Text by 生駒奨
Text by 川井康平
2022年8月。ふたりの偉大なファッションデザイナーがこの世を去った。森英恵と三宅一生だ。
現代のファッション業界において、その名を知らない人はいないほど、数多くの革新的なクリエイションを発信してきた。彼らを惜しむ声がファッション業界にあふれるなか、本記事ではふたりの軌跡を追懐するとともに、現代に残した功績をたどる。
森英恵は1948年、戦時中に出会った森賢と結婚。しかし、森は家で夫を待つだけの結婚生活に早々に飽きた。厳格な医者家庭に生まれ、志したアーティストの道を絶たれた過去の経験から、自分の決断で人生を歩んでいきたいとドレスメーカー女学院(現・ドレスメーカー学院)に入学し、洋裁を学ぶ。
卒業後の51年、家業が繊維メーカーで女性が働くことにも理解があった夫の後押しもあり洋裁店「ひよしや」を新宿で開業する。文化服装学院が位置し、後進のスターデザイナーも足しげく通ったその地で、彼女のキャリアはスタートした。
森英恵 / Getty Images
文化人が多く集まる土地柄も起因して、あるとき映画の製作・配給会社から衣装制作の依頼が舞い込む。それを境に1950年代初頭から70年代にかけて数百本に及ぶ作品の衣装を制作することになる。それぞれの監督が描く「女性像」を知ることで自身のビジネスにおける購買ターゲットを客観的に理解していくと同時に、シチュエーションや着用者のキャラクターを体現するデザインを学びオートクチュール(高級衣装)デザイナーとしての技術を習得していく。
1977年には、アジア人として初めてオートクチュール組合(※1)会員になり、「東洋人初のオートクチュールデザイナー」という偉業を成し遂げた。ファッションの域を超えた権威あるフランスの伝統文化であるオートクチュールに極東の日本人が認められた瞬間だった。
また、オートクチュールデザイナーとしてパリ・コレクションを続ける傍ら、森はオーナーデザイナーとして『HANAE MORI』のライセンスビジネスを100億円規模の事業へと拡大させたほか、企業やオリンピックユニフォームデザインなどファッションデザイナーの仕事の枠を広げ、日本人デザイナーの地位向上に大きく寄与した。また、女性の社会進出の先駆者としても、その存在は業界内外に影響を与えた。
誰に師事するでもなく世界的オートクチュールデザイナー、そしてブランドオーナーとして成功を納め、ブランドアイコンの「蝶」のモチーフから「マダム・バタフライ」とも称されたデザイナー森英恵。小さな洋裁店から世界へと羽ばたき、洗練された衣服と、気品と自信にあふれ、自立した姿は当時の女性の憧れとなった。
かつて森自身がそうであったように、女性は働きに出る夫の留守を預かるという固定観念が残る戦後復興期の日本において、彼女の姿は女性の社会進出の先駆者として大きなインパクトを与え、いまなお働く女性のロールモデルとして語種になっている。
1938年、広島で生まれた三宅一生は、平和公園近くに架かる彫刻家イサム・ノグチが手がけた2つの橋「生きる」、「死ぬ」(現在は「つくる」、「往く」に改称)と出会い、初めて「デザイン」を意識したという。死後に評価されるアーティストの作品ではなく、現実にそこに存在し、役割を果たすデザインに強く憧れ、多摩美術大学に入学する。在籍中に衣服を独学し、デザイナーとして第一歩を踏み出す。
三宅一生 / Getty Images
『ISSEY MIYAKE』の真髄は、「人が着て初めて服になる」との思想のもと、衣服に昇華させた「一枚の布」という哲学に見て取れる。日本の着物やインドのサリー、アフリカの民族衣装など身体とそれを覆う1枚の布地の間に生まれる「空間」こそが三宅の服づくりの基盤だ。限りなくシンプルな造形と空間は、着用者とつくり手の2者に均等な責任を持たせる。それゆえに「人が着て初めて服になる」。
1973年、三宅は自身の名を冠したブランドで、パリ・コレクションに初参加する。川久保玲(COMME des GARÇONS)や山本耀司(Yohji Yamamoto)などに先行し、日本人デザイナーの思いを一身に背負った『ISSEY MIYAKE』は、その期待に反し、パリのファッション業界をもってして「自分たちを困惑させる」と評された。当時、ヨーロッパの服は身体にフィットし、着用すれば形になることが前提につくられていた。一方、『ISSEY MIYAKE』は前述したように自身で着方を考え、工夫することを求めるブランド。その哲学が理解されるまでには時間を要した。
そんな評価を物ともせず、1976年には日本国内で「三宅一生と12人の黒い女たち」と題されたショーを開催し、ブランドの哲学を体現した「一枚の布ニット」を発表した。また、タイトルの通り黒人女性のみを起用し、白人モデルが主流だったファッション業界へのアンチテーゼ、そして多様性の価値観を提示するかたちとなった。
パリで精力的にコレクションを発表し続けた三宅の名を一躍世に広めたのは、1988年に開発した「製品プリーツ」だろう。その後研究を重ね、収納性に富む機能美と高い汎用性を持ち合わせたプリーツ技術を落とし込んだ『PLEATS PLEASE ISSEY MIYAKE』を93年に発表。着る人の体型を問わないインクルーシブなサイズ感は、世界中で愛されるブランドの代名詞的存在になった。2013年には、プリーツを用いた男性の新しい日常着『HOMME PLISSÉ ISSEY MIYAKE』を展開した。
三宅一生は、ダイバーシティやサイズインクルーシブなどの言葉が浸透するもっと以前から、その概念に変化と革新というデザインを通して、疑問を投げかけ続けた。「人が着て初めて服になる」という同氏の哲学が示す通り、人種も体型も性別さえ問わないデザインは、全人類に向けた衣服とも言える。
自身のブランドを運営する傍ら、後進の育成にも尽力した三宅は、『Mame Kurogouchi』の黒河内真衣子や『TAAKK』の森川拓野など、現在も世界で活躍するデザイナーを多く世に送り出した。三宅の「意志」は、プリーツのように、それぞれのデザイナーに合わせて形を変えながら受け継がれていくだろう。
ふたりの稀代のデザイナーが残した功績は、これだけにとどまらない。1985年、東京をロンドン、ミラノ、パリに次ぐファッション都市へと押し上げ、日本のファッションの地位向上を目的に三宅一生が代表幹事、森英恵や川久保玲、山本耀司などの5名のデザイナーが幹事に、東京ファッションデザイナー協議会(以下、CFD)を発足させた。このCFDを基盤に、今日の『ファッションウィーク東京』(以下、東コレ)は存在する。
『ISSEY MIYAKE』や『HANAE MORI』のように世界的に注目される国内ブランドはいまや少なくはない。しかし、極東の日本で開催されるファッションショーにおいては、その存在感は4大コレクションと比べると、CFD発足から約40年経過した現在でもあまりに小さいと言わざるを得ない。
しかし、東コレが若手デザイナーと世界をつなぐハブになっているのもまた事実だ。近年では、『sacai』と『UNDERCOVER』が合同ショーを行なったり、『kolor』や『TOMO KOIZUMI』、『TOGA』、『WHITE MOUNTAINEERING』など4大コレクション名を連ねる有名ブランドが参加することで、東コレの存在感を世界にアピールしている。
また、8月29日から9月3日に開催されている2023年春夏シーズンの東コレでも、『yoshiokubo』や『ANREALAGE』などパリを中心に活躍するブランドのほか、近年若者を中心に支持を集める『M A S U』や『kudos/soduk』 など東コレで初めてショーを行なうブランドも多数参加する。
50近くのブランドが参加する東コレで『ISSEY MIYAKE』や『HANAE MORI』のように海外を射程圏にとらえ、いままさに世界へ羽ばたこうするブランドがいる。それこそが『M A S U』だ。18-19年秋冬シーズン、既存ブランドの『M.A.S.U』に当時25歳の後藤愼平がデザイナーとして加入し、リブランディングを行なった。「新しい男性像」をコンセプトに男性の持つ繊細な感情や細やかさ、優しさを表現する同ブランドは業界内外でも高い評価を集める。
昨年2月に開催したブランド初の単独ショーでは、「CODES」と題し、世代や性差などの「記号」の概念を打ち払うように、メンズブランドではあまり用いられないフリルやポップコーンのような伸縮素材、シースルーなどのデザインや生地を用いてコレクションが話題を呼んだ。
また、同氏は『WWD JAPAN』(*1) のインタビューで「ファッション業界は、やりがい搾取でネガティブなイメージを持つ人が業界内外にもたくさんいる。でも社会は流れに身を任せるのではなく、つくっていくもの。自身がこうなりたい、こうしたいという気持ちに貪欲であるべき。ファッション業界でその思いを貫くために、どうしたらいいかをつねに考えるべきだし、ファッションの魅力や地位をもっと高めていく努力を絶やしちゃいけない」と語った。
先人のデザイナーが国内ファッションの地位向上を願いCFDを発足し数十年経った現在、奇しくも同じ思いを持つひとりの若手デザイナーが東コレで初のショーを行なう。これからのファッション業界を担うであろう彼のクリエイションに期待したい。
森英恵と三宅一生の功績は書き尽くせないほど多い。またふたりがファッション業界にとどまらず、社会に与えた影響は、現代にも脈々と息づいている。
ファッション業界の益々の発展を願うとともに、おふたりに心からのご冥福を申し上げる。