今や星の数ほどいるアイドルだが、卒業後のセカンドキャリアで苦労したという声は多い。そこで、さまざまな世界に転身を遂げた元アイドルに「アイドルとしてのキャリア(ドルキャリ)が異業種でも通用するのか?」を不定期で聞いていくのが当連載だ。今回話を聞いたのはアニメ番組などのMCを務め、アイドルグループ『風男塾』にも所属した喜屋武ちあきさん。人付き合いが苦手だった彼女は、どのようにしてコミュニケーション力を上げていったのか。またアイドルのセカンドキャリアの問題点についても語ってもらった。(取材・文:徳重龍徳)
コミュニケーション下手で苦労した新人時代
喜屋武さんは現在、これまでのタレント活動で培ったスキルを活かしつつ、アニメの企画やPR、ヨガインストラクターといった別キャリアに取り組んでいるが、キャリアを通してのモットーに「誰かを元気にする」がある。2004年、原宿でスカウトされたことをきっかけに芸能界入りするが、心には亡くなった母親の存在があった。
「母は世の中に対して生きる希望を持てなかったタイプの女性だったので、それが寂しかったんです。私が芸能活動をすることが、母が生きた証を残すことに繋がると考えたのが芸能界入りした理由です。また私の活動を通して、『毎日が面白くない』『明日も生きていたくない』という人たちの生きる希望に少しでもなれたらとも思いました。それが成し遂げられるのであれば、活動の内容はあまり問わないという感じでした。スカウトをしてくださったのが、乙葉さんが所属していたグラビアの事務所だったので、グラビアの仕事をすることになりました」
もともとコミュニケーションは苦手。小学、中学生時代には友達がおらず、ほぼ一人で過ごしたといい、人への不信感も強かった。当初はグラビアの撮影現場でもなかなか周囲に打ち解けられなかった。
「水着の仕事においては、肌というより、心をどれだけさらけ出せるかが重要だと思うのですが、そういうものがすごく苦手だったんです。なので一番最初の撮影のときに、編集の方に『喜屋武さんは非常に排他的な人間だね』と言われたり……。初めての仕事でこれか、とはすごく感じました」
それでも長く続けていく中で、人に興味を持ち、自分からどんどん話しかけていくことが、コミュニケーションのコツだと学んだ。本当は苦手なコミュニケーションを積極的に取る姿勢は、喜屋武さんの体に染み込み、現在も続いている。
喜屋武さんは元祖オタクアイドルとしても知られる。アニメ、漫画、ゲームなどのオタク文化が好きで、それらの趣味をオープンにしていたことがやがて仕事にもつながっていった。そのきっかけは中川翔子との出会いだった。
「グラビアの編集の方に、『アニメが好きならこんな子がいるよ』と中川翔子さんのことを教えていただいて、その後にオーディションでお会いした際に仲良くなりました。彼女は誰よりも早くブログで発信していて『自分の好きなことを世の中に発信していいんだ』と教えてくれました。今でも当時のブログを見ていたという方に会うことがあります。自分がオタクをさらけ出すことができたという意味で、キャリアにおいてのターニングポイントの一つです」
遅れてきた青春だった『風男塾』
「風男塾」時代の喜屋武さん
オタクであることを公言していたことで、2006年にインターネット番組『はなわレコード“中野腐女子シスターズ”』への出演が決まり、番組に出演したメンバーたちで組むアイドルグループのメンバーになった。アイドルグループ『中野腐女シスターズ』(のちに中野風女シスターズに改名)だ。メンバーには喜屋武さんやスザンヌ、現在はえなこなどが所属する事務所の社長でもある乾曜子などがいた。
後に喜屋武さんのキャリアにおいて重要なものとなるアイドルグループ活動だが、当初は非常に気の重いものだった。
「最初はただのバラエティ番組だったのですが、段々とライブ活動が本格化していき、歌もダンスも得意ではない私がどうしてこんなところにいられるのかと悩みました。ライブに対しての苦手意識が強すぎて、直前までずっとアニメソングを聞いてなんとか気持ちを高めていました。ライブ本番でもお客さんと目を合わせると緊張してしまうので、一つのところに目線を合わせようと壁に貼った紙をずっと見ていました(笑)」
20人ほどしか入らない沼袋サンクチュアリという小さなライブハウスからスタートした活動は、やがてキャパが1000人を超えるShibuya O-EASTで定期ライブが行えるまでになっていた。さらにグループから派生した男装アイドルユニット『風男塾』(当時は『腐男塾』)として2008年にメジャーデビューも果たす。
『風男塾』は中野風女シスターズの面々が男性に“変身”したグループで、喜屋武さんも素の自分でなく、武器屋桃太郎に変身して活動したが、これが大きかったという。
「別の人間としてやっているので、その部分でまず気が楽でした。髪や衣装などで変身した瞬間にお互いの呼び名も自然に変わるし、コミュニケーションの取り方も変わるんです。『風男塾』では同じ年齢という設定になっている時期があったので、先輩後輩の上下関係もない。女子のときとはコミュニケーションがちょっと変わってきて、楽になっていくというか。いま思い返しても不思議な空間だなと思います」
学生時代に学校に馴染めず、けっして甘い記憶ではない喜屋武さんにとって、グループの活動は少し遅れてやってきた青春だった。
「本当にさまざまな出来事があって、良いことも悪いことも全部共有してみんなでやっていました。私はリーダーの役割もさせていただいて、メンバーのみんなの意見を吸い上げて、まとめて運営に伝えたりもしていました。青春だったし、家族よりもずっとメンバーと一緒にいました。すべてが人生で初めての経験で、すごく大きかったです」
喜屋武さんが思い出深い出来事として挙げたのが2014年、自身の卒業ツアーだ。全国21カ所23公演を行い、千秋楽は日比谷野外大音楽堂でライブを行った。
「あの時はメンバーみんなが一つのところを目指して進んでいました。私自身もグループに残るメンバーのために何か残して卒業したいと強く思っていて、よくスタッフさんとも激論をしていました。今でもメンバーの子と話しますけれど、『野音に向けて盛り上げていた時期が一番胸が熱くなりました』と言われ嬉しかったです」
それだけ愛した場所である『風男塾』からの卒業には、複合的な要因があった。
「一つは年齢です。卒業のタイミングはもうすぐ30歳になる年でした。グループが長く続いて、はたして40歳まで男装しているかと考えました。また私はグループを本気で売りたくて、スタッフさんとの対話の中で、私は1年間全力を注いで、それでダメならなくなってもという玉砕覚悟という強い気持ちだったのですが、スタッフさん側とは少し方向性に違いがありました。いつまでも私のような古株がいて、グループにとってプラスになるかとも考えました」
グループ活動と並行しながらも、アニメやゲームに関する仕事のオファーが、喜屋武さんのもとに数多くやってきた。その中でも、グループに入る前から番組に起用してきた「アニマックス」は彼女の芸能活動にとって欠かせないものだ。
「アニメを作ったスタッフの方に話を聞く『創ったヒト』や、May’nさんとMCを務めた音楽番組『STUDIO MUSIX』、音楽イベント『ANIMAX MUSIX』でも司会をやらせてもらいました。司会のスキルが全くない頃から色々な経験を積ませていただいたので、とても恩を感じています」
特にケンドーコバヤシとMCを務めた『創ったヒト』では、プロデューサーや監督などアニメの制作サイドの話を聞くことができ、アニメに対する理解が深まった。
ヨガインストラクター、そしてアニメ制作の裏方に
「アニメヨガ」を考案した
喜屋武さんは『風男塾』を卒業すると、長い悩みの時期を過ごすことになる。人生をかけて臨んでいたアイドル活動であったため、そこを埋めるものがなかなか見つからなかった。
「完全に“風男塾ホリック”になってしまっていて、働かない日が1日でもあると落ち着かない。当たり前にメンバーとコミュニケーションをしていたLINEグループからも卒業後に抜けたんですが、毎日くだらないことでもやりとりしていた場がなくなって寂しい気持ちでした。グループの時のように、歌って元気を届けるということは今後はできないと思い、どうしていこうかと悩みました。1年間くらいは引きずっていました」
そんな状況の中で喜屋武さんが始めたのがヨガだった。インストラクターの資格を取り、今も仕事になっている。
「風男塾を辞めた途端にリリースイベントもなくなり、踊ったりもしなくなったので運動不足だなと感じて、ヨガ教室に行ったんです。そうしたらとても気持ちがよくて『合うな』と思いました。たまたまその教室がインストラクター養成講座を開催しているところだったので、そのままの勢いで申し込みました。今、思うとなんで資格までを取ろうとしたのかわからないんですが、オタクの気質かもしれませんね(笑)」
喜屋武さんの行動力はそこだけに止まらない。インストラクターの授業中に「自分の好きなアニメとヨガを掛け合わせたらどうなるだろう?」とアイディアを思いつき、アニメのポーズをヨガとして行う「アニメヨガ」を考案する。これをまとめた同人誌をコミケで出展すると、さらに本を手に取った出版社が声をかけ、2016年に『喜屋武ちあきのアニメヨガ』として出版もされた。
ヨガのインストラクターは、芸能界入りの理由でもあった「誰かを元気にする」とも通じる仕事だった。
「アニメとヨガを結びつけることで、アニメ好きな方はもちろん、アニメに携わる作り手の皆様にも興味を持っていただけたらと思いました。アニメを作るのは非常にやりがいのあるお仕事ですが、体力的にも精神的にも重労働です。机に向かっての作業も多いですし、ご自身のケアを後回しにして根を詰めすぎることで体調を崩す方を目にします。皆さんにいつまでも健やかに元気で作品を作り続けてほしいと思っているのですが、ハードワークの中でそんな余裕がなかなかないと思うので、私がヨガをお伝えすることで、少しでもケアに繋がれば嬉しいなと思っています」
そして喜屋武さんのアニメとの関わりにも変化が生まれる。2019年に事務所から離れフリーになると、翌2020年にアニメをはじめとしたエンターテイメントコンテンツのプロデュースなどを行う企業「ARCH」に作品契約として参画した。
「元々、アニメに“作る側”として携わりたいとはずっと考えていました。ある時、10年以上前に仕事を通じて出会った監督の方と『企画を立ち上げましょう』という話になったんですが、ノウハウがないので、徳島のアニメイベント『マチ☆アソビ』で知り合ったARCHの創業者の元を訪ねて『企画プロデュースを知りたいんです!』とお願いしました。ARCHは門という意味ですが、本当に叩いて壊すような形で入ったんです(笑)よく受け入れてくださったと思います」
現在はアニメの企画制作の流れに携わる一方で、自身の抱える企画の実現に向け奮闘している。ただアニメの世界では、まだまだ新米。力不足だと感じる場面もあり、毎日、試行錯誤の日々だ。
「やはりこれまでのキャリアのイメージも強く『喜屋武さんはタレントさんだからね』と言われると、なんとなく半人前と言われているようで悔しい気持ちがあります。今後実績を積んでいく中で、少しずつ実力を認めてもらいたいなと。アニメのクレジットを得ることというのは、とても大変なことだと思っていますが、頑張りたいです」
アイドルのセカンドキャリアについて思うこと
これまで芸能人として多彩なキャリアを積んできた喜屋武さんだが、アイドルのセカンドキャリアについては難しさを感じているという。
「アイドル活動自体はとても楽しいですし、ファンの方との交流や夢を追う過程は輝いています。お金は稼げない場合も多いと思いますが、とても充実した日々を過ごせます。でも、その一時期の後の人生の方が長い。引き続きファンの方に応援していただきながら生活するとして、どこまでその状態でやっていくことができるのだろうと思うんです。また、アイドルとファンの関係は契約ではなく、必ず最後まで応援してほしいなんて言えません。気持ちや環境の変化を制御することは難しいと思います。私の場合、実際にグループを抜けた後に離れていったファンの方もいましたし、結婚などのターニングポイントを迎えることに不安を感じる方も多いのではないでしょうか。」
いざ芸能活動で学んだものがあっても、それを一般社会で生かすことは難しい。たとえ資格を取っていたとしても、資格取得から時間があればブランクが大きく、資格を生かすために学び直す必要が出てくる。
「現役で楽しく活動している子たちに、10年後どうするの?と問いかけたところで、具体的なイメージは湧きません。実際にその時が来て初めて実感が生まれると思いますが、先んじてスキルを身につけたり、二手三手先を考えてから行動に移すことは重要かと思います」
難しいアイドルのセカンドキャリア。そこでアイドルのスキルが活かせるものとして、喜屋武さんは自身の経験からコミュニケーションが重要だと語る。
「私が、今の状況を作れているのは全て人とのコミュニケーションのおかげだと思っています。
元々はコミュ障でしたが、本質的には人と出会ったり話したりすることが好きだったので、20代の頃から色々な場所に出かける機会があれば積極的に行っていました。その時に出会った方々のつながりで、今でも困ったときに手を差し伸べていただけたり、お仕事をいただくことがあります。とにかく、まずは自分で行動して色々な場所に行って色々な人に会って経験を積むことはすごく大事だと思います。」
もともとコミュニケーションは苦手だった喜屋武さんだからこそ、その言葉には説得力があった。