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『ポーの一族』と「ロマンティックな天気」 ——疾風怒濤からロココ的蛇状曲線へ「マンガとゴシック」第3回

2022年02月05日 12:01  リアルサウンド

リアルサウンド

『ポーの一族』

■語られつくした名作


 楳図かずお論から引き続き、今回から女性の少女マンガ家におけるゴシック的想像力の系譜を辿っていく。楳図に『14歳』という作品があるが、その14歳のまま永遠に年を取らない不滅の美少年バンパネラ(吸血鬼)・エドガーを主人公にした、萩尾望都『ポーの一族』をまずは取り上げてみたい。18世紀中葉から20世紀まで(※2016年に再開した続編では21世紀まで)、200年を超えるタイムスケールで壮大な吸血鬼一族の愛と悲哀が描かれる。


 社会現象にさえなった吸血鬼マンガの金字塔であるから、殆ど語られつくされた感もある。代表的なところで言えば、「永遠の子供」というテーマで橋本治が『花咲く乙女たちのキンピラゴボウ』に優れた萩尾論を書いているし、「吸血鬼」というテーマでも名著『吸血鬼幻想』の著者・種村季弘が、萩尾との大変読み応えある対談を残している。ギムナジウムを中心にした「BL(同性愛)」という観点では、これはもうファンダム中心に数限りない言説があることだろう。


 では、もう付け加えることはないのか?  否、優れたテクストとは無限に解釈を開くものだ。『ポーの一族』で今まで殆ど言及されてこなかった、あるいは言及されても掘り下げられることのなかったであろう「天気」(もっと言えば雨や雷、霧といった天候不順)をテーマにしたいと思う。


参考:参考画像一覧


■吸血鬼の心模様と空模様


 どういうことか? 具体的なマンガの内容に即して話を進めていこう。以下、「小学館フラワーコミックス版(復刻版)」に準拠する。……とここでわざわざ断りを入れるのは、70年代に雑誌掲載された『ポーの一族』全15話は、まとめられた単行本・文庫によって順番が入れ替えられているからだ(それゆえ時系列順に並んでおらず、時間軸上を行きつ戻りつするので複雑化しているが、こうしたテクストの「断片化」は極めて18世紀以来のゴシック・ロマンス的手法といえる)。


   まず第一巻の巻頭を飾る「ポーの一族」という表題作からして、「雨」と「雷」が極めて印象的で、シーラ・ポーツネルがクリフォード医師にバンパネラと見破られるあたりから、俄に嵐が吹き荒れる——まるで吸血鬼と気候変動を結びつけるように。それに続く「ポーの村」では、「霧」のなかで迷ったとき、グレンスミスはエドガーの妹・メリーベルに出会い、鹿と誤って銃で撃ってしまう。そして「霧」の向こうに、吸血鬼の里がある。


 天気というか天候不順がバンパネラに結び付けられているのは明らかで、エドガーはいつも被害者のところに霧を纏うように、強風とともに窓から侵入するし、エドガーの血によって「はるかなる一族」に加えられたアラン・トワイライトとメリーベルに至っては、「湿気」に弱い吸血鬼という設定になっている。基本英国が舞台だから、雨と曇天のイメージを引きずって、吸血鬼特有の孤独なメランコリーと結びつけてるのでしょう、と解くこともできる。実際18世紀には、ヒポコンデリーという一種の男性版ヒステリーは「英国病」などとフランス人から揶揄され、イギリスの雨や気温のせいにされた。こうした気性(temperament)と気温(temperature)の照応は、古代ヨーロッパのヒポクラテス学派の四体液説から見られる伝統でもある。人間性格の四パターンが、人体を流れる四体液と四大元素(火・水・土・風。ようするに気象に関わるもの)に結び付けられた古い伝統があるのであり、アリストテレスのあまり顧みられない著作『気象論』にもそうした記載がある。


 となんだか壮大だが、『ポーの一族』に関して言えば、話はもっとピンポイントに絞られる。この200年を超える物語の骨子となるエピソード(「メリーベルと銀のばら」「ポーの一族」「エヴァンズの遺書」その他)が18~19世紀にかけてのヨーロッパ(イギリス・ドイツ)に集中しているというのが重要で、端的にロマン派が出現した時期に相当している。そしてこのロマン派が言祝いだものこそが、荒れ狂う嵐、立ち込める霧といった気象(メテオール)だった。ドイツに現れたゲーテやシラーなどの第一波ロマン派運動が「疾風怒濤(シュトルム・ウント・ドラング)」と呼ばれたことが象徴的だ。


■ロマンティック・ウェザー ——「天気の子」としてのバンパネラ


 アーデン・リードという人の『ロマン派的気象——コールリッジとボードレールの天候』(ブラウン大学出版、1983年)【図3】という大変ユニークかつ面白い本があって、以下この本をベースに『ポーの一族』お天気論を試みていく。先だって「気象(メテオール)」などと書いたが、メテオール(meteor)は今では「流星、隕石」という意味しか残っていない。しかしそれに学問を意味する「ロジー(-logy)」がくっ付くとなぜか「気象学(メテオロロジー)」の意味になることを、読者は不思議に思うかもしれない。


 メテオールは嵐、虹、風、光、霧といったいわゆる気象的な意味のほかに、元々ヨーロッパでは隕石落下や地震、火山噴火などの意味まで含まれていた。ようするにピタゴラス主義的なカッチリした「世界の調和」が乱されるような、宇宙的な不確定要素の全般を指していた。ゆえに気象(メテオール)とは不確定なもの、移り変わり易いもの、定義できないカオスなものだったわけだが、これが啓蒙主義の精密科学によって駆逐される——中谷宇吉郎の科学エッセイのタイトルを借りるならば「霧退治」が行われたのだ。


 こうして合理的思考によってむらっ気のある「気象」は排除されたのであるが、それに反旗を翻したのが非合理を言祝ぐロマン派の天気観だった。『ポーの一族』の時系列的に最初のものにあたる、エドガーがいかにしてバンパネラになったかが描かれる「メリーベルと銀のばら」(フラワーコミックス第二巻)が1744~1754年という、ちょうどプレロマン派としてのゴシックが出現する端境期に年代設定していることは見逃せない。雷雨や天変地異を愛するゴシック的感性という非合理的なものが噴出しかけていた時期に、エドガーは吸血鬼というカオス極まりない存在に転じ、時代精神を体現するのだ。


■悪魔的「雰囲気」としての霧


 ようやく「マンガとゴシック」連載にふさわしいゴシックの名が出たが、このジャンルは怪奇作家エドガー・アラン・ポーの「アッシャー家の崩壊」冒頭の、陰鬱な屋敷の描写に顕著なように、ドス黒い沼から噴き出る瘴気や、立ち込める霧といった雰囲気(アトマスフィア)や環境(アンビエンス)が重要となる。ゴシックもまたロマン派同様、曖昧で不確定な気象(メテオール)的要素が大好き、というわけだ——ambience(環境・取り巻くもの)がambiguity(曖昧さ)と同じ語源であることに留意されたい。


 萩尾の場合、吸血鬼に漂う霧のアトマスフィアは、『ポーの一族』の着想源になったという石森章太郎「きりとばらとほしと」から明確に引き継がれたものだ。特に第一部「きり」篇では冒頭に「ふしぎだ/きりの中をあるくのは! 人生とは/孤独であることだ」と(まるでエドガーのモノローグのような)ヘルマン・ヘッセの言葉の引用に始まり、霧と吸血鬼はほとんど一体化して描かれている。


石森や萩尾、そしてその先達としてのロマン派は、サタンを「霧」や「蒸気」に形容したミルトン『失楽園』の描写(※彼は「低く這う黒い霧のように」楽園に侵入した)を引き継いでいるとも言える。悪魔を不確定な霧に結び付けたのと逆に、ミルトンは神をその霧を蒸発させる太陽になぞらえられた。これを踏まえると、なぜ心臓に杭を打たれたバンパネラが「蒸発」するように消えてしまうのか分かろう。


■フィギューラ・セルペンティナータ


 ここで「天気」から少女マンガにおける「線」にテーマを引き継いでいくために、アーデン・リードの大変重要かつ示唆に富んだ文章を引用したい。「迷宮の中にいるということは、霧や雲に包まれた風景の中に囚われた状態に似ている。視界は制限され、視点は絶え間なく移り変わり、道は曖昧になり、逃走の試みは直線というより蛇状曲線(serpentine lines)のなかに巻き込まれてしまう。」(66ページ)


 なるほど『ポーの一族』の絵も、植物のようにうねりくねるアラベスクな曲線がときに窒息寸前までコマを覆いつくし、カオス的不定形に至り、読者を直線的なストーリー進行から逸脱させ、迷子にさせる「霧」となっている。大塚英志がアール・ヌーボーから少女マンガに至る植物曲線の影響関係を辿った一冊(『ミュシャから少女まんがへ』)を出しているが、ジャン・クレイの『ロマン派』を繙けばその系譜はさらにロマン派(端的にウィリアム・ブレイク)の渦狂いにまで遡れると分るし、G・R・ホッケの『迷宮としての世界』を繙けば「フィギューラ・セルペンティナータ」といってマニエリスム・アートにまで遡れるものと知れるし、マリオ・プラーツならS字・C字曲線に狂ったロココと言うだろうしで……要するに蛇状曲線という直線嫌悪のヨーロッパ的常数のなかに、『ポーの一族』の描線は位置付けられる(影響関係がどうのこうのを越えて、そうした一貫した精神的傾向があるのだ)。


 というわけで、ロココ装飾を説明したマリオ・プラーツ『ムネモシュネ』(ありな書房)の以下の一節を読みながら、ぜひ萩尾望都マンガを眺めてみて欲しい。


 こうして曲線と気象は、炎から花へ、そして滝から水滴へと次々に変容する、その気まぐれで女性的なメタモルフォーシス性から重なり合うのだ。不確定な気象と一体になったバンパネラは、さらに嘔吐寸前の蛇状曲線によって飾ることで、直線的・合理的時間を生きるしかない我々人間を翻弄・幻惑する。戦後日本の高度経済成長を支えた右肩上がりのリニアな進行に待ったをかける、停滞した時間を生きる吸血鬼のデカダンスを描くには、萩尾望都のアラベスクな曲線による「脱線」しかありえなかった——70年代日本思想を体現するマンガである、と言ってよい。


 さて、「アラベスク」と連呼したのは実は布石で、萩尾にさらにゴシックとデカダンスの要素を加味した山岸凉子(さらにこの系譜の先には楠本まきがいる)を、次回は取り扱いたいと思う。