「クジラの可能性」という謎のキーワードが4月末にTwitterなどでトレンドになった。発端は4月23日に知床半島沖で観光船が遭難した事故で、運航会社「知床遊覧船」の桂田精一社長が従業員に送ったメッセージの中にあった一文。『北海道新聞』電子版2022年4月30日付によれば、その内容はこうだ。
桂田氏は関係者とのやりとりの中で「(遊覧船が戻る際は水深が)深い所をまわるので、水が漏れるような座礁はしない。ただ、クジラに当たったり、突き上げられると穴が空く可能性はある」と話し、確たる裏付けがないまま、事故原因は高波や座礁ではなく、動物との衝突と主張していたという。
そもそも、クジラとの衝突で船が沈むことがありうるのか。過去の記録を調べてみると……。(取材・文:昼間たかし)
クジラとの衝突は過去にもあるが……
そもそも大海原で、船とクジラが衝突するなんて、そんなに起きることなのか? 調べて見ると船とクジラの衝突は、国内でも数年に一度程度は起こっていることがわかった。
最近では2019年、福岡県の博多港と韓国の釜山港を結ぶJR九州高速船のジェットフォイルがクジラと衝突する事故を起こしている。『長崎新聞』2020年4月24日付によれば、事故の概要はこうだ。
事故は昨年4月23日午前10時55分ごろ、博多港から韓国・釜山港に向かうため、時速約70キロで航行中に起きた。JR九州高速船は16年の事故でけが人が出たため、時速約74キロ以下での航行やシートベルト着用を徹底していた。
当日もクジラとの事故を避けようと、嫌がる音で排除する装置を作動させたり、仲間の船との連絡を取り合ったりしたが、船体前方の水中翼にぶつかった。
この海域では、過去にも船とクジラの衝突事故が起きている。船会社によっては対策もとっていたようだ。
同社は2005年、約4千万円をかけてビートル4隻すべてに、クジラが嫌がる音を出す水中スピーカーを取り付けた。「ピー」という高音が船の先端から進行方向180度の範囲で1キロ先まで届く。航行中は船長を含む計4人が双眼鏡などで約20キロ先を常時監視する態勢も取った。
(『西日本新聞』2006年3月23日付朝刊)
それでも、事故を100%避けられるわけではない。だから高速船に乗ると、乗客にシートベルトを着用するようアナウンスがある。
さて、クジラと高速船との衝突にも「事故多発エリア」があるようだ。対馬沖と並ぶ要注意エリアは、新潟県の佐渡島周辺。
2021年2月には佐渡汽船のジェットフォイル「つばさ」で「海水取り入れ口に大型海獣の肉片が詰まり、航行不能」(『朝日新聞』2021年2月20日付新潟版朝刊)になった。
2019年3月にもジェットフォイル「ぎんが」が「時速77キロで海洋生物と衝突。乗客121人中108人が負傷、うち46人が腰などを骨折」(『読売新聞』2020年3月26日付東京夕刊)という事故が起きている。
時速80キロ以上で運行することもある高速船は、クジラを発見しても避けきれないケースがあるようだ。
ただ、逆に高速船でなければ、船とクジラが衝突する可能性は低いもようだ。
ホエールウォッチング人気を受け、水産庁がルール策定への取り組みを始めた際、朝日新聞は「異常接近のあげくぶつかった場合、小型の船では沈みかねない」とその危険性は指摘したが、「いまのところ、船との衝突といった事故は水産庁に報告されていない」としている(1994年11月28日付夕刊)。
その後についても、ここ30年ほどの新聞を検索した限りでは、観光船とクジラの衝突事故が起きたという報道は見当たらなかった。
こうなると「クジラとの衝突」の可能性はゼロとは言えないが、今回の事故原因を考えるとき真っ先にあがってくるものではなさそうだ。いずれにせよ、事故原因がまだはっきりしない段階で、責任者が「座礁はしない」「クジラの可能性」などと従業員に説明するのは不誠実な態度といえるだろう。社長の運営・事故対応を巡っては数々の疑問が浮上しているが、一事が万事この調子では、とうぶん批判の声がやむことはなさそうだ。