2022年06月13日 12:11 弁護士ドットコム
刑事弁護人として名を馳せる高野隆弁護士を師とし、数々の無罪判決を獲得してきた趙誠峰弁護士。
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結果が出ず、無力感に襲われたことは数知れず。毎日が「理不尽」との闘いだ。それでも、何度でも立ち上がり、司法の壁に立ち向かう。世間の冷たい視線を浴びても、なびかない。
その情熱と強靭な精神力は、どこから湧き上がるのか。 (取材・文/吉田緑、写真/永峰拓也)
「刑事弁護はやめよう」
2019年6月。東京高裁で「有罪」の判断が下されたとき、趙氏はこう思った。国選弁護人として、覚醒剤密輸事件の控訴審を担当していたときのことだ。
依頼人は若いマレーシア人女性。接見で話を聞き、証拠を見て「無罪だ」と確信を抱く事件だった。思わぬ結果に、無力感と絶望感に襲われた。そんな趙氏を奮い立たせたのは、落ち込む彼を心配した依頼人女性からの「また次も頑張ろう」という手紙だった。
「事件に関わった以上、彼女を無罪にしてからやめようと思ったんです。まだ上告もしていないのに、ここでやめてしまうのは、あまりに無責任だなと。無罪にできなかったのは自分の力不足なので、とにかくやれることをやろうと思いました」
再び立ち上がった趙氏は、師である高野隆氏とともに上告に挑んだ。しかし、上告趣意書を提出してからわずか1カ月後、上告は呆気なく棄却された。
込み上げてくる怒りと許せなさ。それでも、諦めるわけにはいかない。再審請求に向けて新たな証拠を探すため、通訳人とともにマレーシアに飛んだ。
「関係者に話を聞きに行きました。現地でどんなやりとりがあったのかを明らかにしたかったんです。女性が生まれ育った村にも足を運びました。そこには、法服を着た日本の裁判官が想像する世界とはまったく別の光景が広がっていました。出会った人たちは、とても親切で、しかし貧しく、知識に乏しかったんです。『旅費の負担なしに海外に渡航させられる目的として、真っ先に思いつくのは覚醒剤を含む違法薬物を運ばされること』などと考える裁判官の理屈が、いかに空虚なものなのかと感じずにはいられませんでした」
ところが、趙氏の努力は虚しく、その後、再審請求も棄却された。
結果が出ずに「やめよう」と思ったことは、このときだけではない。刑事弁護人として生きる中で、打ちのめされてきたことは幾度もある。どの無罪主張事件も「無罪」を勝ち取るために本気で闘う。それでも、法廷では「有罪判決」が平然と言い渡される。「刑事弁護ほど、やったことが報われない分野はない」と肩を落とす日々だ。
「敵」は司法だけではない。元オウム真理教の信者で、地下鉄サリン事件などに関与したとされる高橋克也受刑者の弁護を担当したときは、社会全体が「敵」に見えた。
「すでに歴史の一部と化しているオウム真理教の事件というのみで、評価はすでにできあがっていました。この事件以上に、予断や偏見のある事件もないと思います。彼のかわりになれるのは刑事弁護人しかいない。ひとりなんだと実感しました」
世間の冷たい視線を浴びても、報われずに結果が出なくても、趙氏は今日まで刑事弁護人をやめることなく、闘い続けてきた。彼はなぜ、「理不尽」がはびこる刑事弁護の世界に飛び込んだのか。
在日コリアンである趙氏は、中学生のころ、就職差別を心配する母親に「資格を取らなければ、生きていけない」と言われた。そこで思いついた資格が、弁護士か医師だった。前者を選んだ理由は「なんとなく」。その後、早稲田大学法学部に進学するも、まだ弁護士の仕事内容も知らなかった。
「学部時代はアメフトに明け暮れる日々でした。外国人に関する社会問題に興味があったので、新聞記者になろうかなと考えたことはあります。ただ、ちょうど大学4年生のときにロースクールができるという話になったので、進学することにしました」
こうして、趙氏は1期生として、早稲田大学大学院法務研究科に進学した。志望理由書には、自分のルーツを活かせる外国人問題について盛り込んだ。「刑事弁護」については、一文字たりとも書いていない。
「学部では民事訴訟法のゼミにいましたし、それまで刑事事件に関与したこともなく、イメージが湧かなかったんです」
そんな趙氏が刑事弁護に興味を抱くようになったきっかけは、「刑事クリニック」という科目を2年次に履修したことだ。「おもしろかった」と口々に語る学友たちに影響され、「記念」に受講した。
刑事クリニックは、実務家教員の弁護士とともに実際に接見室に行き、被疑者・被告人から直接話を聞き、アドバイスをしたり、訴訟活動をしたりする授業。担当教員は、刑事弁護人として名を馳せる高野隆氏だったが、学生だった趙氏は「酒好きのおっさん」としか思っていなかった。
最初に担当したのは、泥酔し、ふらりと他人の家の庭に入ったまま寝てしまった男性の住居侵入事件。男性は勾留されていたため、趙氏をはじめとする4人の学生たちは、警察署の接見室にも足を運んだ。夜な夜な書き上げた準抗告申立書を提出すると、男性の釈放が認められた。
「アクリル板の向こう側にいた男性と、なんの壁もない状態で再会を果たしたときは、感動しました」
準抗告が認められたことで、趙氏らのグループは「エリートチーム」と呼ばれるようになった。しかし、次に担当した事件で、早くも壁に直面してしまう。
「中国人男性の傷害事件で、デパートの店員を蹴ったか否かで争っていました。男性は『自分は絶対、手を出していない』と否認していたんです。不思議なことに、何度請求しても、保釈が通らないんですよ。裁判官が保釈を却下した理由は、男性が現場のデパートに行き、店員に接触するおそれがあるためでした。『デパートには近づかない。最寄り駅の路線は使わない』など、さまざまな条件を設定しましたが、何度やってもダメでした」
困り果てたエリートチームが考え出したのは、当時、市場に出始めたばかりのGPS携帯を使った監視システム「保釈請け負いくん」。男性の位置情報や携帯電話を所持しているか否かを学生たちが不定期で確認するというものだ。ところが、裁判所は微塵も相手にせず、保釈は認められなかった。
「日本の刑事システムの理不尽さ、被疑者・被告人を取り巻く厳しい現状を目の当たりにしました。1つ目の事件で得た達成感よりも、2つ目の事件に何か燃えるものがあったんですよ。これがきっかけで、刑事弁護をやりたいと思うようになりました。刑事クリニックを受けていなければ、僕は100%違う人生を歩んでいたと思います」
結局、2つ目の事件の男性は半年後に釈放され、有罪判決を受けた。控訴審のときは受験勉強に追われていた趙氏だったが、受験を終えると再び後輩たちに加勢。上告趣意書を書くなど、できる限りのことをした。趙氏が2007年に司法試験に合格して弁護士になると、男性はとても喜んだという。
趙氏が司法修習を終えたころ、刑事クリニックの担当教員だった高野氏も新しく事務所を立ち上げようとしていた。「刑事弁護をとことんやる!」と意気込みながら訪れた趙氏を高野氏は受け入れ、2人で机を並べる事務所生活が幕をあけた。
「1年目は、ほぼすべての事件を一緒に担当しました。2人で毎日一緒に食事、仕事していると、体型や立ち居振る舞いなどがどんどん似てくるんですよ。徐々にまわりに『似てきた』と言われるようになり、ついには傍聴人に『あの人たちは親子ですか』と聞かれるまでになりました」
趙氏からみた高野氏は「ユーモアあふれる優しいおじさん」。怒られたことは一度もない。つくった書面には、常に手書きで赤入れをしてくれた。趙氏が尋問中にうまく立ち回れずにいたときは、傍聴席から「これを聞け」と書いたメモを飛ばし、助け舟を出してくれた。傍聴席から趙氏を見守ってくれたのは、1度や2度ではない。
「初めて国選事件を担当したときも、傍聴に来て、コメントしてくれたのを覚えています。何度も空き巣の再犯を繰り返してきた高齢男性が、スーパーで酒と食料を万引きした事件でした。新人弁護士が担当する窃盗事件の傍聴席に、白髪に髭面の刑事弁護人がいるので、裁判官は嫌だったでしょうし、プレッシャーだったと思います(笑)」
この事件は今でも忘れられない。接見に足繁く通い、とにかく一生懸命、男性の話を聞いた。公判での最終意見陳述で男性はこう言った。
「これまで、何回も事件を起こして裁判を受けてきたが、こんなに一生懸命やってくれる弁護士に出会えたのは初めてだ。自分は、変われると思う」
趙氏は驚いた。特別なことは何ひとつしていないと思ったからだ。「これまで担当した弁護士たちが、彼の話を聞いていなかったのではないか」との思いに駆られた。弁護人が一方的に聞きたいことを聞くのではなく、被疑者・被告人の話に耳を傾けることに徹するスタイルは、刑事弁護の第一人者たちが「理想の接見」とするものだという。
「高野先生も絶対に誘導しない。話を聞くのがうまいんです。時間がかかっても、相手が話したいことを一生懸命聞くというマインドを身につけることが大事だと考えています。どんなに説得力のある書面を書くことができたとしても、やはり人とコミュニケーションを取ることができないと、尋問や弁論もうまくいかないと思います」
初めて国選弁護を担当した男性には実刑判決が言い渡された。しかし、男性は趙氏のことを忘れていなかった。刑務所での刑期を終えたその日、事務所に「刑務所を出られました。今から仕事を探しに行きます」と電話がかかってきたという。
こうして、高野氏とともに行動し続けた趙氏は、法廷での尋問だけではなく、接見の方法、依頼者との接し方などを学び、刑事弁護人としての土台を固めていった。そして、2013年春に事務所を離れ、外の世界に繰り出した。
刑事弁護人として活動していく中で、何件も無罪を勝ち取ったこともある。しかし、結果が出ずに落胆する方が圧倒的に多い。それでも、趙氏は刑事弁護を「楽しい」と語る。
「何より充実していると感じるのは、法廷で闘っているときです。法廷が好きなんですよ。もちろん、最初はこわかったです。裁判は1回きりですし、やり直しもききません。しかも、ギャラリーもいる公開の場です。でも、経験を積むうちに、自分の技術を磨いて、刃を研いで、勝負することにやりがいを感じるようになりました。これから先も、最後まで法廷という現場に立ち続けるつもりです」
「努力が苦手」と話す趙氏だが、法廷弁護技術の習得については、誰よりも努力したと自負している。新人のころは、弁護士会などが開催する研修を何度も受け、尋問や弁論技術を磨き続けてきた。その後は研修の講師を継続的につとめ、2012年に高野氏が設立した「東京法廷技術アカデミー(TATA)」では、インストラクターを任せられている。
「インストラクターの役目は、受講生の実践を見て、彼らが上手くできなかったこと、やりたかったことを感じ取り、その場で『こうすればできる』という手本を見せてあげることです。その場で実践しなければならないので、こちらも非常に鍛えられるんですよ」
人一倍の努力を重ね、磨いた技術を武器に、法廷に立つ趙氏。刑事弁護を担当した20代の青年から「法廷で闘ってくれる姿をみて、今まで自分は『カッコよさ』を勘違いしていることに気づいた」と綴られた手紙が届いたこともある。青年は強盗致傷事件を起こし、実刑判決が言い渡されていた。
「やんちゃな青年で、そんなことを言うタイプではなかったんですよ。彼に対して『更生させよう』という思いはまったくありませんでしたし、ただ彼を守るためだけに最大限できることをしただけなんです。でも、結果的に、そういうふうに思ってもらえてよかったなと思っています」
法廷以外に好きな場所は、接見室。殺人犯であれ、ヤクザであれ、接見で依頼者と話すことも「学び」を得られる貴重な瞬間のひとつだ。
「依頼者と話していると、自分に見えているのは、社会のごく一部なんだと気付かされます。自分が知らない世界をたくさん教えてもらえるんです。『こんな人生があるんだ』と知ることができたり、人間の深さ、社会の広さを感じられたりするんですよ」
依頼者に説教したり、怒ったりしたことはない。もともと、弁護人が被告人に説教することで謝罪や反省を促し、許しを請わせる刑事裁判には疑問があったという。趙氏が考える裁判は「事実が何かを見極める場」であり、説教する場ではない。何より、弁護士という立場を利用して、上からものを言うことには抵抗がある。
「僕たちが依頼者に対して唯一上から言えることは、裁判や法律の知識だけなんですよね。依頼者は、のうのうと生きてきて弁護士になっている僕たちよりも、はるかに大変な人生を歩んできています。そんな彼らに道徳を語ることは、死んでもやりたくないんですよ」
刑事弁護が「好き」な趙氏は、稀有な存在なのかもしれない。結果が出ない刑事弁護に匙を投げてしまう弁護士もいれば、意欲のない国選弁護人が法廷に立つこともある。趙氏もそのような弁護士を目にしてきた。
「かつては『弁護士であれば、刑事弁護は誰でもできる』という風潮が少なからずありました。実際に、やりたくないのに『やらされている』状況の弁護士もいると思います。ただ、刑事弁護は専門的な分野で、技術や新しい知識も必要とされるので、誰でもできるものではありません。現状の仕組みに問題があるように感じます」
本来であれば、刑事弁護は、やる気があり、技術を磨き続けている弁護士が担うべきだと趙氏は考えている。義務として「やらされている」人に弁護される被疑者・被告人がすべての不利益を被ることになるためだ。
「刑事弁護は、確かな技術や知識と、やる気がある弁護士が引き受ける。被疑者・被告人は誰に弁護してもらうかを選ぶことができる。そんな仕組みにしていく必要があると思います。すぐに現状を変えることは難しいかもしれませんが、まずは、刑事弁護を担える層の充実を目指すべきだと考えています」
2021年、趙氏は東京・代々木に、新しく「Kollectアーツ法律事務所」を立ち上げた。高野氏と机を並べる日々の中で自らも土台を固めていったように、若手が中堅とともに刑事事件に取り組む「場」を提供することで、刑事弁護人の層を厚くすることを目指す。
「先輩弁護士と一緒に事件に取り組む経験は、とても大事なことだと思うんです。もちろん、尋問の技術や弁論のやり方など、研修で学べることもたくさんありますが、実際に一緒に事件に取り組むことで、その何倍も得られるものがあります」
事務所には、4月から入所した新人も含めて8人が在籍し、ひとつの大きな机を囲む形で座っている。この空間に「壁」はない。「フラット」な関係性をつくり、なんでも相談したり、議論し合ったりできるようにするためだ。「束」になって取り組むことで、理不尽や困難に打ち勝つことを目指す。
「どんなに弁護士個人が技術を磨いても、それだけでは太刀打ちできません。状況を打開するためには、個人ではなく、束になって動く必要性を感じました。そのためには、自分自身の技術の向上だけではなく、下の世代の人たちに対して何か力になれることをしたいと思ったんです。もっと刑事弁護の分野でステップアップしたいと考えている若手弁護士が、一定期間、この事務所で経験を積んで、ひとり立ちしてほしいと願っています。ここを刑事弁護の“修行寺”にしたいんです」
自立を願うのは、事務所ではなく「自分の名前」で仕事を取れるようになってほしいためでもある。趙氏も師と「対等な関係になりたい」と願い、高野隆法律事務所を離れた。
「今もまだ肩を並べることは難しいと感じています。でも、同じ事務所にいるかぎり、ずっと上下関係は変わりません。外に出て経験を積み、成長して近づきたいと思ったんですよ」
趙氏はいま、早稲田大学大学院法務研究科で、人生の転機となった刑事クリニックの担当教員としても活躍している。刑事弁護人を目指す学生もいるという。
「刑事弁護という分野は、大変ではありますが、しっかり努力を積み重ねていれば、その先にはとてつもないやりがいがある分野だと思います。何より、無罪判決を獲得した瞬間に勝るものはありません。弁護士業務の中でもなかなか味わうことのできないものだと思います。それだけのやりがいがあるからこそ、刑事弁護人はみんな頑張っているんですよね。まだ若い学生たちには『若干の覚悟』をもって、挑んでもらいたいなと思っています」
刑事弁護に取り組むうえで、技術を磨いたり、相手の話を聞いたりすること以外に重視していることがある。それは「常にどんな状況であれ、置かれている状況を楽しむこと」だ。
もともと楽天的なタイプの趙氏でも、こころが折れそうになった経験は幾度もある。それでも立ち上がり続けることができたのは、理不尽な判決への怒りや絶望を次に進むためのプラスのエネルギーに変えることができたためだ。
「理不尽な判決を受けてうなだれて事務所に戻ると、そんな僕を待ち構えて酒場に連れていってくれる仲間がいます。そして仲間の力を借りて、とにかく次に向けて『よっしゃ!またやったるわ!』と自分を奮い立たせる。こうやっていかないと、その次に向けてまた立ち上がることは相当しんどいです。結果はなかなか出ませんし、僕も打たれることは好きじゃないです。でも、やっぱり、やめられないんですよね。変態かもしれませんけど」
何気なく足を踏み入れた法律の世界で出会った「刑事弁護人」という「天職」。明日もまた理不尽な判決が出るかもしれない。それでも、趙氏は被疑者・被告人を守るため、そして明日を担う若手を法廷に送り出すため、刑事弁護の世界で生き続ける。
趙誠峰氏 2008年弁護士登録。第二東京弁護士会。Kollectアーツ法律事務所。裁判員裁判や否認事件を中心に、刑事弁護を専門的に扱う。「東京法廷技術アカデミー」でインストラクターを務めるほか、早稲田大学大学院法務研究科で実務家教員として教鞭をとる。
(季刊誌『弁護士ドットコムタイムズ』Vol.63<2022年6月発行>より転載)