すで)に三歳(みとせ)になるまで、脚猶(なほ)し立たず」と日本書紀に記されるヒルコ。例えば後にシンデレラの物語として昇華していく世界各地の片靴伝説……。これらは彼岸と此岸を結ぶ存在として、様々な形で神話を彩っている。これを踏まえると、件のホテルに現れたボーイは、あの世とこの世を正常に取り結ぶべく、Kさんの元に降り立ったのかもしれない。
「欠けた王」という言葉から、僕は二人の人物を連想する。ひとりは水木しげる、もうひとりは奥崎謙三だ。二人はともに太平洋戦争で南方の戦地に送られ、戦傷を負った。水木は爆撃から左手を、奥崎は銃弾で右手の小指を失っている。二人はその後、それぞれ別様の仕方であの世とこの世の媒介者となり世間を騒がせることになるのだが、その在り方の違いは大変興味深い。
奥崎はパチンコで昭和天皇を狙撃する際「ヤマザキ、天皇を撃て!」と声を挙げた。この時、奥崎は自身の身体を戦死した友ヤマザキに貸し出すことで、あの世の無念を現世に届ける憑坐(よりまし)の役割を果たしていた、ということだろう。少なくとも本人はそういうストーリーを生きていたに違いない。『ゆきゆきて、神軍』(原一男監督 / 1987年)でも、奥崎は意図的な自己演出を交えながら、正義の執行人として戦地で起きた「処刑事件」の真相を追う。倫理観とともに、身体もあの世というか、外世界にはみだしている。奥崎謙三とはそういう人物だったと僕は考える。
一方、水木しげるは『ゲゲゲの鬼太郎』という、日本では知らぬ者のいない超有名キャラクターの生みの親だ。隻眼で、寝てばかりいるこの奇妙なヒーローは、左腕を欠いた作者の似姿と言えなくもない。彼は妖怪から被害を蒙る人間のために、または文明社会の跋扈に抗う妖怪たちのために(嫌々ながらも)奔走する。時には同胞の悪ふざけを制し、時には場所を追われた者を新天地に導いてやる。鬼太郎は言ってみれば、現実世界とこの世ならざるものとのあいだを取り持つ調停者のような存在だった。
では、妖怪とはどんな存在か。彼らは神と違って目的志向を持たない。カオティックかつ非合理な行動で人間を翻弄する。水木はそんな妖怪たちに憧れとシンパシーを生涯持ち続けた。彼は作品を通して、合理的な社会に非目的的なものの価値を問い続けていたのではないだろうか。
奥崎と水木を、あの世とこの世を橋渡しする「欠けた王」という眼差しからとらえ直してみると、そこにはおのずと二人の現実への対峙の仕方の違いが浮かび上がってくる。「無数の死をなかったことにして存続する現代」というフィクションを、真っ向から否定する奥崎。「死ななかったことにすればいいじゃない」と、死者や異界の者を現世に呼び込み、生死の境を否認する水木。二人は全く別の方法によって世界に死者を流入させ、人間社会の空虚を暴く。
ところで、僕にはごく身近に、もう一人の「欠けた王」として思い浮かぶ人物がいる。それは僕の祖父である。彼もまた戦争で南方(パラオのペリリュー島)へ送られており、左手の小指を欠いてもいる。ただこれは戦地で失ったのではなく、幼少時にロウソクが倒れて焼いてしまったのが原因らしい。
ペリリュー島で祖父に強烈な印象を与えたのは、蝶だった。そのためか、戦後もあちこち飛び回り、狂ったように蝶を蒐集し続け、自宅には百点以上の標本箱があった。油絵で南国のビーチを描き、ある時は庭で南国鳥を飼っていたとも聞いたことがある。それからアジアやアフリカ各地の仮面も集めていた。要するに、自分の身の回りに彼の地を再現していたのだろう。僕は子どもの頃、祖父の部屋に呼ばれ、椰子の実と貝で南国趣味全開のガンダムをつくってもらったことがある。その時の彼の部屋は、先の二人に比べればささやかかもしれないが、確かに異界に接続されていたような気がする。
我が三人の「欠けた王」たちは、それぞれに畏怖と親しみを内包した存在だった。壮絶な過去に真摯に向き合いながら、ユーモアや、あるいはアイロニーを経由させて、その後の人生を享楽した者たち。その姿は、まるで威厳ある妖怪のように、僕の心にしっかり刻まれている。