いま注目のエリア「晴海」。豊洲や勝どきに囲まれる沿岸部の埋立地で、東京オリンピック選手村に建つ4000戸以上のマンション「晴海フラッグ」の始動により、住宅エリアとしての注目度が急増している。
しかし、ご存知だろうか。その宣伝文句に「東京の新・どまんなか!」とまで書いてある晴海には「駅」がないことを。最寄りは徒歩20分の都営大江戸線勝どき駅。いったいなぜ、こんなことになっているのか?(文:昼間たかし)
幻に終わった「東京市役所」計画
明治の終わり?昭和初期にかけて埋め立てられた晴海。実のところ、そこに「鉄道駅」を作ろうというアイデアは、一度ではなく何度も立ち上がっていた。
最初の計画は1933年のこと。きっかけは、東京市(当時はまだ市だった)の市庁舎移転だった。
1940年に予定されていた国際博覧会とオリンピック(※戦争で中止になった)を控えて、晴海エリアに市役所ごと持ってこようとしたわけだ。1934年には「東京市庁舎建築懸賞競技」すなわちコンペも実施。順調にいけば数年のうちに現在の晴海トリトンスクウェアのある土地に都庁が完成。その前の道路(晴海通り)の地下には銀座から伸びる地下鉄が建設されるはずだった。
しかし、一度は決定したこの計画は頓挫してしまう。理由は当時の晴海が「不便すぎたから」である。現代ほど道路も鉄道も整備されていない中で、晴海は当時の東京35区の中で端っこすぎた。とりわけ板橋区あたりからだと車で2時間あまりかかったそうだ。そんなわけで反対の声が強まり移転計画は立ち消えに。
それと同時に、最初の「地下鉄計画」も消え失せた。
中央区副区長「(ゆりかもめ延伸の可能性は)基本的にゼロ」
戦後になると、新たな鉄道計画が立ち上がった。
戦後、越中島方面とつなぐ「貨物線」が晴海にも敷設された。晴海埠頭に国際ターミナルをつくるプランもあったことから、これを旅客化して、晴海から築地を経て新橋まで延伸する……というような計画が出てきたのだ。
当時は築地市場にも貨物線が敷設されていたので、隅田川と朝潮運河を越えてあと一歩……だったもよう。当時の新聞報道(〓)では、もう実現間近みたいなノリも読み取れるのだが、なぜだか計画は立ち消えになったようで、続報がプツンと絶えてしまっていた。
その後も、幾度か銀座方面からの地下鉄構想は立ち上がるものの計画は実現しなかった。
さて、2006年に登場した「ゆりかもめ」であるが、豊洲駅を見れば一目瞭然、もともと晴海・勝どき方面へ延伸できる構造になっている。しかし2006年の開業以降、いっこうに延伸される気配はない。東京五輪が決定した際にも、まったく動きはなかった。
工事が始まらない理由の一つは、中央区などが推進している「都心・臨海地下鉄新線」の存在にある。
新線計画は、銀座から晴海通りの地下を通り有明に向かうもの。ゆりかもめが通ってしまうと「新線」のメリットが一つ減ってしまうからだろうか。反対派の語気は驚くほど強い。
「新線推し」の急先鋒、中央区の吉田不曇(うずみ)副区長は、2014年2月の中央区議会東京オリンピック・パラリンピック対策特別委員会で、こんな発言までしていた。
「(ゆりかもめ延伸の可能性は)基本的にゼロ」
「地元にとって何の意味もない交通手段」
「私どもは絶対つくらせない」
「豊洲でずっと永遠にとまっていていただきたい」
「(計画には)意味がない」
とにかく言葉が強い。その後オリンピックも終わったが、中央区の「ガチ新線推し」姿勢は、いまも変わっていないようだ。
「BRT」への期待もあるが……
さて、こんな事情もあったからか、「晴海フラッグ」の主要交通手段は「バス」である。都営バスに加え、「東京BRT」という新バス路線が運行される予定だ。
耳慣れないBRTという単語だが、これは「バス高速輸送システム」の略語。一般的には、スムーズにバスを運行させるため、バス専用レーンをつくることが前提となっている……はずなのだが、東京BRTには専用レーンがない。
渋滞の多い東京で、バス運行の安定性が鉄道には及ばないのは、もはや常識。専用レーンなしで、安定運行がどこまで実現できるかどうかは未知数だろう。
せっかく23区内にマンションを買っても都心に出るのが不便だと、本末転倒だ。晴海のこれからの発展は交通の充実と切っても切れないはずなのだが……。