2022年07月02日 07:51 リアルサウンド
※本稿には、『ベルセルク』第365話・第366話の内容について触れている箇所がございます。未読の方はご注意ください。(筆者)
伝説が、再び動き出した。2022年6月24日発売の「ヤングアニマル」(白泉社)13号にて、あの『ベルセルク』の連載が再開したのだ。
周知のように、『ベルセルク』の作者・三浦建太郎は昨年の5月に亡くなっており、今回の「新作」は、かつて三浦を支えていた作画スタッフたち――「スタジオ我画」の6名(黒崎・平井信周・宮地秋夫・長島有秀・木下滋・杉本英輝)の手によるものである。
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さらに監修者として、三浦の盟友・森恒二が参加。森は生前の三浦から『ベルセルク』の最終回までの展開を聞いていたというが(地球上でいま、その詳細を知っているのは彼だけであろう)、連載再開前に公開されたメッセージの中で、こんなことを書いている。
皆さんにお断りと約束があります。なるべく詳細を思い出し物語を伝えます。
そして三浦が自分に語ったエピソードのみやります。肉付けはしません。はっきり覚えてないエピソードもやりません。三浦が自分に語った台詞、ストーリーのみやります。当然完全な形にはならないでしょう。しかし三浦が描きたかった物語をほぼ伝えられるとは思います。
――「『ベルセルク』再開のお知らせ」(『ベルセルク』公式サイト)より
なんとも力強い言葉だが、つまり森は、「監修」という立場での参加ではあるが、物語作りの面でもかなり実作業に関わっているということだろう(ちなみに連載再開後の同作のクレジットは、「原作=三浦建太郎/漫画=スタジオ我画/監修=森恒二」というもの)。
■新しい『ベルセルク』の評価は?
さて、さっそくその新体制による『ベルセルク』を読んでみた。これはあくまでも個人的な感想にすぎないが、率直に言えば、“絵の面で多少の違和感はあるが、充分納得のいく出来映え”という感じだろうか(“違和感はない”といまの段階で軽々しく言い切ってしまうのは、本気で仕事に取り組んでいるスタジオ我画の作家たちに対して失礼だろう)。
だが、その違和感は今後連載が進むにつれ、徐々に小さくなっていくことだろうし、それ以前に、この高いクオリティの絵で(そう、誤解を招きそうな書き方をしてしまったが、クオリティは高いのだ)、誰もが二度と読むことのできないと思っていた“『ベルセルク』の続き”が読めるという事実に、一漫画ファンとして素直に嬉しく思う。
また、内容面では、ほぼ全編がアクションシーンであるため、前回(第364話)からほとんど何も進んでいない、とも言えるが、問答無用でグリフィスに斬りかかっていく荒々しいガッツの姿には、“三浦らしさ”を感じた。
■三浦建太郎の絵は日本の“漫画絵”の到達点の一つ
先ほど私は、今回の「新作」に対して「絵の面で多少の違和感はある」と書いたが、そもそも「三浦建太郎の絵」とはいったいどういうものなのか、ということを改めて考えてみたい。それには以前、私が別の場で書いた文章を引用するのがいいかもしれない。
(前略)原哲夫の劇画的リアリズムと、大友克洋のバンド・デシネ的リアリズム、それに永井豪のケレン味と少女漫画の繊細さを兼ね備えた、三浦ならではのヴィジュアル表現は、日本の“漫画絵”の到達点の一つだと言っていいだろう。
――島田一志「『ベルセルク』三浦建太郎が漫画の世界で切り開いたもの」(nippon.com)より
いまでもこの考えに変わりはないが、やや補足するなら、こうしたいくつかの要素を合体させようと頭で考えるのは簡単だが、実際に“自分の絵”としてまとめ上げるのは至難の業である、ということだろうか。また、「原哲夫」を「ニール・アダムス」、「大友克洋」を「メビウス」という名に差し替えてもらってもかまわない。
いずれにせよ、こうした偉大な先人たちの魂を受け継ぎながらも、最終的に三浦は三浦にしか描けない凄みのある絵を生み出した。そしてその魂は、きっとスタジオ我画の6人にも受け継がれているはずだ。伝説の再始動を、心から祝福したい。
(島田一志)