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『大長編ドラえもん』で最もカッコいいのび太が見られるのは? “失敗の日々”から抜け出した映画版の魅力

2022年03月18日 08:01  リアルサウンド

リアルサウンド

『大長編ドラえもん2 のび太の宇宙開拓史』(てんとう虫コミックス)

 新型コロナウイルス感染拡大の影響で、1年越しの公開となった『映画ドラえもん のび太の宇宙小戦争(リトルスターウォーズ)2021』が、好評を博しているようだ(興行通信社調べの観客動員数ランキングで、2週連続1位)。同作は、1985年に公開された映画のリメイクであり、藤子・F・不二雄が手がけた原作コミック――『大長編ドラえもん』のシリーズでは、第6作目にあたる物語である。


(参考:【写真】日本の帽子メーカーが本気を出したドラえもんデザインのニットキャップ


 そこで本稿では、その「大長編」シリーズにおける主人公[注1]野比のび太の存在について、あらためて考えてみたいと思う。より具体的にいうならば、同シリーズで最もカッコいいのび太が見られるのはどの作品か、という話をしたい。


[注1]一般的には、『ドラえもん』の主人公はドラえもんだと思われていることだろうが、私は、真の主人公はのび太であり、ドラえもんの役回りはメンターだと考えている。


■『ドラえもん』本編では、のび太は成長してはいけない?


 いまさら説明不要かもしれないが、『大長編ドラえもん』は、『映画ドラえもん』の公開に合わせて描かれた原作コミックのシリーズであり、第1作『のび太の恐竜』から第17作『のび太のねじ巻き都市(シティー)冒険記』までが藤子・F・不二雄によるオリジナル作品、また、(藤子の死後に制作された)第18作から第24作までが、「藤子・F・不二雄プロ」名義の作品となっている[注2]。


[注2]藤子・F・不二雄プロが手がけた作品には、「まんが版▶映画シリーズ」というシリーズ名もついている。


 ちなみに、ファンの間では、何かとこの「大長編」(と映画版)に出てくるジャイアンがカッコいい、といわれることが多いのだが、実はのび太もなかなかカッコいいのである。それはおそらく、この『大長編ドラえもん』というシリーズが、1作ごとに「少年の成長物語」として、きちんと「完結」しているからだろう。


 つまり、ある意味では、「懲りない失敗の日々」を延々と繰り返している『ドラえもん』本編ののび太とは異なり、「大長編」シリーズの彼は、物語が進むにつれ、確実に“成長”しており、それゆえに「少年漫画のヒーロー」としての魅力を醸し出しているのだ。


 逆にいえば、“のび太の成長”が最終的な「目的」である本編では、物語の構造上、連載が続く限り、彼が成長することは許されないということになる(たとえば、てんとう虫コミックス版・第6巻所収の「さようなら、ドラえもん」が、事実上の最終回とされているのは、ドラえもんとの別れを乗り越え、のび太が成長してしまったからに他ならない)。


 いずれにせよ、「大長編」で主役を張るのび太のなんとカッコいいことか。記念すべきシリーズ第1作(『のび太の恐竜』)で、恐竜ハンターに捕われた静香を助けるために、素手でティラノサウルスに立ち向かっていくのび太も捨て難いが、個人的には、『のび太の宇宙開拓史』(第2作)のクライマックスシーン――悪徳企業が雇った凄腕の用心棒・ギラーミンとの決闘に挑む、彼の勇姿を推したいと思う。


■非力な少年がスーパーマンになれる物語


 『大長編ドラえもん のび太の宇宙開拓史』は、地球から遠く離れた銀河にある開拓星――「コーヤコーヤ」を舞台にした、熱き友情の物語である。


 ある時、なぜか不思議な夢を見るようになっていたのび太は、コーヤコーヤ星のロップルという開拓民の少年と出会う。「超空間」での事故により、のび太の部屋の畳と、ロップルが乗っていた宇宙船の倉庫のドアがつながってしまったのだ。


 やがてふたりは銀河を超えた友情を育むことになるのだが、コーヤコーヤ星の開拓民たちが、トカイトカイ星に本社を持つ悪徳企業「ガルタイト鉱業」から苦しめられているということを知ったのび太は、“ある力”を利用して、ロップルたちを助けようとする(ガルタイト鉱業は、コーヤコーヤ星にある反重力エネルギーを生み出す鉱石を独占するため、開拓民たちを追い出そうとしているのだ)。


 “ある力”とは、地球の重力よりも小さいコーヤコーヤ星のそれを利用したもので、要するに、その星でなら、(地球では)非力なのび太も自然と怪力の持ち主になれるのだった。また、もともとの特技である射撃の腕前も活かして、悪者たちを撃退し、彼は、コーヤコーヤ星で「スーパーマン」と呼ばれるようになる。


 しかし、そんなことで引き下がるようなガルタイト鉱業ではなかった。業を煮やした同社の主任は、凄腕の用心棒・ギラーミンを雇い、彼が提案するコーヤコーヤ星の爆破に同意、粉々に砕け散った鉱石の欠片を回収しようとする。


 そして、惑星崩壊のカウントダウンが鳴り響く中、先に述べた、のび太とギラーミンの決闘が始まるのである。


■西部劇の演出をSFに応用した名場面


 本作に限らず、スペクタクル要素が強い『大長編ドラえもん』では、命のやり取りを描いたハードな展開が少なくないのだが、こののび太とギラーミンの決闘シーンは、とりわけ心に残る“名勝負”だといっていいだろう。それは、たとえば、第1作に出てくる恐竜ハンターたちのような下衆な連中とは違い、宿敵・ギラーミンが単なる悪役ではなく、ある種の“悪の美学”の持ち主だからかもしれない。


 最後の戦いを前にして、彼はいう。「わたしはどんな強い相手もおそれない。同時に、弱い相手もみくびらない主義です」


 つまり、ギラーミンは、のび太のことを子供ではなく、一人前の“ガンマン”として認めており、“仕事”を抜きにして、本気で射殺しようと考えているのだ(一方ののび太の武器はショックガンであり、当然、最初から相手を殺すつもりなどない)。


 なお、藤子・F・不二雄は西部劇のファンとしてもよく知られているのだが、この決闘の場面では、その趣向をふんだんに活かした“映画的”な演出が施されている(というよりも、この『のび太の宇宙開拓史』という作品自体が、ある種の西部劇へのオマージュになっている)。


 さて、それでは、このふたりのガンマンの勝負は、どういう結末を迎えるのだろうか? そして、コーヤコーヤ星の開拓民たちの運命は? 気になる方も多いとは思うが、それをここで書くのは野暮というものだろう(できれば映画版を観る前に、原作のほうを読んでほしい)。ただひとついえるのは、この時ののび太の肩には、自分をスーパーマンだと信じてくれている純粋なコーヤコーヤ星の人々の“未来”がかかっており、漢(おとこ)なら、絶対にそんな戦いに負けるわけにはいかないだろう、ということである。


(島田一志)