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『カムカムエヴリバディ』がオーソドックスな“生き別れの母探しの物語”にならなかった理由

2022年04月10日 06:31  リアルサウンド

リアルサウンド

『カムカムエヴリバディ』(写真提供=NHK)

 全ての謎を解き明かし、人や場所・時間を結びつける超絶技巧で大団円を迎えた、藤本有紀脚本のNHK連続テレビ小説『カムカムエヴリバディ』。朝ドラ史上初の試みとなる3世代ヒロインの100年のファミリーヒストリーは、間違いなくこれまで観たことのない作品だった。


【写真】安子を演じたもう一人のヒロイン、森山良子


 その一方で、「感情のジェットコースター」とも言われるスピーディーな展開に「ついていけない」という声、「安子(上白石萌音)とるい(深津絵里)の和解までの物語をもっとじっくり観たかった」「安子がアメリカに行った後のるいの少女時代の葛藤なども見せてほしかった」という声も少なからずあった。


 確かに、本作のあらすじだけを譲り受け、他の脚本家が描くとしたら、2代目ヒロイン・るいを主人公に据えた「生き別れの母探しの物語」として、全く異なる、もっと湿度の高い作品を描く人が多いだろう。それがオーソドックスな手法であり、そのほうが見やすい、感情移入しやすいと感じる人もいるだろう。


 そうした場合、幼少時のるいを描き、母探しをする過程のどこかで、いったん時計の針を巻き戻し、安子の少女時代を見せる展開になると想像できる。しかし、そうした巻き戻しがなく、時間が順行であること、不可逆であることにこそ、本作の大きな意味があるのではないだろうか。


 人生において、ほとんどの人が「あのとき、別の道を選んでいたら」「もっと○○していたら」「どこでボタンを掛け違えたのか」などという分岐点や後悔を持っていることだろう。それを叶える一つの形式が、現在フィクションでは一大ジャンルとなっている異世界転生ものやタイムリープ・タイムトラベルものかもしれない。


 しかし、本作の場合の「あのとき、こうしていれば」「どこで間違えたのか」といった後悔には、100年の時代性も深く関わってくる。


「なんでこげえなことになってしもうたんじゃろ。私はただ、るいと2人、当たり前の暮らしがしたかっただけじゃのに」


 これはかつて「安子編」終盤で絶望した安子が、ロバート(村雨辰剛)に語った言葉であり、「ひなた編」最終週で、ラジオ出演した“シアトル生まれの日系アメリカ人”アニー・ヒラカワ(森山良子)が突然、岡山の和菓子屋生まれである生い立ちを日本語で告白したときの言葉だ。


 もちろんどんなに懸命に生きていても、母一人子一人の生活が、事故や体調不良で突然破綻してしまうシビアさは現代とも共通している。しかし、安子が娘からの「I hate you」をここまで重く受け止め、何もかも絶望して「消えてしまいたい」と思い詰めるに至ったのは、戦中戦後で家族をみんな失い、女性が仕事をする理解もなかなか得られず、「未亡人」となると再婚を勧められた時代背景の困難さもあるだろう。


 そして、自身の言葉を機に、喪失から立ち直り、過去と向き合い、母と、自分自身と向き合うるいにも、時間がたっぷり必要だった。


 激動の戦中戦後を駆けてきた安子、戦争の傷跡からの復興を経て、高度経済成長の真っ只中に子を産んだるい、そんな祖母・母が懸命に生きて来たからこそ、現代を生きるひなた(川栄李奈)の平和があることが、不可逆の物語だからこそ色濃く浮かび上がる。


 謝ることができるにも、許すことができるにも、もつれた糸を解くにも、気の遠くなるような時間が必要になることはある。自分自身が諦めたもつれた糸を、時を経て、子や孫が解いてくれることもある。


 例えば、るいが母を忘れようとする一方で、治療を断固拒否し、厚くおろした前髪の下に母の思い出と共にしまい続けた額の傷を受け入れてくれたのは錠一郎(オダギリジョー)だった。さらに、「旗本退屈男みたいで、かっこええ」という言葉により、コンプレックスから解放してくれたのが、ひなただ。


 やがて前髪を短く切ったるいのベリーショート姿を見るだけで、まるで親心のように涙が出てきた視聴者は多かったろう。かつて人に対して壁を作りがちだったるい。しかし、大阪での数々の出会いを経て、京都で回転焼き屋を営む生活の中で、気づけば鼻歌を歌いながら仕事をしたり、「あかにし」で親しげにボディタッチで軽く小突きながら5000円値切ったり、ひなたに英語を勉強すれば良いとポンポン肩を叩きながら勧めたりする“関西のおばちゃん”的コミュニケーションを身につけている。そんな時間の流れと共に見られる変化にも、胸が熱くなる。


 人生を積み重ねていると、幾度となく既視感に襲われることがある。似たようなことを言う人、やる人、似た雰囲気の人や、似たような出来事など。赤螺家、モモケン親子(尾上菊之助)、定一・健一・慎一(世良公則/前野朋哉)は、まさに血のなせるデジャブ的な既視感の存在だった。


 さらに、ひなたの姿を見た安子が「若い頃の自分を思い出す」と感じたり、仕事で少し接点を持っただけのアニー(安子)に、ひなたが母・るいにすら話せなかった五十嵐(本郷奏多)との再会を話したり。そうした不思議な感覚が生まれるのも、人生を積み重ねる中で得られる嬉しい結びつきだろう。


 時間は巻き戻しできず、言ったこと、やったことは取り消すことができず、元通りにはならない。しかし、生き続けていれば、思いもよらない場所に流れ着くこともあるし、ひなたの道を探していれば、いつか必ず暗闇から出られる。


 災害の多い日本で、まだ東北の復興すら進んでいない中、世界的にコロナ禍に突入。にもかかわらず、世界では戦争が今まさに行われている状況下で、暗闇から抜け出す術が見出せないと感じている人も多いのではないか。


 しかし、こんな時代だからこそ、伴虚無蔵(松重豊)の言葉が響く。


「どこで何をして生きようと、お前が鍛錬し、培い、身につけたものはお前のもの。決して奪われることのないもの」


 わかりやすい答えをすぐに求めてしまう現代において、自戒も込めて、『カムカムエヴリバディ』の不可逆の長い長い時間の中で繰り返された鍛錬の数々、そこから生み出された奇跡の数々を改めて噛み締めてみたい。


(田幸和歌子)