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高木雄也の実績に裏打ちされた力 『裏切りの街』が描く、恐ろしくも可笑しい人間模様

2022年04月03日 10:01  リアルサウンド

リアルサウンド

パルコ・プロデュース『裏切りの街』(撮影:岡千里)

 新国立劇場・中劇場にて上演された舞台『裏切りの街』。高木雄也が演劇フィールドにおいて単独初主演を果たした本作は、『愛の渦』などの三浦大輔が2010年にPARCO劇場に書き下ろし上演した作品の再演となるもの。共演に奥貫薫、萩原みのり、米村亮太朗、中山求一郎、呉城久美、村田秀亮(とろサーモン)といった手練れのプレイヤーたちを迎え、音楽は銀杏BOYZが担当。不器用な者たちによる恐ろしくも可笑しい人間模様を、華麗なアンサンブルとして舞台上に展開させた。


【写真】『裏切りの街』舞台写真


 2022年3月、およそ12年ぶりに再演の幕が上がった『裏切りの街』。当初は2020年に10年ぶりの再演が予定されていたものの、コロナ禍により中止となってしまっていた。それから2年越しの悲願の上演にして、初演から12年ぶりの待望の再演。いまだ不安定な日々が続く環境の中、本作が描く物語は息を吹き返したのだ。とはいえ、今回も順風満帆とはいかなかった。ヒロイン・橋本智子を演じる奥貫薫が新型コロナウイルスに感染したことにより十分な稽古期間が確保できないと判断し、智子の妹・裕子役である呉城久美が智子を演じ、裕子役を日高ボブ美が演じることを発表。こうして急きょ座組の配置換えがなされた状態で初日を迎え、筆者が観劇した3月23日より奥貫が復帰、当初の予定通りの座組による上演が再開した。開幕直前のキャスト変更は、舞台に立つ者にしか分からない、想像を絶する困難があったのではないかと思う。そもそも日高に関しては、三浦大輔による前作『物語なき、この世界。』にも出演していた経緯があるとはいえ、今作のキャストに配されていたわけではない。このことから、キャスト・スタッフともに、非常に優れた柔軟性を持った座組なのだということが分かるだろう。


 そんな本作が描くのは、三浦が絶えず見つめ続けてきた“人間のリアル(本質)”だ。無気力なフリーター・菅原裕一(高木雄也)と平凡な主婦・橋本智子(奥貫薫)がマッチングアプリで出会うところから物語は始まる。裕一には恋人の里美(萩原みのり)が、智子には夫の浩二(村田秀亮)がいるが、二人は逢瀬を重ね、情事を繰り返す。彼らが別れて家に帰ればそこにはそれぞれのパートナーがいて、二人はそれらしい愛情表現をする。裕一と智子に“裏切り”の自覚はない。ただそうして、日々は過ぎていくーー。東京の街に暮らす人々の生態を、途中20分の休憩をはさんだ3時間10分、私たち観客はじっくりと“観察”することになるのである。


 この物語を座長として率いるのが高木雄也だ。『薔薇と白鳥』(2018年)やミュージカル『ブロードウェイと銃弾』(2021年)などの舞台作品にてダブル主演を務めた経験はあるが、単独での主演はこれが初。筆者は本作で初めてリアルライブ空間での高木のパフォーマンスを目にしたのだが、やはり数々のステージに立ってきた実績に裏打ちされた力を感じた。彼が演じる裕一はヒモ生活を送っている男であり、「明日から変わる」などと口にしながらも泥沼から抜け出せないでいる男。恋人への裏切り行為に罪の意識はないようだが、現状に甘んじている自分を嫌悪しているフシはある。高感度のピンマイクが拾う高木の吐息は重だるく、その倦怠感は舞台上のみならず劇場全体にまで広がる。誰もが彼に対して嫌悪感を抱かずにはいられないだろうが、同時に共感も抱くのではないかと思う。これは自律できない裕一というキャラクターが“人間くさい”からだけでなく、観客をそのように誘導する高木の表現力の賜物だ。経験こそがものをいう。まさにそんな好演である。


 裕一と逢引しては情欲に溺れる智子役の奥貫薫は、先に記しているように3月23日が彼女にとっての“初日”となった。東京公演は残すところあとわずか。すでに座組が仕上がっている状態で作品の中心に立つというのは大変なプレッシャーがあったはずだと想像するが、初登場シーンから高木とともに独特な空気感を作り出し、あっという間に私たち観客をもその中に取り込んでしまった。智子は自らの意思によって裕一との関係を重ねているが、人間としては“弱い”。裕一の前で見せる静かな熱気と、夫・浩二の前での冷めた振舞い。温度感の異なる演技で一人の女性像を立ち上げた。


 映画にドラマにと話題作への出演が相次ぐ萩原みのりが演じた里美は、“第二のヒロイン”ともいえる存在だ。スクリーン越しに多くの映画ファンを魅了してきた彼女は、舞台上でも魅せる。萩原が登場するのは主として裕一と暮らす部屋のシーンであり、裕一が発する細かな情報を広い集め、それらに里美がリアクションをすることで裕一像の輪郭はより鮮明になる。自律できない裕一というキャラクターは、自立できる存在でなく、智子と里美の存在があってこそこの物語の中で存在することができるのだ。部屋のシーンでは当然ながら演技の手数が限定されるはずだが、主演俳優との“相互作用”を機能させるという自身の役割を萩原は十二分に全うしている。


 智子の夫・浩二役の村田秀亮は話芸だけで人間の多面性を露骨に垣間見せ、浩二の部下・田村を演じる米村亮太朗に関してはさすがは三浦の右腕的存在といったところ。短い出番の中でも的確に“裏切り”という主題を体現する。裕一の友人・伸二を演じる中山求一郎も非常に見どころのある若手俳優だ。この作品が観る者にシリアスな印象を与えていないのならば、それは彼の演技が発する“軽さ”によるものが大きいだろう。そして智子の妹の裕子を演じる呉城久美には、ただただ脱帽である。一人二役の場合を除いて、一つの公演期間中に二つの役を経験することはそうあることではないはず。リアルライブ空間だからこそ、嘘はすぐにバレるものだ。いったいどのようにして自身の中で折り合いをつけ、役を切り替えたのだろうか。裕子役としては脇から作品の強度を高めることに徹し、貢献していた。


 さて、東京の「街」でのできごとを描いた本作は、2年という延期期間を経て、当初予定されていたもの以上にゴワついた手触りの作品になったのではないかと思う。日本国内のみならず社会の情勢は日々激動し、海の向こう側でのできごとが、東京の小さな「街」にも大きな影響を与える。そして「街」ではさまざまな思惑が交差し、その結果、“裏切り”にも繋がる。「街」という主語を、「国」や「社会」といったより大きなものに置き換えてみるとどうだろうか。そこには世界規模で陥っている“現状”が見えてくるはずだ。劇中では他愛の無いやり取りが延々と繰り返され、私たちはそれを“観察”することになるが、「人間」を知るにはここまで肉薄する必要があるのだと改めて思い知らされる。そこから機微を読み取ることができるかどうかがカギだ。本作は12年ぶりの再演によって、いつの時代にも通用する作品であることを証明している。そしてそれは、「人間」の本質は変わらないということをも証明している。


※高木雄也の「高」は「はしごだか」が正式表記。


(折田侑駿)