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小松菜奈&坂口健太郎の“涙”が生み出すもの 『余命10年』に収められた“生きた感情”

2022年03月24日 08:01  リアルサウンド

リアルサウンド

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 小松菜奈と坂口健太郎がダブル主演を務めた『余命10年』は、多くの観客にとって特別な映画になったのではないかと思う。胸に焼き付くような忘れがたいシーンが数多くあり、なかでも俳優たちの流す「涙」がとても印象に残る作品だ。俳優たちの「涙」が、この映画を生きたものにしているのである。


【写真】『余命10年』場面写真9点


 本作はタイトルから予想できるとおり、不治の病によって余命宣告された者の人生と、その周囲の人々の日々が交差するさまを描き出したもの。20歳の時に自分が「余命10年」であると知ったヒロイン・高林茉莉に小松菜奈が扮し、彼女が中学の同窓会で再会し、やがて恋仲となる真部和人を坂口健太郎が演じている。脇を固めたのは、山田裕貴、奈緒、黒木華、リリー・フランキー、そして、原日出子に松重豊ら演技巧者たちだ。


 ジャンルとしては茉莉と和人の関係性を軸にしたラブストーリーなのだが、最終的にこの二人の関係がどのようになるのかは明白。離れ離れになるのだ。しかし本作は、“悲恋”だけでは終わらない。近い将来に死期が待っていることを知る茉莉は「恋だけはしない」と心に決めており、彼女を恋い慕う和人は器用とはいえず、二人の関係は一進一退の連続。私たちは茉莉の内情を知っていながらも気を揉まずにはいられず、これがスリリングな鑑賞体験に繋がる。それに、東京の下町などを主なロケ地とした映像の数々も美しい。“懐かしさ”と“新しさ”が同居した土地で茉莉が感じる四季の移ろいを、私たちはこの映画を通してともに体験することができるのだ。


 本作について、俳優たちの「涙」が印象に残る作品だと冒頭で述べた。俳優たちの顔を思い出すと、そこにはいつも「涙」が静かに伝っているか、あるいは堰き止める何かが決壊したかのように溢れている。茉莉の病状について希望的な和人が真実を知った際に崩れながら零す涙、原日出子演じる母に身を預けてくずおれるように溢れ出して止まらない茉莉の涙、その母娘の光景を背に感じながら涙をにじませる父役の松重豊、普段は毅然と振る舞っているものの、計り知れないほど大変な状況にあるはずの茉莉の優しさに触れ、ほとんど反射的に涙を伝わせる姉役の黒木華。俳優たちが見事なアンサンブルを展開させるシーンには最終的に「涙」が見られ、観客に強い印象を与えることだろう。「涙」そのものにクローズアップしている点も大きい。しかしこればかりだと、“悲恋”に終わってしまいかねない。だからこそ、華やかな四季の移ろう姿が対置されているのだろう。


 さて、俳優たちにとって“泣く演技”とは何なのか。そして演技における「涙」とは何なのだろうか。この疑問は、「人はどんなときに涙を流すのか?」という問いに繋がる。長らく涙を流していない方もいるかもしれないが、私たちの多くはさまざまなシーンで涙を流す。悲しくて流す涙もあれば、あまりの嬉しさから流す涙もあるだろうし、あくびをした後のように生理現象として流す涙もある。3つめの生理現象として流すものを除くと、涙とはそう簡単に流れるものではないと思う。年齢を重ねればなおのこと。人によって程度の差はあるだろうが、涙が流れるに至るには、感情の大きな動きがあるはずである。


 このことを考えると、「演技」と「涙」というものは実に矛盾したものに思えてしょうがない。そもそも「演技」とは、“技術”によって“演じて”みせるものだ。身も蓋もない言い方をすれば、それは“嘘”だということである。俳優はこの“嘘”を、いかに“真実”に近づけられるか/変えられるかを問われる職業だ。怒ったり、叫んだり、笑ったりする行為に、本当に感情がともなっているのかは判断が難しい。しかし先述しているように、涙は感情が動いた結果として生まれるもの。それは「演技」から逸脱した、極めてコントロールが困難な“真実”が垣間見える瞬間なのである(もちろん、涙を自由自在に操る特殊スキルを持った俳優もいるのだろうが……)。


 『余命10年』には数々の「涙」が見られる。「涙」が表象するものーーそれは、人間の“生きた感情”である。だからこそ「涙」が見られるシーンは、結果として胸に焼き付くような忘れがたいものとなるのだ。これを本作は繰り返し描写することで強調し、“生きること”というテーマをより全面に押し出すことを実現させている。「涙」とは「生」の証。俳優の「涙」とは、いわば映画に流れる血なのである。


(折田侑駿)