2022年01月30日 09:51 弁護士ドットコム
近年、演劇や映画、美術など表現に関わる分野のハラスメントが社会問題となりつつあるが、その背景には、そこで働く人たちが労働者として弱い立場にあるという問題が指摘されている。
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これを重くみた文化庁も今年度、弁護士らを委員とする「文化芸術分野の適正な契約関係構築に向けた検討会議」で、契約の書面化などを進めるガイドライン作りに着手している。そうした動きに先立ち、劇団員の活動は「労働」であることを認めた異例の判決が2020年9月、東京高裁で下された。
「やりがい搾取」と批判もある業界で、画期的な判決は注目を集めたが、実際はどのようなものだったのか。原告で元劇団員の末廣大知さんに、裁判への思いを聞いた。(弁護ドットコムニュース編集部・猪谷千香)
末廣さんが俳優になろうと思ったのは、中学のときに見たテレビドラマがきっかけだった。20歳で大阪から上京、2年後の2008年に都内にある劇団に入団。この劇団は、都内に2つの劇場を運営し、ほぼ毎週のように公演をおこなっている。
「入ってから5年ほどはまったくの無給でした。仕事で劇場へ行くときの交通費が出ていたぐらいでした。深夜のバイトなどで食いつないでいましたが、当時は劇団から給料をもらうという発想自体がありませんでした」
末廣さんがそう思い込んでいたのは、なぜなのか。演劇界の特殊な構造が背景にあった。
「小規模な劇団の役者さんは、チケット売った枚数分、チケットバックをもらえるというケースが多く、場合によってはチケットのノルマが課せられていることもあります。たとえば、20枚のノルマに達成しなかったら、残りのチケットは自分で買い取って、むしろお金を支払うみたいなこともあります」
演劇はそういう世界だから仕方ない。そう思っていた末廣さんも、深夜にバイトするなどして、なんとか生活していたという。のちに、月6万円がもらえるようになったが、その分の業務が増え、生活は苦しさを増すばかりだった。
劇団では、俳優としての出演・稽古よりも、大道具・小道具・音響・照明・制作など裏方業務のほうが多かった。さらに2012年、劇団がカフェバーを開店し、末廣さんは劇団の活動をしながら、店員としても働くことになった。
日中は稽古や裏方としての仕事、夜間はカフェバーの仕事が入るなど、食事も取れず、寝る間もない日々が続いた。しかし、2016年春、限界が訪れた。
その日、末廣さんは劇場での舞台装置の解体とセットで2晩、徹夜していた。3日目、小道具の買い出しに行こうと街に出たとき、ビルのガラスにガリガリに痩せて、無精髭が生えた作業服の男が映った。
「これだけ働いているのに生活は一向に良くならず、こんな状態。これ以上は頑張るのはもう無理だ。そう思いました」
精神的にも肉体的にも追い詰められ、一時は自死しようとまで考えたという。劇団を辞めた。
「劇団を辞めてからは、頑張り切れなかった自分を責めていました。自分が悪かったんだと。一般的な常識で考えれば、業務量がおかしいことに気づくのでしょうが、とにかくそれをこなせなかった自分が悪いと思っていました。
『好きなことをやっているから辛いのは当たり前で仕方ない』と考えてしまう人が多い業界だと思います」
その後、末廣さんは演劇界を離れ、会社勤めをするようになった。
「ちゃんと眠れますし、ちゃんとご飯も食べる時間もある。劇団にいたときは眠る時間も十分に取れなかったので、遅刻することもありました。当たり前ですが、会社には遅刻せずに出勤しています。やっぱり、自分が悪いのではなく、環境が悪かったんだなと思いました」
退団後、末廣さんは労基署に相談しに行ったり、労働法を勉強したりする中、自分が強いられていたことはおかしかったのではないかと考えるようになったという。そこで、末廣さんは法的な措置をとることにした。
末廣さんは2017年4月、劇団の運営会社を相手取り、未払い賃金の支払いを求めて、東京地裁に労働審判を申し立てたが、決着がつかず、そのまま訴訟へと移行した。
東京地裁の訴訟は2019年9月、裏方業務(大道具・小道具・音響・照明)については労働者性をみとめて、会社側に対して約52万円の支払いを命じた。
ここで裁判を止めるという選択肢もあったが、末廣さんは控訴した。その理由をこう語る。
「裁判で、会社側は劇団の活動は労働ではなく、趣味でやっているものという主張をしました。あれだけ頑張っていたのに…と、それを聞いたときにはショックを受けました。ですので、地裁の判決で一部の業務について労働者性が認められたことはうれしかったです。
でも、できればもう少しちゃんと認めてもらえれば、今後、同じような問題が起きたときに、誰かの助けになるんじゃないかと思いました。やりがい搾取されている人たちが少しでも減るきっかけになればと」
末廣さんの代理人である村山直弁護士も、仮に、一審で認められなかった「出演」や「稽古」についても控訴審で労働であると認めてもらえれば、より救われる人が増えるかもしれないと、末廣さんの意見を尊重してくれたという。
東京高裁では、一審では認めていなかった出演や稽古も、会社の指揮命令に服する業務だったとして、労働者性をみとめた。1審判決を上回る画期的な判決が確定した。
「途中、辛くて裁判を投げ出したいとも思いました」という末廣さん。
「でも、その後、SNSを見ていたら、演劇関係の人が、『そういえば、労働問題の裁判があったよね、仕事でやっている以上、対価もきちんと支払うのは当然だよね』みたいなツイートをしていて、最後までやり抜いてよかったと思いました。
まだまだ自分が被害を受けているということに気づいてない人が多いと思います。自分の裁判だけで、すべて変わるとは思っていませんが、良くないことは良くないと、わかってくれる人が少しでも増えたかなと思うとうれしいです」
文化庁が2020年9月から10月にかけて、文化芸術活動に携わっている人たちを対象におこなった調査によると、個人として活動している人は8割近かった。また、雇用主・依頼主と仕事の内容や報酬について問題があった人も5割を超えていた。
個人で活動している人のうち、契約について「特に文書のやり取りはなく、メールのやり取りしかない」「特に文書のやり取りはなく、電話・対面での口頭でのやり取りしかない」と回答した人はあわせて6割を超えた。
こうしたことを受け、文化庁では「文化芸術分野の適正な契約関係構築に向けた検討会議」を設置、今年3月に適正な契約のガイドラインを公表することを目指している。
末廣さんの代理人、村山弁護士は、高裁判決の意義について次のように語った。
「働き方改革等を受け労働者保護の社会的気運が高まる中、他方で、そもそも労働者を『労働者』として扱わないような整理をすることで、労働法規の適用を逃れようとする使用者がいます。
『労働者』として認めないこと、これは極めて悪質な人権侵害の一つでもあると思います。特に、俳優、歌手や劇団員等の夢を負う仕事については、使用者側の力が強く、そこに所属する者の人権保障が不十分である実情があります。
このたびの高裁判決は、末廣さんの働き方を客観的に分析し、一審が認めた劇団員の『裏方業務』だけでなく、『出演』『稽古』についても労働であった、と認めてくれました。
この判決を機に、いくら使用者側が労働者を『労働者』として取り扱わないような工夫をしたとしても、客観的にみて労務提供等の実態があるのであれば『労働者』としての保護を受けられるということを社会全体が再認識し、文化芸術分野をはじめ、すべての業界について労働者を守る気運となれば幸いです。末廣さんはそのために戦ってきました」