2022年08月25日 07:01 リアルサウンド
代表作『鉄コン筋クリート』、『ピンポン』を始めとする数々の作品で胸を打つ人間ドラマを描き、2022年に話題となった劇場アニメ『犬王』ではキャラクター原案を担当した漫画家・松本大洋。ビッグコミックオリジナル増刊号(小学館)にて連載中の最新作『東京ヒゴロ』は、そんな松本氏が30年を越えるキャリアの中で初めて「漫画」をテーマに描いた注目作である。フリースタイル誌『このマンガを読め!』第1位、宝島社『このマンガがすごい!2022』オトコ編・第5位、“最高傑作”との呼び声も高い同作、待望の第2集が9月末に発売予定。発売に先駆けて第1集を読み返し、気持ちを温めておきたい。
『東京ヒゴロ』に登場するのは、どうしようもなく「漫画」を好いてしまった人たちだ。
そして必ずしも、報われていない。
だけど皆、漫画にしがみついている。離れられずにいる。どうしようもなく好きだから。
この作品の主人公は、50歳を超えた独り身の男性・塩澤和夫。東京の片隅、集合住宅の小さな一室で、白い文鳥と暮らしている。雨の中、突風に傘がさらわれても「この街に暮らすどなたかが雨露をしのいでくだされば良いです。」そう呟く。『雨ニモ負ケズ』を地で行くような朴訥とした男だ。周囲の人々はそんな塩澤に一目置き、好意と信頼を寄せている。職業は、大手出版社の漫画編集者。が、念願叶って創刊した漫画雑誌『夜』が休刊に追いやられ、「贖罪」のために、長年勤め続けた会社の辞職を決意する。加えて、漫画からも決別しようとする。そこから物語は始まる。
だがもちろん、本作は漫画を諦める物語ではない。漫画を諦められない(塩澤を含めた)人々の、再生と再出発の物語である。
第4話「本日、古書店に連絡し、漫画と決別する」では、「宝物」であり「人生を支えてくれていた」漫画たちを「全て処分」するため、塩澤が古書店店主を自宅に招く。塩澤が漫画の山を段ボールに詰め込み、自室から廊下に移動させ、店主が地道に査定していく。やっとの思いで最後の段ボールに手をかけたとき、塩澤の心が揺らぐ。
店主「やめるって、ナニ? 売るのやめるってこと?」塩澤「はい、申し訳ございません。」店主「気が変わっちゃったってわけ?」塩澤「大変…失礼いたしました!!」、「あっ、そうだ、コレを…これを引き取ってください。」、「些細ではありますが…」店主「いいよ。」、「むりして売ってくんなくてもいいよ。」塩澤「あ…、いや…、…しかしそれでは…」店主「わかるんだ、アンタの気持ち。」、(漫画の山を一瞥して)、「オレも好きだから…漫画。」
そして塩澤は、かつて関係した漫画家たちの元へ足を踏み出す。新たな漫画雑誌をつくるために。
妻とは離婚。娘はたまに面会。かつての輝きを取り戻そうと日々もがく漫画家。成功を収めるも漫画界に絶望して以来二度とペンは持たないと決め、団地の管理人をしている元・漫画家……。塩澤の言葉と行動は、葛藤を抱えながら生きる彼らの心を揺さぶり、再び火を灯していく。光を見据えて、第1集は幕を閉じる――。
青い炎のような静かに熱い脚本の素晴らしさはさることながら、漫画であるからには作画も欠かせない要素である。
今作で再認識させられるのは、やはり松本大洋の漫画表現の巧さだ。流れるようなコマ割り、言葉よりも饒舌な表情、何気ない会話の妙、場面にアクセントを添えるオノマトペ、哀愁を誘うように織り込まれる何気ない東京の風景……。
奇をてらわず、淡々と、しかしながら深く訴えかけてくる表現の数々には思わず舌を巻いてしまう。何より登場人物たちが本当に魅力的なのである。数々の人間ドラマを漫画の中で描いてきた松本大洋の、職人的技巧が『東京ヒゴロ』にはある。連載開始早々、最高傑作とささやかれるのも納得だ。
人は折り合いをつけて生きている。
折り合いをつけないと、世の中、生きづらいから。
『東京ヒゴロ』でもそうした人たちがたくさん登場する。読み手は自然、彼らに自分自身を重ねる。松本大洋は、折り合いを重ねて蓋をした大人の心の奥底に、優しく光を当て、解きほぐし、開放してくれる。だから登場人物たちも救われて、読者も救われた気持ちになる。
塩澤が自分自身に出会い直し再生の道を歩み始めたように、彼の周囲の人々もまたそうであるように、(某・夜電波から言葉を拝借するならば)フレッシュである限り、人は自滅しない。そして、何度でもやり直せる。
塩澤たちの物語はどこへ向かっていくのか、今後の展開を大いに楽しみにしたい。
■プロフィール
松本大洋(まつもと・たいよう)
1967年、東京都生まれ。’87年、講談社「月刊アフタヌーン四季賞」で準入選を果たし、デビュー。『週刊モーニング』にて『STRAIGHT』、『点&面』を連載した後、『ビッグコミックスピリッツ』にて『ZERO』、『花男』、『鉄コン筋クリート』、『ピンポン』、『竹光侍』(原作:永福一成)などの作品を発表。『竹光侍』は2007年に第11回文化庁メディア芸術祭マンガ部門優秀賞、’11年に第15回手塚治虫文化賞マンガ大賞を受賞。’16年『Sunny』で第61回小学館漫画賞受賞。’20年『ルーヴルの猫』で米国アイズナー賞を受賞。現在『東京ヒゴロ』をビッグコミックオリジナル増刊号(小学館)にて連載中。