2022年05月02日 10:11 弁護士ドットコム
現地の国の人とのトラブルに関しては用心する人が多いのに対し、盲点となりがちで、実はより厄介なのが「在住日本人同士のトラブル」です。
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現地でのトラブルについてはその国の法律が適用されるのが原則ですが、「外国人の問題は当事者同士で解決してくれ」と突き放されるという状況は珍しくありません。
18年間ベトナムに住んでいた筆者が、実際にあった事例を問題の背景とともに紹介し、海外生活を安全で有意義なものにするためのノウハウをお伝えします。(ライター・中安昭人)
「こんなはずじゃなかったのにな」
ベトナム・ホーチミンシティの旅行会社でマネージャーとして働く上原さん(仮名)は、ため息をつきました。彼を悩ませているのは、半年ほど前に日本で採用したITエンジニアのBさんです。
それまで自社サイトの運営は、ベトナムにある日系業者に発注していました。しかし、ウェブサイトを強化しようとした際、「外注ではなく社内に専任の担当者を置きたい」と考えました。そこで日本で求人広告を出したところ、応募してきたのがBさんです。
上原さんは、日本の本社へ出張したときに、東京の四谷にある大手カフェチェーンでBさんの面接にのぞみました。現れた彼は誠実そうな、というよりは、気の弱そうな痩せた青年。着ているスーツは借り物なのか、ジャケットは大き過ぎてダブダブです。面接にも馴れていないことが見て取れました。
「以前、スペインに1年間留学していたことがあり、日本に帰国してからも『いつかはまた海外で仕事をしたい』と思っていたんです。
エンジニアとして、食べていくことはギリギリできています。しかし、クライアントを増やそうコンペに出ても通らず、売り上げが伸び悩んでいるんです」
蚊の鳴くような声で話す彼の様子を見ていると、「コンペで口達者な同業他社に仕事を取っていかれるのも無理はないな」と上原さんは同情しました。
彼が手がけたというウェブサイトを見せてもらいましたが、動線が整理されていて使いやすく、メリハリのきいたいいデザインです。
しかし、フリーのエンジニアでやっていくには、腕だけではダメ。上原さんは、押しの強さが欠かせず、彼のようなタイプは組織内で働いていた方が真価を発揮するだろうと感じました。
ベトナム帰国後、Bさんと何度かやり取りをして、結局、採用することにしました。決め手となったのは「人柄」です。「彼ならトラブルメーカーにはならないだろう」という安心感でした。
ベトナムに来てからのBさんは、期待通り、真面目に働いてはくれました。しかし、実は融通が効かないタイプだったのです。
ウェブサイトに関して「ここが使いにくいから直して欲しい」と頼んでも、「それは使う側の問題です。慣れてください」と修正に応じてくれません。
そのうち、勤務態度も横柄になってきました。朝、出社してきたBさんに「おはよう」と声をかけても、無言で睨み返してくるだけで自分の席に座ります。
上原さんが「もう彼には付き合いきれないな」と感じた決定的な出来事は、入社半年後に発生しました。
上原さんの会社で扱う旅行商品の一つに、「ベトナムとアンコール遺跡ツアー」がありました。これを売り出すための新しいウェブページを作ろうとしたのです。これにBさんが物言いをつけました。
「実際に旅行者が泊まるのは、シェムリアップの町中ですよね。それなのにアンコール遺跡とうたうのは、虚偽の表示です。僕はそれに従うわけにはいきません。これは『ベトナムとシェムリアップツアー』という商品名にするべきです」
「君の言うことはわかる。でもね、旅行の目的はシェムリアップ観光じゃなくて、アンコール遺跡を見ることなんだ。そのような商品名ではツアーは売れないんだよ」
上原さんが何度説明しても、Bさんは聞く耳を持ちませんでした。
数日後、Bさんの方から退職を申し出てきました。
「僕はこういうブラックな会社には勤務できません。日本に帰国することにしました」
そのうえで、Bさんは、航空券、荷物の送料など帰国に関する費用を会社が全額負担するよう求めてきたのです。
入社時の条件は、「赴任する際の片道航空券のみ会社が負担」でした。引っ越しに関する費用も自己負担です。Bさんもその条件に合意しています。
しかし、Bさんは「僕が日本に帰国せざるをえなくなったのは、会社側に問題があったからです。謝罪の意味でお金を出すのが社会常識というものじゃないですか」と主張し、一向に譲る気配がありませんでした。
結局、折れたのは上原さんでした。ただし、会社の経費で出すわけにはいかず、帰国便の飛行機代、荷物の送料などすべて上原さんが自腹を切りました。
Bさんが日本に帰国して約2週間後、上原さんのところに、日本本社から国際電話が入りました。
「ホーチミンシティで勤務していたという若者が、今、怒鳴り込んできて大騒ぎになっているんです。どうなっているんですか」
怒鳴り込んできた理由を聞いて驚きました。
Bさんがベトナムに赴任する際、会社はBさん名義で海外旅行傷害保険に加入しました。これは福利厚生の一つで、契約期間は1年間。費用は会社負担ですが、Bさんは「僕は半年で帰国したから、残りの半年分の保険費用を現金で返して欲しい」と主張しているというのです。
上原さんは、電話を握りしめたまま、素早く考えました。本来ならばBさんの主張は筋が通りません。しかし、そんな理屈が通る相手ではないことは身をもって知っています。
しかも、Bさんはかなり興奮した状態で本社にやってきて、入り口で「社長に合わせろ」と受付の女性を大声で恫喝したといいます。
「すみません。お金は私が個人的に負担しますから、お金を払ってやってくれますか」
上原さんは、またも自腹を切って、Bさんの主張を受け入れるという苦渋の決断をしました。
本社の人間が封筒に入れたお金を渡すと、彼は「最初からおとなしくお金を出していればいいんだよ」と言い捨て、出されたお茶に手もつけずに去っていったそうです。
上原さんは、かつて知り合いの弁護士からこんな話を聞きました。
「『これはお金じゃなくて気持ちの問題なんだ』という人に限って、お金で解決する場合が多い。逆に法外な慰謝料などを請求してくる人は、謝りに行ったらあっさり引き下がったりする。勘定と感情は表裏一体なんです」
その話を思い出し、「冷静になって考えると、Bさんのケースはまさにこれだったのではないか」と上原さんは振り返ります。
「Bさんが退職を申し出てきたとき、私は正直に言って『これで厄介払いが出来る』とほっとしました。
ただ、国外の会社に就職するというのは、国内での転職と比べても、Bさんにとっても大きな賭けだったと思うんですよ。そんなBさんに対して『厄介払い』は失礼だったなと。
Bさんは私の気持ちを感じ取っていたに違いありません。収まらない怒りが『じゃあ、金で解決してもらおう』という行動に彼を追いやったのだろうと、私は推測しています」
今、上原さんが日本からの応募者を選考するときは、「この人が定年退職するまで面倒を見る覚悟が自分にあるか」と自問自答した上で採否を決めることにしているそうです。
【筆者プロフィール】中安 昭人(なかやす あきひと):フリーランスの編集者・ライター。1964年、大阪生まれ。約15年の出版社勤務を経て、2002年にベトナムに移住し、出版・編集業に従事。2020年からは主な活動拠点を日本に移し、ベトナムに関する情報発信を行っている。