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せっかくタダでアメリカ旅行に行けたのに…過去の「渡航歴」のために計画破綻した夫婦の悲哀

2022年05月06日 16:01  弁護士ドットコム

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妻が勤務先で表彰され、副賞のアメリカ旅行に夫婦ともにタダで行かせてもらえることになった男性。ゴールデンウィーク明けの旅行を楽しみにしていたが、直前になって米国の電子渡航認証システムESTAを使って、ビザ免除プログラムを申し込んだところ、リジェクト(拒否)されてしまった――。


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ITエンジニアの「エッセイを書くパンダ」さんが、自身のnoteにそんな悲哀をつづっています。エッセイを書くパンダさんによると、過去の渡航歴が関係しているようです(https://note.com/panda_program_/n/n54e7f6105061)。



ビザ取得には時間がかかるため、結局、せっかくの旅行計画が中止になってしまいました。ことの顛末をつづったnoteをエッセイを書くパンダさんに転載させてもらいました。



●会社の賞のアメリカ旅行

事の始まりは、会社で妻の所属するチームが社内賞を受賞したことだった。その賞には毎年全社から50人ほどが選ばれ、選出された人全員に副賞が与えられる。特に優秀な成績を収めた人はポルシェやロレックスの時計が貰えるらしい。が、それはウチとは無縁な話だ。



50人全員が貰える副賞はクリスタルの盾とアメリカ行きの旅行だ。その旅行の行き先は毎年変わる。去年はハワイだった。飛行機のチケット代もホテル代も、ホテルでの飲食費も全部会社が負担してくれる。しかも滞在期間は1週間。これを妻から聞いた時に流石は外資系の会社だと舌を巻いた。



そして、幸運にも今年の社内賞に妻の所属するチームが選ばれた。2022年の3月頃のことだ。その知らせを聞いて夫婦でひとしきり喜んだ後、二人の話題は今年の旅行先に移った。



しばらくして会社からアナウンスがあり、今年の旅行先はフロリダ州のオーランドに決まったとのことだった。宿泊予定先はフォーシーズンズ・リゾートという、本場のディズニーランドの隣に立っている5つ星ホテルだ。しかも滞在予定期間はゴールデンウィークの翌週で、妻はもちろん仕事を休めるし、自分も有給を取ればさらに1週間仕事を休むことができた。はずだった。



しかし、思いがけないあることが原因で私のVISAが免除されず、その無料のアメリカ旅行に行けなくなってしまった。事の顛末をエッセイとして書くことで行き場のない思いを供養したい。



●コロナ関連の書類手配

今年の行き先が決定した後、情報収集と必要な手続きを進めていった。



まず調べたのはコロナ関連のことだ。現在のアメリカは2回のワクチン接種証明書があれば、入国してからの自己隔離は不要になる。夫婦ともにブースターショットまで打っているのでワクチンに関しては問題なしだ。そこで、海外で使えるワクチンの接種証明書を郵送で市から取り寄せた。これでコロナ関連のことは大丈夫だ。



事前の休暇申請

次に私の休暇申請だ。ゴールデンウィーク明けの平日5日間を丸々有給消化するというのは正気の沙汰ではない。と思ったのか、1on1でそれを告げた時にマネージャーは唖然とした表情を浮かべた。私があえて理由を告げずに「1週間休みます」と話したのが主な理由だろう。驚くであろうことは事前に想像できていた。



どちらかというと「会社が、仕事が嫌になったのか」「転職活動を裏でするためなのか」と思われたのかもしれない。そこですぐさま、ちゃんと理由があって仕事が嫌になったわけでは全くないと伝えたら、いきなりでびっくりしたとマネージャー。そこで二人で笑い合った。緊張と緩和だ。ありがたいことにマネージャーは妻のことを労ってくれた。



休暇の話は前もってしておくとスムーズだというのが社会人7年目の私の経験則だ。3月のうちに5月の休暇の話をマネージャーとも自分が所属するチームともして、特にチームに対してネガティブサプライズにもならないように配慮した。そして、自分が休んでも支障がないように4月中の仕事を進めていた。



●飛行機のチケットの手配

最後に、フロリダまでの飛行機チケットの手配。アメリカ国内でのトランジットを含めて、10時間以上の長旅になる。座席の値段を見ると一人往復30万円超だった。高いけど会社が払ってくれるのは本当にありがたいねと二人で感謝して予約ボタンを押した。



妻は3月末にチケット代をドル建てで決済しており、4月に経費申請して会社から円建てでチケット代が振り込まれた。この期間に急激に円安になったため、日本円で5万円ほど儲かっていた。妻の支払いは3月のドル円レート、会社の経費精算は4月のレートで計算されていたからだ。



この時は「いやらしい話だけど、タダで旅行に行けるのにさらに儲かっちゃったね」と言っていた。結局全額返すことになることはつゆほども知らずに。



●コロナ対策を頑張った4月

さて、この段階ではまだアメリカに行けると考えていたものの、コロナ関連のことだけは未知数だった。ワクチンを接種していても出国できない可能性があるからだ。フライトの前日に必ずPCR検査を受けなければならず、万が一陽性だった場合に日本から出ることができないことになっているのだ。



このため、4月はコロナ対策をいつもより入念に行った。具体的にしたことは、4月中旬から極力人に会わないことだ。久しぶりに会おうというお誘いがあっても泣く泣く断った。もちろんゴールデンウィークの予定は何も入れない。友人とも会わないし帰省もしない。



ただし、4月下旬に遠方に住む妻の家族が家の近くに来た時だけは会いにいって一緒に食事をした。アメリカに行くために家族に会わないよりは、家族に会ってもアメリカに行けない方がマシだよねと夫婦で意見が一致したからだ。妻の家族が予約してくれたレストランの席が外の席でオープンエアだったのでホッとした。この時は食事を済ませると早々に解散した。



4月もゴールデンウィークも我慢できたのは、アメリカではもうマスクを外して活動しているという話があったからだ。フランスの高名な詩人も「苦しみの後には楽しみがくる」(「ミラボー橋」ギヨーム・アポリネール)と歌っているではないか。



●ESTAの申請で事件は起こった

我慢の4月が終わり、5月のゴールデンウィークに入った。近所のショッピングモールでスーツケースを新しく買った。現地の夕食会ではドレスコードがあるから服も準備しないと。成田空港発の飛行機は朝10時出発だから空港近くにホテルも取らないと。その前にESTAの申請をするかと夫婦でダイニングテーブルに座ってパソコンを並べた。



ESTAはオンラインで申請できる。ウェブページは日本語版の申請画面もあり、特に困ることなく申請を進められた。最後の方で「重い病気はあるか」「テロリストとして活動したことがあるか」のような物騒なチェックリストがあった。もちろん全て「いいえ」を選んだ。海外への渡航歴を除いては。



チェックリストの最後に「2011年3月以降にイラン・イラク・シリア・北朝鮮...等の国への渡航歴はあるか。あるならその目的は何か」という項目があった。そういえば、と古いパスポートを引っ張り出してきた。大学1年生の時にシリアを含む中東の国に旅行に行ったことがあったからだ。



●シリアの思い出

高校生の時に世界史にハマり、特に世界の歴史「イスラム世界」という文庫本を読んだ。それから中東の歴史・文化の豊かさを知り、いつか旅行したいと思っていたのだった。大学に入学して同じく中東に興味がある友人と、春休みを使ってトルコ、シリア、レバノンに行く計画を立てた。



中東は特に未知の世界だ。恐る恐る行ってみると、意外にも(当時の)シリアは傍目から見ればいい国だった。外国からの観光客と見るや、大人も子供もはにかみながら英語で「Welcome to Syria」と話しかけてくれるのだ。こんな国は他にはない。首都ダマスカスで最古のモスクであるウマイヤモスクを見学したり、スーク(バザール)の入り口に立つスレイマン大帝の銅像を見て、歴史と人の営みに思いを馳せた。





惜しいことにデジカメのデータが消えてしまってその時の写真は手元に1枚もない。残っているのは頭の中の記憶ばかりである。それでも、確かにシリアへの渡航歴はある。



●渡航期間

次に渡航の期間だ。ESTAのチェックリストには「2011年3月以降に~」と書かれている。自分は惜しくもこれに該当している。忘れもしない、2011年3月は東日本大震災の月だ。自分はこの時シリアにいた。



当時ガラケーを持って旅行していた。国際電話で安宿から実家に電話してみたのだった。電話回線はとても貧弱で音声は途切れ途切れ。どうなっているか状況ははっきりしない。安宿なのでパソコンも置いていない。海外にいるから正確な情報が入ってこない。



結局実家は無事だったのだが、あの電話は地球の歩き方に載っていたシリアの宿からかけた。これは間違いない。大学の春休みを使っての旅行だったし、シリアに滞在していたのは2011年の3月だ。これでESTAで尋ねられている期間に該当することが確定した。



ただし、滞在日数は4日あるかないかだ。自分が出国してから2週間後にシリアで内戦が始まったというニュースを日本で聞いて心を痛めたこともよく覚えている。



一抹の不安もあったが、やましいことは何もない。渡航歴の有無を尋ねる項目の「はい」にチェックをして、目的として観光を選択した。



●ESTA申請がリジェクトされた

そして残りの項目を記入し、申請手数料を払った。ESTAの申請結果は72時間以内にわかるらしい。申請結果は明日確認しよう。でもその前に、確認方法だけは知っておかないとな、と思って申請IDをESTAの確認画面に入力した。



まさかすぐに結果が出ているわけがないだろうと思って「Pending」(保留)でも表示されるかなと思っていた。しかし、次の瞬間、目に映ったのは「Reject」(拒否)の文字だった。



一瞬混乱した。やはり渡航歴がダメだったのか。しかし画面をよく見ると、「VISA(ビザ)を申請してください」という案内が表示されている。ビザならアメリカの大使館で取得しなければならない。Googleでビザ取得までの期間を調べたら、10日程度で発行されると書いている。



この日は5月3日で飛行機は次の日曜日の5月8日。電話番号を調べてすぐに大使館に電話した。誰かが電話に出た。それはゴールデンウィークで休みですという案内音声だった。



誰かが事前に録音した、アメリカドラマの日本語吹き替えのような日本語なのにやたら抑揚のある音声。普段は人の心を開かせるようなこの明るさが、が、この時は逆に人を冷たく突き放すように思えた。「No。あなたに取る手段はありません」と笑顔で言われているようなものだ。



もう無理だ、アメリカに行けない、代替手段もない、詰んだ...と悟った瞬間、急に体が重くなった。そのまま椅子からずるりと滑り、床に大の字になって仰向けで天井を見つめた。



●与えられるはずだったのに失ってしまったもの

しばらくの間、頭の中を後悔が駆け巡る。



「シリアの渡航歴に『いいえ』をつけていれば。あれからパスポートを更新したので番号も変わっているからわからないかもしれない」「いや、ただ観光で旅行しただけなので自分に後ろ暗いところは何もない。それにあの時は全く危険ではなかった。それよりアメリカについた後の入国審査でバレてそのままトンボ帰りになる方が最悪だ」



「アメリカに行けないリスクはコロナだけだと思っていた」「妻は前から『自分一人では楽しくないから、あなたが行けなければ私も行かない』と言っていた。妻が仕事を頑張って貰った賞なのに妻も行けなくなってしまって申し訳ない」「色々前もって行動して万難を排したつもりだったのに」「もっと早くに行動していれば間に合ったのに...」



妻は「仕事を頑張って社内賞をもらえたこと自体が嬉しい。旅行はおまけだから今回は仕方ない」と言って慰めてくれている。それが唯一の救いだ。それでも、与えられるはずだったが失ってしまったもののことを考えてしまう。



無料で泊まれるはずだったフォーシーズンズ・リゾート。調べてみると一泊20万円からだ。そんなに良い部屋に泊まったことはないし、これからもないだろう。



滞在中に会社から毎日貰える800ドル(今の為替レートだと約10万円分使える)の小遣い。ルームサービスとかスパに使えたはずだった。



ディズニーランドにも行けたはずだった。希望者は入場チケットを会社が手配してくれ、しかも往復のバスまで出してくれる予定だった。



プールの一部エリア貸切、バーでカクテル飲み放題...。得るはずだったのに失ったものはキリがない。「上下ともに白」というドレスコードありのディナー会が予定されていたので、これに行かなくて済むようになったので多少気持ちは楽だったが。



今から考えると飛行機のチケット手配と同時にESTAの申請をしておけばよかったのだ。ESTAの手続き自体は十数分、出国の3日以上前に行えば良いと聞いていたので後回しにしてしまったのだった。



飛行機のチケットを取ったのは3月だったから、あの時行動していればビザの申請にも十分間に合っていた。完全に自分のミスだと悔やんでも悔やみきれない。



妻の会社にも行けなくなったことを連絡して、飛行機のチケットをキャンセルした。ああ、座席を確保したあの飛行機は自分達を乗せず、この夏空を軽快にも飛んでいくのだ。私はそれを地上から見上げる他にできることが何もない。



●結局のところ

最後にもう一度、ESTA申請が遅れたから行けなくなったのかと自問してみる。しかし、遅れたといっても普通なら問題ない期間での申請だ。人は合理的であっても全知ではない。ESTA申請には間に合うように行動する程度には合理的なのだ。しかし全知ではないので、それが却下されるまで、シリアの渡航が問題になるとは全く思っていなかった。



ではシリアへの渡航は、過去の自分の行動が原因なのだろうか。いや、あの頃シリアは全くの平和だった。そうであれば、たまたま自分が滞在した月がアメリカの設定した「2011年3月からの渡航歴」という基準月に重なってしまったからなのか、と考えるとどうもこの偶然の結果が今なのだろうと考えることにしている。



できる限りのことはした。コロナ対策や書類取り寄せ、情報収集、各所への連絡。



しかし、結局のところ、ネットに弾かれたボールはどちら側のコートに落ちるか誰にもわからない。自分にとってのネットがこの2011年3月ということだっただけだ。私の渡航歴というボールが偶然にもこちら側、つまりアウト側に落ちてしまっただけなのだ。



過ぎたことは仕方ない。昨日はしっかり落ち込んだので、一日経ってこうして文章を書けるほどに元気が出てきた。ちゃんとコロナ対策をしつつ、しばらく我慢していた銭湯にいくことにする。