2022年08月27日 09:01 弁護士ドットコム
何かの領域ですぐれた才能を持っている「ギフテッド」の子どもたちが、集団・共同で学ぶことを前提とする公的教育になじみづらく、困難を抱えたり、孤立したり、不登校になってしまったりすることが、しばしばみられる。
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「ギフテッド」という、神様からの特別な贈り物であるかのようなその言葉の響きだけが一人歩きすることで、子ども本人の感じているつらさを見えづらくしているとの指摘もある。特別な才能だけでなく、発達障害の特性も併せ持つケースを「2E(twice-exceptional)」と呼び、二重の特別な配慮が必要だと考える専門家もいる。
文部科学省では、このように特異な才能がありながら公的教育になじみにくいと感じている子どもたちへの支援のあり方について、有識者会議を開催して検討している。
発達障害の子どもの診療を続けてきた信州大学医学部子どものこころの発達医学教室・本田秀夫教授に、教育現場の背景や、さまざまな特性を持った子ども同士での多様性のある教育のあり方について聞いた。(ライター・今川友美)
――先生は、30年以上にわたり、発達障害の子どもたちを診察されてきましたが、そのなかにも「ギフテッド」と思われる子どもはいましたか?
発達障害のなかでも、自閉スペクトラム症(ASD)の特徴では、興味が狭く限定することがあります。ASDの人のなかには特定の領域へのマニアックな知識がある人や、すぐれた技能を発揮する人がいます。
もちろん“能力がすぐれた人”という方はたくさん診ていますが、その特異な能力を生かして、それがたとえば仕事で革命をおこすほどの“天才”のような人は、多くはありません。絵が上手な人はたくさんいるけれど、じゃあ、画家で成功するかというとその保証はないのと似ています。上には上がいると、人は誰しも思い知るものです。
だから、親御さんが、「うちの子はギフテッドだから、この道を極めれば仕事に困らないだろう」と期待しても、その期待は外れることが多いんですね。優れた能力を伸ばすことはたしかに重要ですが、そこだけにしがみついていると、かえって社会参加が難しくなることもあると感じています。
――「ギフテッド」という言葉は、どうしても光の面に注目が集まりがちです。先生も有識者会議に参加されていますが、特異な能力がもつ光と影のバランスについて、会議ではどのような印象を受けますか?
せっかく良い能力を持っているのだから、それを生かし切れるように個別最適化された教育を推し進めるべきだという視点と、その一方で、その子たちの社会的なハンディキャップをどうカバーするかということや、生きづらさに焦点を当てなければいけないといった視点と、両面からの発言がありました。
私は、両方必要だと思っています。エリート教育や能力開発はとても重要なことで、我が国の公的教育ではそこが不十分であるという認識を持っています。なぜ我が国ではそれがスムーズにいかないかというと、インクルーシブ教育の考え方が浸透していないからだと思います。
「落ちこぼれ」も「浮きこぼれ」も作り出さない土壌として、すべての学校・教室のなかでバラエティに富んだ人たちを標準的にカバーできるような、ユニバーサルデザイン化された教育環境が必要です。加えて必要なのは、一人ひとりの個性にも対応できるような、個別化された教育の保障です。
――「ギフテッド」という言葉そのものが一人歩きすることをはじめ、特異な才能を持った人への誤解や偏見が多いのはなぜでしょうか?
多くの人は、人の能力がバランスよく発達すると考えがちです。ある能力が高ければ、別の能力も同じように高いだろうと、直感的に考えます。ですが、実際にはそんなことはなくて、ある能力は高いけれど、別の能力は低いというような人も多く存在するわけです。
人は多かれ少なかれ何かについて得意な部分がありますが、その凸凹の落差が極端なのが、いわゆる「ギフテッド」と呼ばれる人たちです。「こんなにできるのに、なぜ別のことがそんなに苦手なの」と一般的に思われてしまい、その違和感の際立ちから、かえって否定的な感情を持たれてしまう現象が日本の風土では起こりやすいです。
本当に天才的な人というのは、逆に天才であるがゆえに、ほかのところで多少奇妙な行動をとっても、周りからは大目に見てもらえることがあります。ですが、現実的にはむしろ、そこまで能力が際立っているわけではないという人のほうが多いです。
その人たちのマイナス点ばかりが注目されて、「あの人はこれができない」という烙印を押されて、能力の高さに光が当たらないで、自信を失ってしまうということが起こりやすいです。
有識者会議では実際、特異な才能を伸ばしきれず、学校にうまく適応できずに不登校になったり、大人になってからも二次障害に苦しんだりする人たちを想定した発言も多く出ています。
――子どもにとって学校教育の問題は、その後の人生で、社会に適応できるかどうかという問題と切っても切り離せないわけですが、いまの教育現場をどうみますか?
少数派の子どもたちにとっても、居心地よくモチベーションをもって参加できる環境づくりが大事ですが、そういうことができている先生とできていない先生がいます。
多少個性的な子どもがいてもクラス運営できる先生とそうでない先生とでは、カリキュラムはこういうものだという固定観念が、柔軟に変更できるかどうかのちがいがあります。
カリキュラムはこうあらねばならない、子どもたちはこのカリキュラムについてこなければいけないという考え方を頭のどこかに捨てられないでいる先生は、自分が設定しているカリキュラムにフィットしない子どもがいるときに、自分が工夫すべきなんだという考えを持つことができません。
――学校教育だけではなく、社会風土的にも要因があるのでしょうか?
「親孝行」や「年長者を敬う」などの我が国の文化は、儒教の影響を受けています。これをエスカレートさせて、「人間には上下関係があって、下の者は上のいうことには絶対に従わなければいけない」という価値観に凝り固まってしまう人たちがいます。
そのような考えをわずかにでも持っている人が教職に就くと、生徒は自分より下なんだから、先生の決めたことには生徒が従わなければならないという感覚を、どこかで持っています。この感覚を持っている先生は、子どもの個性を見ずに教師側の論理を押しつけがちになります。
逆に、基本的に個から入る考え方を持つことのできる先生は、一人ひとりの子どもを見て、この子にはどんな教育が必要だろうかという客観的なニーズを把握します。
授業の進め方は教師が決めて、生徒はそれに従えばよいという教師側の論理ではなく、子どもの分析から純粋に得られた目標設定が必要になります。ですが、そのような考え方を学び損ねた教師たちは少なくないと感じています。
――社会風土的な文化の壁も厚いなかで、特異な才能のある子どもたちに最適な教育を推し進めるにはなにが必要でしょうか?
医療者の立場でいうと、前向き研究を実施してデータを示す必要があると思っています。医療では、治療法の開発に際して仮説を立てて、仮説に沿った実験研究をしてデータ(エビデンス)を示していくのが通常です。
しかし、我が国の教育施策は、とくにそのようなエビデンスが示されることなく方針変更が行われることがあるように思います。これは、学校教育システムのなかでも一番課題だと私は思っています。
新しい指導法を考案したら、モデル校を設定したり大学教育学部の附属校などに委託したりして、その指導法に基づいたカリキュラムと従来型のカリキュラムとの比較研究を行い、その検証結果をデータにして示す必要があります。そのようなデータの蓄積によって、指導の標準化が可能となります。
こうしたエビデンスを積み重ねていくことで、一人ひとりの個性が誰もはじかれることなく生かされるような教育方法を標準化していく取り組みが必要です。