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『鎌倉殿の13人』北条時政・義時親子の実像 本郷和人の新書を元に紐解く

2022年03月13日 08:01  リアルサウンド

リアルサウンド

『鎌倉殿の13人』(写真提供=NHK)

 挙兵した源頼朝(大泉洋)のもとに関東の武士たちが結集し、いよいよ平家方との決戦が近づいてきた『鎌倉殿の13人』(NHK総合)。懸命に汗をかいてあちこちの武士たちと交渉を重ね、源氏の軍勢をまとめあげているのは、北条義時(小栗旬)とその父・時政(坂東彌十郎)である。


【写真】八重(新垣結衣)を励ます義時(小栗旬)


 飄々としていながら武士ならではの豪胆さも兼ね備えている時政と、どこまでも地道で実直だけど覚悟を決めたら一途な義時は、実に良いバランスの親子のように見える。だが、史実をひもといてみると、武力と策謀が渦巻く血なまぐさい鎌倉時代をサバイブしながら絶大な権力を握ることに成功した北条氏だけあって、どちらも一筋縄ではいかない人物だったようだ。


 ドラマと文献などで描かれた史実を見比べてみると、近い部分もあれば、やや離れた部分もある。もちろん、ドラマはドラマ、史実は史実だが、ふたつを重ねてみても面白い。ここでは、時政と義時が実際はどのような人物だったのかを最新の研究に照らし合わせながら見ていきたい。なお、歴史にネタバレも何もないかと思うが、今後の展開に関するネタバレも含まれる。


 まずは、ドラマの中で描かれた時政から見ていこう。第1話ではりく(宮沢りえ)との再婚を打ち明けて、娘の政子(小池栄子)らに呆れられるホームドラマの父親のような顔を見せる一方、第2話の冒頭では頼朝を追ってきた伊東祐親(浅野和之)相手に「この北条時政、命にかえても頼朝を守ってみせる!」と威勢よく失言して、北条氏より圧倒的に勢力の大きな伊東祐親や大庭景親(國村隼)との対立を決定づけてしまう。


 第3話では伊豆の目代・山木兼隆(木原勝利)への挨拶で野菜を持参するが、山木の後見人・堤信遠(吉見一豊)に野菜を踏み潰されて顔に塗りたくられる屈辱を味わうも、頼朝と挙兵した際には容赦なく討ち取ってみせる。第5話の石橋山の戦いでは、伊東と大庭を挑発するはずが、逆に挑発されて戦いの口火を切ってしまう。敗戦後は何度も頼朝を見捨てようとするそぶりを見せた。第8話では頼朝に武田信義(八嶋智人)を引き入れるために使者を任されるが、合わせる顔がないという理由でサボって酒を飲んでいる場面もあった。


 関東の田舎(京都からみたら、当時の関東ははるかかなたのド田舎だった)の小さな豪族なので都のマナーは何も知らないが、新しい階級である武士らしく血を見ることもいとわない。いい加減な面もありつつ、意地っ張りで向こうっ気が強い。気がいいだけでない、したたかな田舎の武士、それがここまでドラマで描かれていた北条時政像だろう。


 一方、文献などで語られている時政像は少々異なる。北条氏は頼朝が挙兵したときでも武士を数十人しか集められなかったように、それほど力のある一族ではなかったが、時政には当時の武士にはない特殊な能力があった。それが「読み書き」である。当時の武士は読み書きがほとんどできなかったが、時政は漢字を使ってしっかりした文章を書くことができた。


 頼朝は武士による政権である鎌倉幕府を樹立するが、武力で京都を支配しようとしなかった。むしろ、京都の朝廷との折り合いを大事にして、文官(武力以外の仕事を行う官吏)を重用したという。時政が鎌倉幕府で頼朝に任されたのは、朝廷との交渉という大仕事であり、時政は首尾よくまとめあげてみせた。鎌倉幕府で生まれた制度として学校の授業で習う「守護・地頭の設置」の許可を朝廷から与えられたのも時政である。読み書きのできない荒くれ者の集まりだった坂東武士たちの中で、頼朝とともに文官の大事さを感じていたのは時政だったと考えられる。


 とはいえ、青白いインテリだったわけでもなく、武士らしい豪胆さもあった。ドラマでは伊東祐親が留守中に頼朝と娘の八重(ドラマでは新垣結衣)が結ばれたのを知って激怒する場面があったが、実は時政も自分が留守中に頼朝が政子と結ばれたことを知って激怒していたという。政子は自ら時政を説き伏せて結婚を認めさせるのだが(すごい)、時政はこのとき、頼朝にすべてを賭けて大勝負に出たと考えることができる。


 頼朝の死後に発足した「十三人の合議制」(つまり、「鎌倉殿の13人」)には、4人の文官が含まれていたが、この人選も時政がリードしていた。さらに時政は謀略をめぐらせて13人の中のライバルを追い落とし、ついには鎌倉幕府の実権を握るが、後継者をめぐって義時と対立し、やがて追放されてしまう。ドラマでも、この後、交渉上手でキレキレでブラックな時政が描かれるのかもしれない。


 一方、ドラマの中で描かれている義時は、文献などで語られているイメージと近い。義時が若い頃から頼朝に可愛がられていたのはドラマと同じ。頼朝と亀(ドラマでは江口のりこ)の関係を知って激怒した政子の肩を持って頼朝と不仲になった時政とは異なり、義時は常に頼朝からの信頼を大事にしており、頼朝に大いに褒められたという。


 頼朝の死後、時政の陰謀によって清廉潔白な武士として知られる畠山重忠(ドラマでは中川大志)が討たれるときは、重忠との友情を重んじてギリギリまで時政を止めようとしていた。結局、義時も畠山討伐の軍に加わるが、重忠が討たれた後、武士たちの不満を感じて時政を追放してしまう。その一方で、畠山重忠に息子がいたことがわかると、反乱の芽を摘むために殺してしまう冷徹さも持っていた。


 東京大学史料編纂所教授の本郷和人氏は、義時の行動パターンを「1.まず敵対行動をためらう。2.周りに促されて、逡巡の末に立ち上がる。3.敵を討ったあとは徹底的に処理する」と分析している。これは、後に後鳥羽上皇(ドラマでは尾上松也)と対立する承久の乱でも同じである。特に1と2の部分は、これまでドラマで描かれてきた義時像とイメージが近い。まわりの声に耳を傾け、ためらいながらも行動を起こし、やるとなったら徹底的にやるというのが義時なのだ。


※参考
本郷和人『北条氏の時代』(文春新書)、本郷和人『鎌倉殿と13人の合議制』(河出新書)


(大山くまお)