『ストリートファイター6』の制作発表でゲーマーが沸いている。格闘ゲームの熱狂時代を生み出したゲームだけに世代を超えて盛り上がるのは当然。ここに格ゲーブームとキャラ萌えを生み出した歴史的作品『ストリートファイター2』の時代を思い出してみた。(文:昼間たかし)
対戦文化はここから始まった
ストリートファイター6も楽しみだ(画像はプレスリリースより)
『ストリートファイター2』がゲームセンターで稼働を始めたのは1991年3月。今では当たり前になった「対戦格ゲー」の文化は、ここから始まったと言っていいだろう。ゲームセンターで見知らぬ他人と対戦するのは、当時の子供たちにとって、とんでもなく刺激的な体験だった。
『ストリートファイター2』の歴史的価値は、ゲームシステムだけでなく対戦する文化を根付かせたことにあった。勝てばプレイ続行、負ければ終了というルールのもと勝ち続けたい、うまくなりたいというプレイヤーが続出したのだ。
コンピューター相手の1人ではなく2人、それも見知らぬ同士の対戦が多い。画面にでてくる街角での殴り合いはまるで果たし合いだ。1人で遊んでいても途中から参加、いわゆる「乱入」できるため、多くのゲームセンターでは1人で遊びたい人のために「修業中」、自信がある人のために「対戦者募集中」の札をゲーム機に掲げている。(『朝日新聞』1992年9月18日付朝刊)
それまで、ゲームセンターとはプレイヤーが一人で画面に向かって遊ぶ暗いイメージ。対戦といっても直接対決ではなく、「ハイスコア競争」が流行っていたりした。
しかし『ストリートファイター2』が巻き起こした対戦ブーム以降、見知らぬ同士の対戦や複数参加前提のゲーム機が増えてきた。見知らぬ者同士が対戦して高みを目指す。そんな凄腕たちの真剣勝負を見物する。そんな明るい熱狂の場としてのゲームセンターは『ストリートファイター2』によって生まれたといえる。スーパーファミコン版が発売された時のキャッチコピーは「俺(おれ)より強いヤツに会いに行く」だったが、実際、強いプレイヤーと出会うため各地のゲーセンを渡り歩くものもいた。
当時はゲーセンに行くと、スト2に熱中した中高生たちが、しょっちゅうケンカや言い合いをしていたものである。「待ちガイル」にブチ切れて台を叩くヤツ、「投げハメ」を食らって絶叫するヤツ……。地元ゲーセンの紳士協定で「タブー」とされていたプレイなんかをしたり、連勝したあげくに挑発的なプレイをしたりすると、一触即発の雰囲気になったりしたものだ。
「コマンド技」もスト2で定着
さて、今では当たり前すぎるが、「コマンド入力で必殺技が出るシステム」を定着させたのもスト2だった。絶妙なタイミングで技を繰り出すため、ゲーマーたちは必死の練習に明け暮れた。
翌1992年6月にスーパーファミコンに登場すると、放課後には勉強もなげうって必死に練習する風景が全国各地で見られるように。ブームは加熱し、1992年8月に両国国技館で開催された大会には、参加者が5000人も集まった。
『ストリートファイター2』のブームは日本の経済をも塗り替えた。1992年11月に発表された決算でカプコンは、売上高(393億円)は前期比約2.5倍、経常利益(約100億円)は同3.8倍と倍以上に飛躍している。
これを契機に、カプコンは大阪市中央区の現在の本社所在地を購入しているが、土地代は約80億円。建物の総工費35億5000万円を投入。さらに、まだ700人ほどだった会社に150人の大量採用を決定している(『朝日新聞』1992年11月25日付 大阪朝刊)。
その後『バイオハザード』のヒットなどで、現在は社員数3000人、海外でも多くのユーザーを持つ同社だが、その躍進のきっかけとして『ストリートファイター2』はもっとも重要な作品だったといえるだろう。
そして、この大ヒットによって日本経済に存在感を示したのが任天堂だ。1992年、任天堂の9月中間決算の売上高は前年同期比13.2%増の約2774億円、経常利益は5.5%増の約802億円に到達。初めて、松下電器産業を追い抜き企業の経常利益ランキングでトヨタ自動車、NTTに次ぐ第3位となっている。任天堂の売上の半分はスーパーファミコン。このことは、それまで日本経済を支えていた製造業が衰退しソフトパワーの時代がやってきていることを示すものだったのだ(『朝日新聞』1992年11月18日付朝刊)。
時代の転換を感じさせたシリーズの新作は、どんな夢を見させてくれるのか。なお『ストリートファイター2』はキャラクターの生年月日が設定されていたのだが、リュウは1964年7月21日。春麗は1968年3月1日。ダルシムは1952年11月22日。もし舞台が2022年だとしたら、みんな格闘は辛そうだが……。