トップへ

ソフトバンク「1000億円」訴訟の現在地 楽天モバイル提訴から1年、最終目的地はどこに

2022年05月11日 10:41  弁護士ドットコム

弁護士ドットコム

記事画像

「戦争を始めるのはいつでもできるが、やめたい時には終わらない」──。


【関連記事:夫のコレクションを勝手に処分、断捨離の「鬼」となった妻たちの責任】



これは1531年に出版されたマキャヴェッリの「政略論」の一節だが、およそ500年の時を超えて、ウクライナの抵抗に手を焼くプーチン大統領の胸の内を見事に看破している。一方、我が国はこの70有余年、戦禍を免れてきたものの、ビジネスの名を冠した企業間戦争は日々、巻き起こっているが、マキャヴェッリの指摘した通り、始めるのは簡単でも終わらせ方が難しいのだ。



例えば、昨年(2021年)のゴールデンウィーク明け、全国紙は揃ってソフトバンクが、楽天モバイルとその元社員のネットワーク設計者(45=当時)に対し、10億円の損害賠償を求めて提訴したことを報じている。



ニュースバリューが高かったのは、請求額が巨額だったことに加え、ソフトバンクが楽天に対して「1000億円規模の損害賠償請求権」(2021年5月6日付のソフトバンクのプレスリリース)を主張し、裁判の進行次第ではさらに請求額を積み増す含みを持たせた珍しいケースだったからだ。



華々しく始まった割に続報が殆どないこの珍しい民事訴訟は現在、必ずしもソフトバンクの思惑通りには進んでいないという。一体、何が起きているのか。(ジャーナリスト・森下太郎)



●巨大なIT企業同士の熾烈な情報戦、産業スパイという印象を与えたが

まず、ソフトバンクが楽天と決定的な対立に至った経緯を簡単におさらいしておこう。



そもそもの発端は、ソフトバンクから楽天モバイルに転職したネットワークの設計担当者の男性が、不正競争防止法違反(営業秘密領得)で、昨年(2021年)1月に警視庁に逮捕されていることだ。この元社員は15年間勤めたソフトバンクを2019年12月末に退職して、翌月、つまり2020年1月から、楽天モバイルに転職していたが、辞める直前、営業秘密をソフトバンクのサーバーから私用のGメールアドレスにメール添付で送信して持ち出した容疑だった。



逮捕の時には、やはり全国紙が1面や社会面トップで「5G技術情報の持ち出し」というトーンで、連日報道したため、巨大なIT企業同志の熾烈な情報戦とか、産業スパイの印象をご記憶の方もいるかもしれない。ソフトバンク側は、この元社員によって持ち出された機密情報が、ライバル企業、楽天モバイルのネットワーク構築を飛躍的に進歩させた可能性があるとして、損害賠償を求めて提訴したのである。



全国紙の裁判担当記者が解説する。



「1000億円の損害賠償請求権がある、というソフトバンクの主張は、元社員が持ち出した情報に1000億円の経済的な価値があったという意味ではありません。そうではなくて、この元社員が持ち出した営業秘密によって、後発の楽天モバイルが1000億円に換算できるメリットを享受したはずだという言い分です。



わかりやすく言えば、楽天モバイルは、この1~2年、予定をかなり前倒しする早いペースで通信ネットワークを構築してきました。それは三木谷会長自ら、計画が5年前倒しで進んでいると発表していることからも明らかです。その点を捉えてソフトバンク側は、彼が持ち出したソフトバンクの営業秘密があったからこそ、楽天モバイルの基地局設置のペースが加速し、計画の前倒しによって楽天は1000億円相当の利益を得たはずで、その分、ソフトバンクが損をしたのだという理屈なのです」



営業秘密がAからBに渡った場合、Bが得した分はAが損したことになるという考え方で、確かに、不正競争防止法には「侵害行為による利益の額は、利益を侵害された側の損害額と推定する」という趣旨の条文(不正競争防止法5条2項)が含まれている。



●楽天の計画を大幅に進展させた営業秘密、機密情報とは何なのか

だが、昨年5月の提訴以降、この訴訟の進行は遅く、少なくともソフトバンクの思惑通りとはいかなかった。



裁判担当記者が続ける。



「結局、楽天の計画を大幅に進展させた営業秘密、機密情報とは何なのか、という点がクリアでないのです。問題の元社員が退職直前に持ち出したデータを数で表すとすれば、それは彼がソフトバンク時代に仕事で使っていた何千ものファイルです。当然、その中には、ソフトバンクのネットワークに関する情報も含まれていますが、周波数帯も異なる楽天モバイルに直接的なメリットのある情報は何かというと、ソフトバンク側もそこは明確に指摘できていない。



一体、どのファイルが楽天モバイルの計画前倒しに寄与したのかという点がハッキリしないので、楽天側はそう反論し、ソフトバンクは、元社員の持ち出したファイル全てが総合的に楽天を利することになったのだ、と主張して平行線なのです」



法廷は、機密情報とは何かという神学論争の場となったが、この膠着状態に一石を投じる証拠が別の法廷で明らかにされたという。



●起訴の対象となったのは3つのファイルだけ

実は、警視庁生活経済課に逮捕された元社員の刑事裁判は昨年12月に初公判を迎え、3月22日には2回目の公判も行われた。検察側の冒頭陳述などによれば、彼が退職前に不正にダウンロードしたファイルの中で、不正競争防止法における営業秘密に当たるとして起訴の対象となったのは3つのファイルだけだったのだ。



そのうちの2つは「kmz」という拡張子のついたデータで、グーグルアースに取り込むと、日本全国のマップ上にソフトバンクが利用しているインフラ施設、例えばNTT局舎の正確な位置や光ファイバーケーブルの利用状況が、点と線で表示され、一目で把握できるファイルだ。



ソフトバンクのネットワーク全体を把握可能な包括的なデータであるため、検察から起訴の対象となったわけだが、点と線で表示される施設はNTTの施設であるため、楽天モバイルを含めソフトバンク以外の通信事業者にも公開されていた。むろん、一部にはNTT以外の通信業者、例えば、電力会社系通信業者に関する情報なども含まれているものの、それだけで、楽天モバイルのネットワークが著しい進捗を遂げるかは疑問が残る。



加えてこの2つのファイルを、元社員が受け取ったのは2018年1月だったという。彼が持ち出したとされるのは2019年11月から12月にかけての時期だから、およそ2年前のデータということになる。おそらく日進月歩のネットワーク構築の業界において、果たして2年も前のデータが、他社の飛躍的な躍進に資する材料となりえるのかと問われ、首を縦に振る専門家は多くないはずだ。



●明らかになった決定的矛盾

刑事裁判で起訴対象となった3つ目のファイルは、ソフトバンクの持つ日本全国の基地局(アンテナ設備)に関する詳細なエクセルデータを「csv」の拡張子に変換したファイルである。アンテナ一本一本の位置や周波数帯を一覧できる膨大なデータで、作成日は元社員の退職の1カ月前と新しい。



「営業秘密を領得した」という検察側の主張の決め手に違いないが、10億円民事訴訟でのソフトバンク側の主張との関係でいえば、一つ決定的な矛盾が残っているという。全国紙の検察担当記者が言う。



「この刑事裁判で明らかになった最も重要な点は、楽天モバイルの社内に教唆や幇助の共犯者がいないことです。実は、元社員が楽天モバイルの現場で仕事をしていたのは、2020年1月から、ソフトバンクの通報により警視庁が家宅捜索を行った8月までの8カ月間だけでした。この間に、彼がデータを持ち出したことを楽天モバイルの関係者に伝えたという証拠は一つも見つかっていないのです。それゆえ、元社員が単独で営業秘密の領得を行ったというのが検察の見方なのです」



「それならば一体、何のために……」という疑問が生じるのは当然だが、逮捕前、彼は周囲に「ソフトバンクでの最終勤務日に業務用PCを返却したが、その後、好奇心でサーバーにアクセスしてみたらログインできてしまった」と、出来心だったことを漏らしていたという。



いずれにせよ、検察、警察の捜査では、データの持ち出しはあったものの、それを転職先の楽天モバイルに開示した事実は見つからず、この刑事裁判の進行次第では、民事訴訟におけるソフトバンクの主張の根幹に大きな疑問符がつく可能性があるわけだ。



空前絶後の「1000億円の損害賠償請求権」という風呂敷を広げて、新興の楽天に戦争を仕掛けたソフトバンクの最終目的地は、ここにきて「完全勝利」から大幅な軌道修正を余儀なくされるかもしれないのである。



【著者プロフィール】森下太郎(ジャーナリスト):政治、経済分野を中心に1990年代から取材活動をおこなう。